扉の向こうから、湿った空気と塩素の匂いが流れてくる。
屋外プールの水面が、朝の日差しを反射しながら揺れていた。
男子は指示された場所へ集まり、女子が出てくるのを待つ。
少し遅れて、反対側の更衣室から女子たちも姿を見せた。
女子用の学校指定水着も、紺色を基調とした落ち着いたデザインで統一されている。
普段とは違う格好をした女子たちが現れたことで、男子側の空気がわずかに変わった。
それまで話していた何人かが急に黙り、どこを見ればいいのか迷ったように正面を向く。
ピッ、と短く笛が鳴った。
「はい、そこまでー。出席番号順に並べ」
花城先生の声を受け、生徒たちが慌てて指定された場所へ並ぶ。
「初回だから、今日は先に説明するぞ。話が終わる前に、勝手に水へ入るなよ」
花城先生は首に下げた笛を指先で弄びながら、並んだ生徒たちを見渡した。
「押すな、引っ張るな、水の中でふざけるな。プールでの悪ふざけは、洒落にならないからな」
普段と変わらない気だるげな口調だったが、最後の一言だけは少し低い。
先ほどまで浮ついていた空気が、自然と静まった。
「体調が悪い奴は我慢せずに言え。見学者は、あっちのベンチで待機な」
花城先生はプールサイドの一角を指さすと、手元の名簿を開いた。
「じゃあ出席を取るぞー。呼ばれたら返事しろ。そのあと準備運動な」
花城先生が名簿を上から順に読み上げ、生徒たちが返事をしていく。
欠席者も見学者もおらず、出席確認が終わると、そのまま準備運動へ移ることになった。
「全員いるな。それじゃ、男女で分かれて準備運動。間隔空けろよー」
花城先生の指示に従い、俺たちは両腕を広げてもぶつからない程度に間隔を取った。
女子はプールを挟んだ反対側へ並んでいる。
腕を回しながら前を見ると、少し離れた位置にいる大輔が、いつもより落ち着かない様子で視線を動かしていた。
口元もわずかに緩んでいる。
楽しみにしていたのは知っていたが、ずいぶん分かりやすい。
「梅原」
花城先生の気だるげな声が飛んだ。
「はい?」
「鼻の下伸ばしてないで、ちゃんと腕回せ」
「伸ばしてませんって!」
「いいから、準備運動はしっかりしておけよ」
「本当に違いますから!」
「はいはい。分かったから前向けー」
花城先生に軽くあしらわれ、大輔は不満そうな顔をしながら正面へ向き直った。
隣に並んでいた水瀬が、声を抑えて笑っている。
「大輔君、楽しみにしてたもんね」
「そりゃまあ、女子と一緒の水泳を楽しみにしてなかったって言ったら嘘になるけどさ」
「正直だね」
「でも、じろじろ見てたわけじゃないぞ」
「分かってるよ」
「なら笑うなよ」
大輔が小声で抗議する。
花城先生とのやり取りは女子側にも聞こえていたらしく、千夏が呆れたように笑っていた。
一通りの準備運動を済ませると、花城先生がプールの手前へ移動した。
「じゃあ、次は水に慣らすぞ。いきなり飛び込むなよ。端に座って、足から入れー」
男女それぞれが指定された場所へ移動し、プールサイドへ腰を下ろす。
足を水へ入れると、思っていたより冷たかった。
「冷たっ」
大輔が思わず声を上げる。
「日差しがあるから、もう少し温かいと思ったな」
「入れば慣れるよ」
水瀬が足で軽く水をかき混ぜる。
俺も膝下まで水へ入れ、冷たさに身体を慣らしていった。
「顔を洗ったら、ゆっくり入れ。押した奴は即見学だからな」
その言葉に、後ろからふざけて押そうとしていた男子が、何事もなかったように手を引っ込めた。
花城先生は見ていないようで、きちんと見ているらしい。
水を手ですくって顔へかけたあと、プールサイドへ手をつきながら、ゆっくり水中へ入る。
胸元まで水に浸かると、最初に感じた冷たさも少しずつ薄れていった。
「今日は最初に、どのくらい泳げるか確認するぞー。25メートルを1本。速さは競わなくていいから、無理せず泳げ」
花城先生がプールの反対側を指さした。
「泳ぎ切れない奴は途中で立っていい。泳げない奴も隠すなよ。できないところから練習するための授業だからな」
説明を聞き、生徒たちは出席番号順に数人ずつ分かれた。
最初の組がスタート位置へ並ぶ。
