7月18日。
夏休み初日の朝、俺は洋食喫茶トネリコへ向かっていた。
昨日までなら制服姿の生徒が多かった駅前も、今日は普段と少しだけ人の流れが違う。
部活動へ向かう生徒もいるが、私服姿の学生や親子連れの方が目についた。
駅前の大通りから少し外れた道へ入り、見慣れた店の前で足を止める。
入口の扉を開くと、頭上のベルが軽やかな音を立てた。
「おはようございます」
「おはよう、槻山君」
カウンターの奥から、店主の乾宗一郎が穏やかな声を返す。
すでにエプロンを身につけ、開店前の準備を進めていた。
「今日から夏休みだったね」
「はい。昨日が終業式でした」
「夏休み初日からアルバイトか。槻山君らしいね」
「特に予定もありませんでしたから」
「僕が同じ年の頃なら、昼まで寝ていたかもしれないなあ」
宗一郎さんはそう言って笑った。
「明後日から、合宿免許だったよね?」
「はい。しばらく店には入れません」
「戻ってきたあとも、学科試験があるんだったかな」
「そこで合格しないと、免許は交付されませんから」
「無事に取れるといいね。バイクを買ったら、僕にも見せてよ」
「もちろんです」
挨拶を終え、店の奥で仕事着へ着替える。
手を洗って厨房へ入ると、営業用の食材が調理台へ並べられていた。
仕込みの進み具合を確認し、まだ終わっていない作業から手をつける。
玉ねぎを切り、スープの状態を確かめ、付け合わせに使う野菜を整えていく。
開店時刻を迎える頃には、いつ注文が入っても対応できる状態になっていた。
☆
夏休みに入った影響か、その日の昼は学生や親子連れが普段より多かった。
定番のオムライスやハンバーグに加え、クリームソーダやアイスコーヒーの注文が次々と入る。
俺は厨房で料理を作りながら、手の空いた時間に盛りつけや洗い物も進めていった。
慌ただしかった店内が落ち着いたのは、午後2時を回った頃だった。
最後に入った注文を出し終え、使用した調理器具を洗っていると、宗一郎さんが冷蔵庫の中を確認しながら口を開く。
「やっぱり、暑い日は冷たいものがよく出るね」
「今日は特に多かったですね」
「クリームソーダも、普段の倍近く出てるよ」
宗一郎さんは冷蔵庫の扉を閉め、客席へ目を向けた。
まだ何組か残っているが、先ほどまでの慌ただしさはない。
「槻山君。少し相談してもいいかな?」
「はい」
「夏休みの間、季節限定の商品を出そうと思っていてね」
「新しいメニューですか?」
「うん。料理でもいいんだけど、今日の様子を見ると、冷たいデザートの方が喜ばれそうだと思って」
トネリコにも、プリンやアイスクリームといった定番の甘味はある。
ただ、現在は季節限定の商品を出していない。
「何か考えているものはありますか?」
「最初はパフェも考えたんだけど、注文が重なると盛りつけに時間がかかるからね。昼の忙しい時間に出すには、少し大変かなと思って」
「先に仕込んでおけるものの方がよさそうですね」
「そうなんだ。槻山君なら、何か作ってみたいものはある?」
すぐには答えず、店の設備や客層を思い浮かべる。
学生や会社員が中心で、家族連れも訪れる。
価格は高くしすぎず、食後でも重くならないものがいい。
注文を受けてからの作業も、できるだけ少ない方が昼の営業には向いている。
「桃を使うのはどうでしょうか」
「桃か。どんなデザートにするのかな?」
「パンナコッタと合わせようと思っています」
宗一郎さんが興味を持ったように、わずかに身を乗り出した。
「桃とパンナコッタか。どんな形にするの?」
「下にミルクのパンナコッタを入れて、その上に桃のコンポートと紅茶のジュレを重ねます」
「紅茶も使うんだね」
「桃とパンナコッタだけだと甘さが続きますから。紅茶の香りと少しの渋みがあれば、最後まで重くならないと思います」
「なるほど」
「仕上げにレモンの皮を少し削れば、香りも軽くなります」
宗一郎さんは、完成した姿を頭の中で想像しているらしい。
少し考えたあと、穏やかに笑った。
「涼しそうでいいね。透明なグラスに入れれば、見た目も綺麗になりそうだ」
「はい」
「問題があるとすれば、桃の仕入れかな」
「いつもの青果店へ相談できますか?」
「できるよ。今朝も、旬に入ったからって桃を何個か見本に持ってきてくれたんだ」
「それなら、コンポート用と飾り用で分けて頼むのがいいと思います」
「分ける?」
「コンポートにする分は、多少形が悪かったり、小さな傷があったりしても問題ありません。その代わり、上に飾る分は状態のいいものが必要です」
「なるほど。加工用なら、少し安く回してもらえるかもしれないね」
