7月17日。
1学期最後の教室は、朝からいつもより騒がしかった。
授業はなく、終業式と最後のホームルームを終えれば夏休みに入る。
教室へ入ってくる生徒たちも、普段よりどこか浮ついて見えた。
「ついに夏休みだな!」
鞄を机の横へ掛けた大輔が、こちらを振り返りながら声を上げる。
「まだ終業式も始まってないぞ」
「今日なんて、もう休みみたいなもんだろ。授業もないし」
「学校を出るまでは1学期じゃないかな」
右隣の席へ座った直樹が、穏やかな口調で言った。
「直樹までそんなこと言うのかよ」
「でも、気持ちは分かるよ。僕も夏休みは楽しみだからね」
「だろ?」
「うん。ただ、まだ終業式が残っているってだけで」
「真面目だなあ」
直樹は困ったように笑いながら、机の横へ鞄を掛けた。
「直樹は夏休みも部活だろ?」
「うん。練習もあるし、大会も控えているからね」
「1年からスタメンって、改めて考えてもすごいよな」
「先輩たちについていくので精いっぱいだよ」
「それでも試合に出るんだろ?」
「その予定ではあるよ」
本人は控えめに言っているが、1年生でスタメンに選ばれている時点で、部内でもかなり評価されているはずだ。
「俺なんて帰宅部だから、予定のない日は完全に自由だぞ」
「夏休みの課題があるだろ」
「それは予定に入れなくていい」
「入れないと八月の終わりに困ると思うよ」
「未来の俺がなんとかする」
「その未来の大輔君も、同じことを言っていそうだね」
直樹の返しに、思わず笑ってしまう。
「何の話してるの?」
声のした方を見ると、千夏たちがこちらへ近づいてきていた。
瑞葉と七瀬さん、神崎さんも一緒だ。
「大輔が夏休みの課題を未来の自分に任せるって話だよ」
「絶対、最後に泣くやつじゃん」
千夏が呆れたように言う。
「俺は追い込まれてから力を出すタイプなんだよ」
「提出日の前日に言い訳するタイプの間違いじゃない?」
「だいたいは出してるから問題ない」
「たまに遅れてるけどね」
瑞葉にまで言われ、大輔が不満そうに口を尖らせる。
「みんなして俺に厳しくないか?」
「心配してるんだよ」
「火野さんに言われても信じられねえ」
「じゃあ、心配してない」
「それはそれで傷つくんだけど」
千夏は大輔の抗議を軽く流すと、俺の机へ手を置いた。
「叶多も、前に決めた予定は変わってないよね?」
「ああ。海も夏祭りも大丈夫だよ」
「合宿で忘れたりしない?」
「忘れるわけないだろ」
「ならよし」
それだけ確認すると、千夏は満足そうに頷いた。
寿司を食べに行った時に、全員の予定を確認して決めてある。
今さら日程を調整し直す必要はない。
「直樹の大会も、都合が合えば応援に行きたいよね」
瑞葉が言う。
「詳しいことが決まったら、グループに送るよ」
「私も行けそうなら行く」
「私もぉ」
七瀬さんが眠そうな声で続く。
「ちゃんと起きられるの?」
「昼なら、たぶん」
「試合が始まる時間によると思うよ」
直樹が苦笑する。
「千夏、当日起こして」
「そこまで面倒見ないって」
「じゃあ、前の日に連絡して」
「それくらいならしてあげる」
結局面倒を見るらしい。
七瀬さんは安心したように、千夏の肩へ軽く寄りかかった。
やがて予鈴が鳴り、教室に散らばっていた生徒たちが、それぞれの席へ戻っていく。
その少しあと、花城先生がいつものジャージ姿で教室へ入ってきた。
「はーい。全員いる?」
出席簿を片手に教壇へ立ち、教室を見渡す。
「もう夏休みみたいな空気になってるけど、まだ終業式が残ってるからね」
「今日は授業ないですよね?」
明日香が尋ねた。
「ないよ。終業式と通知表と掃除だけ」
「じゃあ、ほとんど夏休みじゃないですか」
「学校から出るまでは1学期です」
先生の言葉が、先ほどの直樹と重なる。
「水瀬と同じこと言ってる」
大輔が小声で言うと、直樹がこちらを見て笑った。
「それじゃ、廊下に並んで。最後の日くらい静かに移動してね」
椅子を引く音が教室内に広がる。
「梅原君、走らない」
「まだ立っただけですよ!?」
「先に言っておかないと走りそうだから」
「俺の信用どうなってるんですか」
「1学期の行動から判断してるよ」
教室のあちこちから笑い声が上がる。
大輔は納得していない様子だったが、今度は本当に走ることなく廊下へ出た。
☆
終業式は、特に変わったこともなく進んだ。
校長先生から1学期を振り返る話があり、生徒指導の先生から夏休み中の注意事項を聞く。