合図と同時に泳ぎ始めると、水しぶきが上がった。
真っすぐ進む者もいれば、途中で大きく左右へずれてしまう者もいる。
「競争じゃないぞ。隣を気にするなー」
花城先生が声をかける。
泳ぎ終えた生徒は、反対側のプールサイドへ上がり、指定された場所へ移動していった。
「次の組、準備」
何組かが泳ぎ終わり、俺たちの番が近づいてくる。
前では大輔が肩を回し、妙に気合いを入れていた。
「速さは競わなくていいって言われただろ」
「分かってる。でも、やるなら速い方が格好いいだろ」
「力みすぎると途中で疲れるよ」
水瀬が穏やかに忠告する。
「大丈夫だって。25メートルくらい、一気に行ける」
そう言い切った大輔は、自分の番になると勢いよく壁を蹴った。
最初の数メートルは確かに速かった。
だが、勢いに任せて水しぶきを上げすぎたせいか、半分を過ぎたあたりから明らかに動きが鈍くなる。
それでも何とか泳ぎ切り、反対側の壁へ手をついた。
「はぁ……思ったより遠いな、25メートル……」
「最初から飛ばしすぎだね」
少しあとに到着した水瀬が、苦笑を浮かべる。
水瀬の泳ぎは、大輔ほど派手ではなかったが、余計な力が入っておらず安定していた。
俺も遅れて壁へたどり着く。
特別速くはないが、途中で止まることなく泳ぎ切ることはできた。
花城先生は俺たちの泳ぎを確認すると、手元の名簿へ何かを書き込む。
「水瀬、泳ぐのも得意なんだな」
息を整えている水瀬へ声をかけた。
「得意ってほどじゃないよ。一通り泳げるだけ」
「一通りであれなら、十分だろ」
速さだけでなく、泳ぎ方にも無駄が少なかった。
「俺も最初の勢いなら負けてなかっただろ」
大輔が隣から口を挟む。
「途中で失速したら意味がないんじゃないかな」
「次は配分を考える」
まだ競うつもりらしい。
俺たちはプールから上がり、後ろに続く生徒たちの邪魔にならない場所へ移動した。
やがて男子の確認が終わり、続いて女子の番になる。
千夏は緊張した様子もなく、軽快に25メートルを泳ぎ切った。
瑞葉も速くはないが、落ち着いた泳ぎで反対側までたどり着いている。
花城先生は1人ずつ泳ぎを確認しながら、名簿へ記録を書き込んでいった。
ほかの女子たちも順番に泳ぎ終え、やがて姫岡さんの名前が呼ばれる。
「次、姫岡」
姫岡さんが静かにスタート位置へ移動した。
濡れた前髪が顔に張りつき、普段以上に表情が分かりづらい。
「無理そうなら、途中で立っていいからな」
「……はい」
短く答えた姫岡さんは、プールの反対側を見つめる。
少し身体が固くなっていた。
どうやら、泳ぎにはあまり自信がないらしい。
合図を受け、姫岡さんがゆっくりと壁を蹴った。
泳ぎ方は平泳ぎだった。
手足の動きは小さく、進む速度も速くはない。それでも、最初のうちは少しずつ前へ進んでいた。
だが、半分ほど進んだところで動きが止まる。
姫岡さんはプールの底へ足をつき、顔に張りついた前髪を片手で押さえた。
「そこまででいい。無理するなよ」
花城先生に声をかけられ、姫岡さんが小さく頷く。
「……はい」
姫岡さんは残りの距離を歩き、プールの端から上がった。
泳げないわけではなさそうだが、25メートルを続けて泳ぐのは難しいようだ。
その後も残っていた生徒が順番に泳いでいく。
途中で立つ者もいれば、余裕を持って泳ぎ切る者もいた。
全員の確認が終わると、花城先生は名簿を閉じ、プールサイドに並んだ俺たちを見渡した。
「だいたい分かった。それじゃ、これから練習する場所を分けるぞ」
花城先生がプールの各レーンを順番に指さす。
「25メートルを余裕を持って泳げた奴は1、2レーン。泳ぎ切れたけど、まだ余裕がない奴は3、4レーン」
続いて、端の2レーンを示した。
「途中で立った奴と、泳ぎに自信がない奴は5、6レーンだ。できないことを気にする必要はないから、勝手に無理するなよ」
花城先生の指示に従い、生徒たちがそれぞれの場所へ移動していく。
水瀬と千夏は1、2レーンへ。
俺と大輔、瑞葉は中央の2レーンへ移動した。
姫岡さんは、泳ぎに不安のある生徒たちと一緒に端のレーンへ移動している。