「仕入れ値を抑えられれば、販売価格も高くしすぎずに済みます」
「そこまで考えてくれたんだ」
「店の商品にするなら、味だけでは決められませんから」
宗一郎さんは感心したように頷いた。
「それじゃあ、試しに作ってみてもらえるかな?」
「材料があれば」
「さっき話した桃を使おう。生クリームと牛乳もあるし、紅茶は店で出しているもので大丈夫かな?」
「ジュレには、香りの強い茶葉を使いたいです」
「アールグレイならあるよ」
「それで試してみます」
宗一郎さんが冷蔵庫から、青果店にもらった桃を3個取り出した。
どれもよく熟していて、試作には十分使えそうだ。
「販売するなら、僕も同じように作れないといけないね」
「はい」
「それなら、最初から僕も一緒に作った方がよさそうだ」
「そうですね。手順を確認しながら、同じ配合でそれぞれ作りましょう」
「お願いするよ」
俺が作ったものと、宗一郎さんが作ったもの。
両方を同じ時間だけ冷やし、仕上がりを比べることにした。
必要な材料を調理台へ並べ、まずはパンナコッタから取りかかる。
牛乳と生クリームを合わせ、砂糖を加えて火にかける。
沸騰させないよう温度を見ながら混ぜ、十分に温まったところで火を止めた。
「砂糖は控えめなんだね」
「桃とジュレにも甘みをつけるので、パンナコッタまで甘くすると重くなります」
「全部を一緒に食べた時に、ちょうどよくするんだね」
「はい」
戻しておいたゼラチンを溶かし、細かな網でこす。
粗熱を取ったあと、透明なグラスへ均等に注いだ。
「少し柔らかめに固めます」
「桃やジュレと馴染みやすくするためかな?」
「そうです。固すぎると、口の中でパンナコッタだけが残ってしまいますから」
俺の作業を見たあと、宗一郎さんも同じ手順でパンナコッタを作っていく。
店を長く営んできた料理人だけあって、説明したことをすぐに理解していた。
俺と宗一郎さんが作ったグラスを、それぞれ冷蔵庫へ入れる。
続いて、桃のコンポートへ取りかかった。
皮に浅く切れ目を入れ、短時間だけ熱湯にくぐらせる。
冷水に移すと、皮は力を入れなくてもきれいに剥けた。
飾りに使う桃は、盛りつける直前に切ることにした。
残りの果肉を切り分け、コンポートに使う。
「砂糖の量は、桃によって変えるのかな?」
「はい。桃の甘さを見て調整します」
「槻山君がいない時も作れるように、目安を決めておいた方がよさそうだね」
「そうですね。基本の分量を決めて、桃の状態に合わせて少しだけ増減する形にしましょう」
「判断の基準も教えてもらえるかな?」
「はい。具体的には――」
桃を味見しながら、甘みや酸味によって砂糖の量をどう変えるか宗一郎さんへ説明する。
「なるほど。最初に桃の味を確かめればいいんだね」
「はい。レシピにも分かるようにまとめておきます」
「助かるよ」
切り分けた桃を煮崩さないよう、弱い火で短く煮る。
火を止めたあとは煮汁の中に残し、余熱でゆっくり味を含ませた。
最後に作るのは紅茶のジュレだ。
アールグレイを普段より少し濃く抽出する。
ただし、長く蒸らしすぎれば渋みが強くなる。
時間を計り、香りが十分に出たところで茶葉を取り除いた。
「いつもの紅茶より濃いね」
「ジュレにすると香りが弱く感じるので、その分だけ濃くしています」
「なるほど」
「茶葉の量と抽出時間も、レシピに書いておきます」
「うん。お願いするよ」
砂糖とゼラチンを溶かし、浅い容器へ流す。
宗一郎さんも同じ手順で作り終えると、それぞれに印をつけて冷蔵庫へ入れた。
パンナコッタとジュレが固まるまでには、2時間から3時間ほどかかる。
その間に休憩を取り、夕方の営業に向けた準備を進めることになった。
☆
午後5時前。
冷蔵庫からグラスを取り出すと、どちらのパンナコッタも十分に固まっていた。
グラスを軽く揺らせば、表面が柔らかく震える。
狙っていた固さだ。
紅茶のジュレも、一緒に食べやすい柔らかさに仕上がっていた。
「どちらも問題なさそうだね」
「はい。盛りつけてみましょう」
パンナコッタの上へ、崩した紅茶のジュレを重ねる。
桃のコンポートを盛り、煮汁を少量だけかけた。
最後に生の桃を薄く切って飾り、レモンの皮をほんの少し削る。
透明なグラスの中で、白いパンナコッタ、琥珀色のジュレ、淡い桃色の果肉が層になっていた。
「綺麗だね」
宗一郎さんが素直に感想を口にする。
「夏らしい見た目にはなったと思います」
「これなら、メニューの写真にも映えそうだ」
俺が作ったものと、宗一郎さんが作ったものをカウンターへ並べる。