事故や病気に気をつけること。
夜遅くまで出歩かないこと。
危険な場所へ立ち入らないこと。
毎年、大きくは変わらない内容なのだろう。
話が長くなるにつれ、体育館の中には少しずつ気の抜けた空気が広がっていった。
少し前に並んでいる大輔は、何度か体重を左右の足へ移している。
女子の列にいる七瀬さんに至っては、立ったまま眠りそうな顔をしていた。
隣にいた千夏が肩を軽く突くと、七瀬さんは薄く目を開ける。
そのまま注意を受ける生徒もおらず、終業式は無事に終わった。
教室へ戻ると、黒板の前には通知表と夏休みの課題が並べられていた。
「席について。先に課題を配るよ」
花城先生の言葉に、教室の空気が少しだけ重くなる。
前から順に回されてきた冊子を受け取り、中身を確認した。
国語、数学、英語の問題集に、理科と社会のプリント。
ほかにも、いくつかの教科からレポートや提出物が出ている。
極端に多いわけではない。
ただ、後回しにすれば八月の終わりに苦労する程度の量はあった。
「多い……」
後ろから、七瀬さんの気だるげな声が聞こえた。
「まだ中身をほとんど見てないでしょ」
千夏が言う。
「厚さで分かるぅ」
「夏休みは長いんだから、少しずつやれば終わるって」
「その少しずつが難しい」
「生徒会室で宿題する日もあるんだろ?」
大輔が俺へ尋ねる。
「ああ。俺は合宿中にあまり進められないだろうから、ちょうどいいよ」
「叶多はその前にもやるんでしょ?」
瑞葉が言った。
「できる範囲では進めておくつもりだよ」
「やっぱり」
「全部残しておくより楽だからな」
七瀬さんが、机の上に置いた課題と俺を交互に見る。
「叶多君、五日までにどれくらいやる?」
「まだ中身を見ただけだから、そこまでは決めてないよ」
「じゃあ、私も同じくらいやる」
「俺の進み具合が分からないだろ」
「あとで聞く」
「自分で決めようよ」
千夏に言われ、七瀬さんは課題を鞄の中へしまった。
「じゃあ、次は通知表ね。名前を呼ばれた人から取りに来て」
前の席から順に名前が呼ばれていく。
通知表を受け取った生徒たちは、自分の席へ戻るなり中身を確認していた。
「槻山君」
「はい」
教卓の前へ立つと、花城先生が通知表を差し出した。
「槻山君は問題なし。この調子でね」
「はい。ありがとうございます」
短いやり取りを終え、自分の席へ戻る。
通知表を開くと、音楽と体育が4で、それ以外はすべて5だった。
試験や提出物、授業態度には問題がない。
音楽は筆記や鑑賞こそ悪くなかったものの、歌唱の評価まではどうにもならなかったらしい。
体育も真面目に取り組んではいるが、運動神経は悪い方だ。どちらも予想していた範囲だった。
「叶多、どうだった?」
前の席から大輔が小声で尋ねてくる。
「音楽と体育が4で、あとは5だった」
「それでも、ほとんど5じゃねえか」
「音楽が4なのは、やっぱり歌?」
千夏がこちらを振り返った。
「ほかに思い当たるところがないから、たぶんな」
「筆記はできるのにね」
「知識があっても、音程は取れないからな」
「体育は?」
「運動神経がよくないからな。実技では、5を取れるほどじゃなかったんだろ」
「自分のこと、冷静に見てるよね」
「昔から分かってることだからな」
そのあと、直樹も通知表を受け取って戻ってくる。
「直樹は?」
大輔がすぐに尋ねた。
「全部5だったよ」
「やっぱりオール5かよ」
「試験や提出物に問題がなかったからね」
「勉強だけじゃなくて体育まで5なの、ずるくないか?」
「ずるくはないと思うよ」
直樹は困ったように笑いながら、通知表を鞄へしまった。
学年1位で、バスケ部でもスタメン。
授業態度にも問題がないのだから、すべて5でも不思議ではない。
「梅原君」
「はい」
今度は大輔が呼ばれ、教卓へ向かう。
花城先生は通知表を手渡す前に、一度中身へ目を落とした。
「梅原君も成績は問題なし」
「よかった」
「試験もきちんとできてるし、5が取れている教科もあるよ。ただ、提出物はもう少し余裕を持って出そうね」
「一応、ほとんどは間に合ってますよね?」
「ほとんどはね。でも、たまに遅れてるでしょ」
「……ありました」
「そこだけ気をつければ大丈夫」
「分かりました」
大輔は通知表を受け取り、普段と変わらない様子で戻ってきた。
「どうだった?」
「5が3つで、ほかは4。3はなし」
「十分じゃないか」
「だろ?」
