林間学校から戻り、数日が経った。
教室には、すっかり普段の空気が戻っている。
窓の外には、梅雨らしい灰色の雲が広がっていた。雨こそ降っていないものの、朝から蒸し暑く、開けた窓から入ってくる風も生ぬるい。
「7月に入っちまったな……」
前の席から振り返った大輔が、机に頬杖をつきながら呟いた。
「入ったな」
「もう期末だぞ。中間が終わったと思ったら林間学校で、帰ってきたらすぐ期末って、早すぎないか?」
大輔はそう言うと、黒板脇に掛けられたカレンダーへ目を向けた。
期末考査までは、あと4日。
試験範囲はすでに発表されており、教室でも朝から教科書や問題集を開いている生徒が目立っている。
「林間学校が終わったら、そのまま夏休みでよかっただろ」
「さすがに早すぎないかな」
右隣の水瀬が、苦笑を浮かべた。
「気持ちの上では、もう夏休みなんだよ」
「実際の夏休みまでは、まだ3週間くらいあるけどね」
「数えなくていい。余計に遠く感じるだろ」
大輔は大げさにため息を吐くと、改めて俺の方を向いた。
「叶多は前回8位だったからって、余裕ぶってない?」
「別に余裕ってわけじゃ……それに、大輔も17位だっただろ」
「だからだよ。またあれだけ勉強するのかと思うと、今から気が重いんだって」
「結局やるんだろ?」
「やるけどさ。やるからって、文句まで我慢する必要はないだろ」
大輔は普段こそ軽い調子で話しているが、試験が近づけば、それなりに勉強時間を確保している。
何もせずに学年17位へ入れるほど、器用なタイプではない。
「大輔君は、文句を言いながらも最後までちゃんとやるからね」
水瀬がそう言うと、大輔は少しだけ満足そうに眉を上げた。
「それだよ。そういう評価が欲しかったんだよ」
「まあ、文句を言いながらでも、ちゃんとやってるのは偉いと思うぞ」
「だろ?」
「褒められた途端、元気になったね」
「やる気を維持するには、周りからの評価も必要なんだよ」
大輔がもっともらしい顔で言う。
先ほどまで気の重そうな顔をしていたのが嘘のようだった。
教室の中では、期末考査について話している生徒が多い。
試験範囲を確認する声や、放課後に一緒に勉強しようと誘う声が、あちこちから聞こえてくる。
一方で、まだ林間学校の話をしている生徒もわずかに残っていた。
吊り橋が怖かっただとか、飯ごう炊さんで米を焦がしただとか。
数日前まで教室中で聞こえていた話も、今では休み時間に時折耳へ入る程度になっている。
林間学校が終わり、期末考査が近づき、その先には夏休みが待っている。
7月に入った途端、時間の流れが急に早くなったように感じられた。
そうしているうちに、教室前方の扉が開いた。
担任が入ってきたのを見て、立ち歩いていた生徒たちが、それぞれの席へ戻っていく。
水瀬も前へ向き直り、大輔も自分の席へ座り直した。
「ホームルームを始めるぞ」
担任は教卓へ出席簿を置き、教室を見渡した。
「期末考査まであと4日だ。試験範囲はすでに伝えられていると思うが、変更や追加がないか、各教科でもう一度確認しておくように」
教室のあちこちから、わずかにため息が漏れた。
大輔も何か言いたそうにしていたが、黙ったまま筆箱からペンを取り出している。
口ではあれだけ文句を言っていても、準備を怠るつもりはないらしい。
「それから、期末考査が終わったあとの予定についても連絡しておく」
担任が手元のプリントを持ち上げる。
前の席から順番に用紙が回されてきた。
受け取った紙には、答案返却や短縮授業、終業式までの予定がまとめられている。
さらに、その下には、水泳授業開始についての項目も記載されていた。
期末考査が終わっても、すぐに夏休みというわけではないらしい。
「体育については、10日から水泳授業に入る。初回は2時間続きだ。水着や水泳帽など、必要なものは事前に確認しておけ」
担任の言葉に、教室がわずかにざわついた。
男子の反応は、素直に楽しみにしている者と、何となく落ち着かない様子の者に分かれている。
女子たちは近くの席同士で顔を見合わせ、プリントの日付を確認していた。
「水泳授業は男女合同で行うが、更衣場所と着替えの時間は完全に分ける。プールサイドでの待機場所についても、教師の指示に従うこと」