外見だけでは、ほとんど違いは分からない。
「それじゃあ、食べ比べてみようか」
「はい」
まず俺の作った方へスプーンを入れ、桃とジュレ、パンナコッタを一緒にすくう。
宗一郎さんは口へ運んだあと、ゆっくり味を確かめるように目を細めた。
「うん。おいしい」
「甘さはどうですか?」
「桃はしっかり甘いけど、紅茶の香りがあるから後に残らないね。思っていたより軽いよ」
「パンナコッタの固さは?」
「ちょうどいいと思う。柔らかいけど、崩れすぎてもいない」
次に、宗一郎さんが作った方も味見する。
甘さも固さも、ほとんど変わらない。
「こちらも問題ありません」
「本当?」
「はい。味も固さも、ほとんど違いはありません」
「よかった。それなら、槻山君が合宿へ行っている間も出せそうだね」
宗一郎さんが安心したように笑った。
俺も自分の作ったものを口へ運ぶ。
味のバランスは悪くない。
ただ、店の商品として考えるなら、まだ少し調整した方がよさそうだった。
「桃を少し減らしてもいいかもしれません」
「多いかな?」
「単品で食べるならこのままでもいいですが、食後のデザートとしては少し多いです。それに、桃を使いすぎると価格も上がります」
「確かに、気軽に追加できる値段にはしておきたいね」
「コンポートを少し減らして、その分ジュレを増やしましょう」
「見た目が寂しくならないかな?」
「飾り方を変えれば大丈夫です。桃を重ねるのではなく、グラスの縁に沿わせれば、量を減らしても見栄えは変わりません」
「なるほど。それなら、もう少し軽く食べられそうだ」
宗一郎さんは用意していたメモへ、変更する分量を書き加えていった。
「商品名はどうしよう?」
「内容が分かりやすい名前がいいと思います」
「『夏桃と紅茶のパンナコッタ』はどうかな」
「いいと思います。季節限定だということも伝わります」
宗一郎さんが商品名の横へ丸をつける。
「桃の仕入れについては、今日のうちに青果店へ聞いてみるよ。コンポート用と飾り用で分けられるかも確認しておくね」
「固まるまで時間がかかるので、数量限定にした方がいいですね」
「最初は1日30食くらい用意してみようか」
「それくらいなら、売れ方を見るにも十分だと思います。桃の入荷量に合わせて、数を調整しましょう」
「売り切れたら、その日は終了だね」
「はい。増やす場合は、冷蔵庫の空きも確認した方がいいと思います」
「そうだね。まずは30食から始めてみよう」
宗一郎さんは、書き終えたレシピをもう1度確認した。
「桃の仕入れが決まれば、来週から出せそうだよ」
「俺が合宿へ行っている間ですね」
「うん。戻ってきた頃には、人気商品になっているかもしれない」
「そうなったら嬉しいです」
「僕としては、毎日すぐ売り切れるようになったら、少し困るけどね」
「その時は、仕込みの数を増やすしかありませんね」
「冷蔵庫と相談しながら考えるよ」
宗一郎さんは穏やかに笑い、レシピの書かれた紙を店のファイルへ丁寧に挟んだ。
自分の料理を作ることと、店の商品を考えることは違う。
味だけでなく、仕入れ、価格、作業時間、保存場所まで考える必要がある。
さらに、自分以外の人が作っても同じ仕上がりになるよう、手順と判断基準を決めなければならない。
前世では当たり前のようにしていた仕事だ。
こうして改めて向き合うと、懐かしさと同時に楽しさも感じた。
試食を終えたあとは、残っていた洗い物を片づけ、夕方に入った注文へ対応する。
午後6時になり、俺の勤務時間が終わった。
店の仕事着から私服へ着替え、帰り支度を整える。
「今日はありがとう、槻山君」
店を出る前に、宗一郎さんが声をかけてきた。
「こちらこそ、試作をさせていただいてありがとうございました」
「仕入れ先から返事が来たら、連絡するよ」
「はい」
「それと、明後日からの合宿も気をつけてね」
「ありがとうございます。戻ったら、またよろしくお願いします」
「こちらこそ。無事に免許を取って帰ってきてね」
「はい。行ってきます」
扉を開けると、傾き始めた日差しと夏の熱気が肌へ触れた。
こうして、夏休み初日のアルバイトが終わった。
明日は午前中に宿題を進め、午後からバイク店へ行く予定だ。
帰ってからは、合宿免許へ向かう準備もしなければならない。
そして、明後日からはいよいよ10日間の合宿が始まる。
慣れない場所での生活に加え、実技と学科の両方をこなさなければならない。
のんびり過ごせる夏休みにはなりそうもなかった。
それでも、自分の考えたデザートが店に並ぶかもしれないと思えば、悪くない夏休みの始まりだった。