大輔は満足そうに通知表を机へ置いた。
「提出物を早く出せば、5が増えるかもしれないってさ」
「なら、2学期は早めに出すといいんじゃないかな」
直樹が言う。
「分かってるんだけど、期限まで日があると後回しにしたくなるんだよ」
「それで毎回ぎりぎりになるんだろ」
「でも間に合ってる」
「今、先生からその考えを直せって言われてただろ」
「夏休みの課題から変わる予定だ」
「いつから始めるの?」
直樹に尋ねられ、大輔は少し考えた。
「明後日」
「明日は?」
「夏休み初日だから休む」
「さっそく後回しにしてないか?」
「初日くらいはいいだろ」
「大輔君らしいね」
直樹は注意するよりも先に、諦めたように笑った。
☆
通知表の配布が終わると、1学期最後の掃除に移った。
机を運び、床や窓際を普段より少し丁寧に片づけていく。
大輔が話してばかりで花城先生に注意される場面もあったが、大きく時間がかかることはなく、教室はすぐに元の状態へ戻った。
全員が席へ着くと、花城先生が教壇へ立った。
「夏休みだからって、生活を崩しすぎないこと。課題は早めに終わらせること。事故や病気にも気をつけてね」
そこで一度言葉を切り、教室全体を見渡す。
「2学期に、全員元気に戻ってくればそれでいいから」
普段は面倒そうに話す先生だが、最後はきちんと担任らしい言葉で締めた。
「じゃあ、今日はこれで終わり。日直、号令お願い」
号令に合わせて礼をする。
その瞬間、教室のあちこちから一斉に声が上がった。
1学期が終わり、夏休みが始まったのだ。
すぐに教室を出る生徒もいれば、友人同士で予定を話し始める生徒もいる。
俺も配られた課題を鞄へ入れた。
「叶多、免許が取れたら連絡してね」
「ああ。無事に取れたらな」
「バイクもすぐに買うの?」
「そのつもりだよ」
「海に行く日までには届きそう?」
「どうだろう。契約してから納車まで時間がかかるだろうし、たぶん間に合わないと思う」
「そっか。じゃあ、届いたら見せてね」
「ああ」
「楽しみにしてる」
それだけ言うと、千夏は七瀬さんたちのところへ戻っていった。
俺も鞄を肩へ掛け、教室を出ようとする。
「……か、叶多君」
後ろから、小さな声で名前を呼ばれた。
振り返ると、姫岡さんが自分の鞄を胸の前で抱えるようにして立っていた。
「姫岡さん。どうかした?」
「その……少し、いい?」
「ああ」
姫岡さんは、まだ教室に残っている生徒たちを気にするように視線を動かした。
何か話したいことがあるらしい。
「外で待ってるよ」
俺の様子を見た直樹が言う。
「悪い」
「大丈夫。ゆっくりでいいよ」
直樹は大輔と一緒に教室を出ていった。
姫岡さんは2人の姿が見えなくなるのを待ってから、鞄の中へ手を入れた。
取り出したスマホの画面には、大きなイベント会場の写真が表示されている。
「な、夏休みのことで……」
「うん」
「8月7日に、ゲームショウがあるの」
「ゲームショウ?」
「いろんな会社が参加して、新しいゲームを試したり、発表を見たりできるイベントで……」
好きなものの説明になったからか、姫岡さんの声が少しだけ滑らかになる。
「まだ発売されてないゲームも遊べるし、今年は『ヴァンガード・フレーム』っていう新作も出るみたいで……」
「それ、どんなゲーム?」
「人型兵器を動かして、みんなで任務を攻略するロボットアクションなの。機体や武器を組み替えられるだけじゃなくて、選んだ種族によって戦い方そのものが変わるらしくて……」
「種族?」
「う、うん。空中戦が得意だったり、近接戦に特化してたり、重装甲の機体で砲撃したり……。種族ごとに新しく操縦者を育てられるから、機体や武器を組み合わせながら、自分だけの戦い方を作れるの」
姫岡さんの声が、わずかに弾んだ。
「姫岡さんが好きそうなゲームだな」
「うん。すごく楽しみ」
姫岡さんはそう答えると、少しためらうように指先を合わせた。
「それと、お父さんが|KLAEIN INTERACTIVE ENTERTAINMENT《クライン・インタラクティブ・エンターテインメント》で働いてて……ゲームショウの優待チケットをもらったの」
クラインといえば、家電や映像機器を中心に、情報通信や半導体、エンターテインメントまで幅広く手がける世界的な企業グループだ。
その傘下にあるクライン・インタラクティブ・エンターテインメントは、家庭用ゲーム機『
「優待チケット?」