担任はそこで一度言葉を切り、教室を見渡した。
「それと、浮かれて余計な問題を起こさないように。本人だけでなく、クラス全体の授業にも影響が出るからな。節度を持って行動しろ」
先ほどまでざわついていた男子たちが、そろって口を閉じた。
「ほかの予定は、プリントに書いてあるとおりだ。紛失しないように」
担任が出席を取り始め、教室の空気も少しずつ落ち着いていった。
右隣では、水瀬が配られた予定表を丁寧にファイルへしまっている。
前を見ると、大輔は水泳授業の日付に丸をつけていた。
期末考査の日程には、何も書き込んでいない。
何に期待しているのかは、聞かなくても分かった。
☆
昼休み。
俺は弁当を持って、大輔たちと一緒に食堂へ向かった。
昼休みになったばかりだというのに、食堂の中はすでに多くの生徒で賑わっている。
大輔と水瀬が昼食を受け取りに行っている間に、俺は空いていたテーブルを確保した。
「期末が終わったら、いよいよ夏って感じだよな」
トレーを手に戻ってきた大輔が、俺の向かいへ腰を下ろした。
朝のうちは気が重そうだったが、昼になるころには、すっかり普段どおりに戻っている。
「まだ終業式までは少しあるけどね」
水瀬も隣の席へ座りながら答えた。
「そこはもう誤差だろ。水泳が始まって、答案が返ってきたら、あとは夏休みを待つだけだ」
「期末が終われば、一気に夏休みが近く感じるだろうね」
大輔は満足そうに頷き、定食の唐揚げを口へ運んだ。
「そういえば、お前らは夏休み、何か予定あるのか?」
大輔が、俺と水瀬を順番に見る。
「僕は部活かな、大会もあるし」
「叶多は?」
「バイトがある。あとは、普通自動二輪の合宿免許に行くつもりだ」
「合宿免許?」
大輔が箸を止めた。
「ああ。夏休みに入ったら、10日ほど泊まり込みで行く」
「バイクに乗るのか?」
「そのつもりだ」
「お前、もう免許を取れる歳だったっけ?」
「今はまだ15だ。7月12日が誕生日なんだよ」
「12日って……もうすぐじゃん」
「そうだな」
大輔は、初めて聞いたと言わんばかりに目を丸くした。
「なんで今まで言わなかったんだよ」
「別に隠していたわけじゃない。話す機会がなかっただけだ。誕生日なんて、そんなに気になるものか?」
「あるでしょ」
すぐ近くから声が聞こえ、そちらへ顔を向ける。
昼食を受け取ってきた千夏と瑞葉が、トレーを手に立っていた。
「友達の誕生日なんだから、普通は気になるよ」
千夏はそう言い切ると、空いていた席へトレーを置いた。
瑞葉もその隣へ座る。
「瑞葉も知らなかったよね?」
「うん。叶多から誕生日の話を聞いたことはなかったかな」
「自分から言うことでもないと思ってたんだよ」
「そういうところ、叶多らしいけどさ」
「それで、夏休みに合宿免許へ行くの?」
「ああ。店長にも、その間は休ませてもらえるように話してある」
「10日って、結構長いんだね」
瑞葉が驚いたように言う。
「合宿だからな。その分、通うより早く取れる」
「帰ってきたら、すぐバイクを買うのか?」
大輔の問いに、俺は頷いた。
「免許が取れたら買うつもりだ。候補はもう決めてある」
「もう決めてるのかよ」
「前から調べてたからな」
「叶多って、こういうところは準備が早いよね」
千夏が感心したように言う。
「でも、バイトに合宿免許って、それだけで夏休みが終わっちゃわない?」
「全部埋まってるわけじゃない」
「じゃあ、みんなでどこか遊びに行こうよ」
「海」
大輔が間を置かずに答えた。
「大輔、早いって」
瑞葉が小さく笑う。
「夏休みなら海だろ。ほかに何があるんだよ」
「夏祭りとか、花火とかもあるでしょ」
「それも行けばいいじゃん」
千夏と大輔が、早くも夏休みの予定を並べ始める。
「叶多は、いつなら空いてる?」
「合宿の日程は決まってる。あとはバイトのシフト次第だな。早めに決めてくれれば、店長には相談できる」
「じゃあ、期末が終わったら、みんなにも聞いて決めよう」
千夏がそう言うと、大輔もすぐに頷いた。
まだ期末考査すら始まっていない。
それでも、夏休みの予定について話している間だけは、試験まであと4日という現実を少し忘れられた。