「直樹、やっぱり向こうか」
大輔が水瀬のいるレーンへ目を向けた。
「泳ぎ方が綺麗だったからな」
「俺も途中までは速かったんだけどなあ」
「最後まで保たなければ意味がないだろ」
「次はちゃんと配分するって」
大輔はまだ水瀬と競うつもりらしい。
「3、4レーンはビート板を使ってバタ足。そのあとクロールを確認するぞ」
花城先生がまとめて置かれていたビート板を指さした。
「1人1枚持っていけ。取り合うなよー」
俺たちは順番にビート板を受け取り、プールへ戻る。
ビート板の端を両手で持ち、壁を蹴った。
顔を上げたまま足を動かしていると、普通にクロールをするよりも進みにくい。
隣では、大輔が勢いよく水しぶきを上げていた。
「梅原、力を入れすぎ。もう少し小さく足を動かせ」
「はい!」
花城先生に指摘され、大輔の水しぶきが少しだけ小さくなる。
返事だけは素直だった。
俺も足の動きを意識しながら、反対側まで進んでいく。
何度か往復したあとは、クロールの呼吸や腕の動きを確認した。
花城先生はレーンの横を歩きながら、気になった生徒へ短く声をかけている。
「槻山、息を吸ったあとに顔を戻すのが少し遅いな」
「はい」
「梅原は、さっきよりましになった。その調子で力を抜け」
「分かりました」
褒められたのが嬉しかったのか、大輔は少し得意そうな顔をしていた。
しばらく練習を続けたところで、休憩を知らせる笛が鳴る。
「一度上がれー。日陰で休憩。勝手に水へ戻るなよ」
俺たちはプールから上がり、指定された日陰へ移動した。
タオルで顔を拭きながら腰を下ろすと、身体に程よい疲労が残っている。
「朝から泳ぐのも、思ったより疲れるな」
大輔がタオルで頭を拭きながら言った。
「最初から飛ばしすぎなんだよ」
「次はもう少し力を抜く」
何度も注意されたことで、さすがに自覚したらしい。
休憩を終えると、俺たちは先ほどと同じレーンへ戻った。
水瀬たちのレーンでは、何度も25メートルを往復している。
速さだけならほかに上の生徒もいたが、水瀬は泳ぎ方が安定しており、往復してもほとんど崩れていなかった。
端のレーンでは、姫岡さんたちがビート板を使って練習している。
姫岡さんも先ほどより落ち着いた様子で、短い距離なら足をつかずに進めていた。
それぞれが何度か練習を繰り返したところで、花城先生が笛を鳴らす。
「はい、一度集まれー」
俺たちはプールから上がり、花城先生の前へ集まった。
「まだ時間があるから、最後に水中バレーをやるぞ」
花城先生が、プールサイドに置かれていた大きなビーチボールを持ち上げる。
その言葉に、生徒たちから楽しそうな声が上がった。
「4チームに分かれて、2チームずつ対戦。1チーム9人な。女子は2人ずつ入るように分けるぞ」
花城先生が名簿を見ながら、手早くチームを決めていく。
俺は大輔、千夏、瑞葉たちと同じチームになり、水瀬は別のチームへ分けられた。
「直樹と敵か」
大輔が向かい側にいる水瀬を見る。
「やるからには負けないからな」
「水遊びなんだから、そこまで気合いを入れなくてもいいと思うけど」
「勝負になったら別だろ」
水瀬は苦笑しながら、自分のチームへ移動した。
「試合に入るのは6人。残りの3人は1点入るごとに交代な」
花城先生が中央のコースロープを指さす。
「相手側の水面にボールを落としたら1点。5点先取で勝ち。押すな、引っ張るな、無理に飛びつくな。ボールより安全優先だからな」
先に別の2チームが対戦し、俺たちはプールサイドから試合を見守った。
水の中では思ったように動けないため、目の前に落ちたボールを取り損ねる者も多い。
それでも試合はかなり盛り上がり、得点が入るたびに歓声が上がった。
最初の試合が終わると、俺たちと水瀬たちのチームがプールへ入る。
俺と大輔、千夏、瑞葉は最初から試合に出ることになった。
中央のコースロープを境に、両チームが向かい合う。
立っていれば問題のない深さだが、水の抵抗があるため素早く動くのは難しい。
「それじゃ、始めるぞー」
花城先生がボールを高く放り投げた。
短い笛の音と同時に、両チームが動き出す。