「一般の人も試遊できるんだけど、少し早く入れたり、一部の試遊で優先受付が使えたりするみたいで……」
そこまで話すと、姫岡さんは一度口を閉じた。
「それで、その……か、叶多君がよかったら、一緒に行かない?」
「俺も一緒に行っていいのか?」
「うん」
姫岡さんが小さく頷く。
「叶多君はゲームに詳しくないって言ってたけど、いろんな種類を少しずつ試せるから……初めてでも、楽しめると思う」
「確かに、それなら俺でも遊べそうだな」
「でも、興味がなかったら、無理にとは……」
「興味はあるよ」
「……本当?」
「ああ。姫岡さんが楽しそうに話してたから、一度ちゃんと見てみたいと思ってた」
姫岡さんの肩から、わずかに力が抜けた。
「それに、俺一人で行っても何を見ればいいか分からないからな。姫岡さんが一緒なら助かるよ」
「だ、大丈夫。会場の地図も、出展される作品も調べておくから」
「頼りにしてる」
「うん」
姫岡さんが大きく頷く。
「じゃあ、一緒に行こうか」
「……いいの?」
「ああ。8月7日だよね? その日は空いてるよ」
「本当!?」
「ああ」
念を押すように聞かれ、もう一度頷いた。
姫岡さんはしばらく動かなかった。
返事を理解するまで、少し時間がかかったようにも見える。
「……よかった」
小さく漏れた声は、普段よりもずっと柔らかかった。
「時間や集合場所は、あとで決めよう」
「うん。メッセージ、送る」
「分かった。楽しみにしてるよ」
「……私も、楽しみ」
スマホを大事そうに鞄へ戻す。
前髪で表情は隠れているが、口元にはわずかに笑みが浮かんでいた。
「それじゃ、また連絡するね」
姫岡さんは小さく頭を下げる。
「ああ。またな」
「……また」
姫岡さんは千夏たちとは別の方角へ歩いていった。
教室に残っている生徒も、すでに少なくなっている。
俺は鞄を持ち直し、廊下へ出た。
「話は終わったか?」
少し先の窓際で待っていた大輔が声をかけてくる。
「待たせたな」
「姫岡さんと何話してたんだ?」
「夏休みにゲームショウへ行かないかって、姫岡さんに誘われた」
「2人で?」
「ああ」
「林間学校の時も、姫岡さんとゲームの話で盛り上がってたもんな」
大輔が納得したように頷く。
しかし、すぐに何かへ気づいたように俺の顔を見た。
「それにしても、女子と2人で出かけるのかよ」
「そうなるな」
「……叶多、すげえな」
「何がだよ」
「普通に女子から誘われて、そのまま2人で出かけるんだぞ。しかも、全然動揺してないし」
「ゲームショウへ行くだけだろ」
「いやいやいや、女子と2人っきりで行くのがすげーって言ってんの」
大輔は、どこか畏れるような目を俺へ向けた。
「叶多君はゲームに詳しくないんだよね?」
直樹が尋ねた。
「ああ。だから、姫岡さんに教えてもらうつもりだよ」
「それなら、いろいろ教えてもらえるといいね」
三人で昇降口へ向かう。
廊下の窓から差し込む日差しは強く、外からは蝉の声が聞こえていた。
「直樹はこのあと部活か?」
「うん。今日は午後から練習だよ」
「終業式の日くらい休みにすればいいのにな」
「大会も近いからね」
「俺は帰ったら寝る」
大輔が堂々と言う。
「明日から夏休みなのに、今日から寝るのか?」
「1学期を頑張った自分へのご褒美だ」
「まぁ今日くらいは、ゆっくりしてもいいんじゃないかな」
「だろ?」
「ただ、夏休みの課題まで後回しにしすぎないようにね」
「分かってるって」
直樹の言葉にも、大輔はまったく気にした様子がない。
「叶多は明日バイトだったよな」
「ああ。明後日は午前中に宿題を進めて、午後からバイク店へ行く予定だ」
「合宿に行く前から忙しいな」
「最初に進めておいた方が、あとが楽だからな」
「俺とは逆の考え方だ」
「大輔君も少しは見習うといいんじゃないかな」
「俺は追い込まれてから力を出すタイプなんだ」
「追い込まれる前に動けばいいだろ」
「それができたら苦労しない」
昇降口で靴を履き替え、校舎の外へ出る。
夏の日差しが一気に降り注ぎ、熱気が肌へまとわりついた。
1学期は終わった。
明日はカフェのアルバイト。
その次はバイク店へ下見に行き、すぐに10日間の合宿免許が始まる。
海や夏祭りだけでなく、姫岡さんと出かける予定も増えた。
どうやら今年の夏休みは、のんびり過ごす時間の方が少なくなりそうだ。
けれど、不思議と嫌な気はしなかった。
俺は2人と並び、蝉の声が響く校門へ向かって歩き出した。