最初に触れたのは相手チームの男子だった。
打ち上げられたボールが、水瀬へ渡る。
「大輔、前!」
「分かってる!」
水瀬がこちらの空いている場所を狙ってボールを打った。
大輔が手を伸ばしたが、わずかに届かない。
その後ろにいた千夏が、落ちる直前のボールを両手で弾き上げる。
「叶多!」
こちらへ飛んできたボールを受け、相手側へ打ち返した。
ボールは男子2人の間へ落ち、こちらに最初の1点が入る。
「よし!」
千夏が嬉しそうに声を上げた。
「いいところに返したね」
「千夏が拾ったからだろ」
「でしょ?」
千夏は満足そうに笑う。
試合が進むにつれ、プールの中は賑やかになっていった。
大輔も何度かボールを弾き返したが、力が入りすぎて味方が取りづらい場所へ飛ばしてしまっている。
「大輔、力入れすぎ!」
千夏が声を飛ばした。
「取れてるんだからいいだろ!」
「味方が取れないところに飛ばしてどうするの!」
「次はちゃんとやる!」
そう言った直後、大輔が打ち上げたボールは、俺たちの後方へ大きく飛んでいった。
「ごめん!」
「言ったそばから!」
千夏が水をかき分けてボールを追う。
俺も反対側から、落下地点へ向かった。
ボールは、俺たちのちょうど間へ落ちてくる。
「取れる!」
千夏が手を伸ばした。
俺も同時に腕を伸ばした瞬間、千夏の足がプールの底で滑る。
「あっ――」
体勢を崩した千夏が、反射的に俺の腕をつかんだ。
支えようとしたが、水の中では踏ん張りが利かない。
そのまま引かれるように俺も体勢を崩し、2人そろって水中へ倒れ込んだ。
一瞬、視界が水に包まれる。
すぐに底へ足をつき、千夏の身体を支えながら水面へ顔を出した。
「ぷはっ……!」
「千夏、大丈夫か?」
「う、うん……」
千夏は俺の肩へ両手を置いたまま、大きく息をしていた。
濡れた前髪の隙間から、いつもより大きく見開かれた目がこちらを見ている。
思っていた以上に顔が近い。
「どこか痛めてないか?」
「……大丈夫」
返事はあったが、千夏はすぐには離れなかった。
肩に置かれた指先に、わずかに力が入る。
「千夏?」
「えっ……」
名前を呼ぶと、千夏の肩が小さく跳ねた。
そこでようやく我に返ったらしい。
「ち、近い……」
「千夏がつかんでるからな」
「あっ……!」
千夏は慌てて手を放し、水を跳ねさせながら一歩後ろへ下がった。
「私が急につかんだから……ごめん」
「怪我がなかったならいいよ」
「……うん。ありがとう」
千夏は小さく答え、俺から視線を逸らした。
そのとき、すぐ近くでボールが水面へ落ちた。
ピッ、と鋭く笛が鳴る。
「そこで止まれ。2人とも大丈夫か?」
「はい。怪我はありません」
「はい。私も大丈夫です」
俺たちの返事を聞き、花城先生がプールサイド際に浮かんだボールを見る。
「なら続けるぞ。ボールは落ちたから、相手チームに1点な」
「あっ……」
「何やってるんだよ、2人とも!」
少し離れた場所で、大輔が悔しそうに声を上げた。
「今度は周りを見て動けよー」
花城先生がボールを拾い上げ、再び中央へ投げ入れる。
試合はその後も続いたが、千夏はさっきまでの調子を取り戻せていなかった。
試合が再開して間もなく、ふと千夏と目が合いかけた。
千夏はすぐに視線を外し、その直後に飛んできたボールへの反応が遅れる。
結局、試合は水瀬たちのチームが5点目を取り、そのまま終了となった。
「はい、遊びはここまで。全員上がれー」
花城先生の指示に従い、生徒たちが順番にプールから上がっていく。
「今日は初回だから、泳力の確認を中心にした。次からは、それぞれの場所で練習を進めるぞ」
使ったビーチボールやビート板を片づけ、男女それぞれの更衣室へ戻る。
女子更衣室の方へ歩いていた千夏が、途中で一度だけ振り返った。
視線が重なる。
千夏は一瞬だけ目を見開いたあと、何でもないように笑ってみせた。
けれど、その笑顔は普段より少しぎこちない。
どうやら千夏は、水中で顔を近づけたことを意識しているらしい。
そう考えると、俺までさっきの距離を思い出してしまう。
俺も小さく笑い返し、男子更衣室へ向かった。