7月20日。
朝早くに家を出た俺は、電車と送迎バスを乗り継ぎ、県外にある教習所へ到着した。
市街地から離れた場所にあり、敷地の周囲には低い山と田畑が広がっている。
駐車場の奥には広い教習コースがあり、その向こうに校舎と宿泊施設が並んでいた。
今日から29日まで、卒業検定の合格を目指す。
前世では、普通自動車だけでなく普通二輪の免許も持っていた。
仕事が忙しくなるまでは、休日によくバイクで出かけていた。
クラッチやギアの操作は覚えているが、最後に乗ってからはかなりの時間が経っている。
昔の感覚を過信せず、最初から教わるつもりで臨んだ方がいいだろう。
送迎バスから荷物を下ろし、ほかの参加者と一緒に受付のある建物へ向かう。
夏休みを利用しているのか、高校生や大学生くらいの若者が多い。
普通自動車の免許を取りに来た者もいれば、俺と同じ普通二輪の参加者もいるようだった。
受付で名前を伝え、必要な書類を提出する。
本人確認と視力検査を終えると、受付の女性から予定表と宿泊施設の鍵を渡された。
「槻山さんは普通二輪ですね。荷物を置いたあと、12時50分までに第3教室へお越しください」
「分かりました」
「宿泊施設は、この建物を出て右手です。昼食はそちらの食堂を利用してください」
「ありがとうございます」
簡単な案内を受け、宿泊施設へ移動する。
指定された部屋へ荷物を置き、予定表に目を通した。
朝から夕方まで技能と学科が組まれており、空いている時間はそれほど多くない。
10日間で教習を終えるのだから、当然だろう。
食堂で昼食を済ませたあと、指定された教室へ向かった。
中にはすでに何人もの参加者が集まっている。
空いていた席へ座り、受付でもらった書類を机の上に置いた。
しばらくすると、後方の扉が開く。
教室へ入ってきた女子に、周囲の視線が集まった。
両側を短く刈り上げ、長く残した黒髪を後ろへ流している。
鋭い目つきに加え、耳にはいくつものピアスが並んでいた。
黒を基調にした服装も相まって、かなり近寄りがたい雰囲気だ。
本人は周囲から見られていることなど気にせず、空いている席を探して教室を見回した。
通路に置かれていた鞄の前で足を止める。
「それ、どけろよ。通れねぇだろ」
「あ、ごめん」
持ち主らしい若い男が、慌てて鞄を足元へ引き寄せる。
女子は何も言わず、その横を通り過ぎた。
声を荒らげたわけではない。
それでも、相手が反射的に従うような圧があった。
女子は後方の席へ腰を下ろし、頬杖をつく。
やがて教官が入ってくると、入校説明が始まった。
合宿中の決まりや教習の流れを聞いたあと、出席の確認が行われる。
「
「はい」
先ほどの女子が、短く返事をした。
それが彼女の名前らしい。
☆
適性検査を終えたあとは、教習で使用する装備の説明を受けた。
長袖と長ズボンに着替え、ヘルメットや各種プロテクターを身につける。
屋外へ出た途端、強い日差しが身体へ降り注いだ。
「今日は気温が高いので、待っている間も水分を取ってください。少しでも体調が悪い場合は、すぐに申し出るように」
教官の注意を聞き、全員で返事をする。
参加者はいくつかの班に分けられ、俺と久我も同じ班になった。
初日の技能教習は、車両の取り回しと基本操作から始まる。
最後にバイクへ乗ってから長い時間が経っていたが、車体の支え方や動かし方は覚えていた。
教官の説明どおりに何度か繰り返すうち、少しずつ昔の感覚が戻ってくる。
教官の指示に従い、教わった内容を順番にこなしていった。
「久我さん、力だけで押さないでください。もう少し車体を身体へ寄せましょう」
「分かった」
久我は愛想のない返事をしたものの、教官の指示には素直に従った。
最初は勢いに任せていたが、姿勢を直すと安定して教習車を動かしていく。
飲み込みも悪くないらしい。
教習が進み、クラッチをつないで短い距離を走る。
久しぶりに聞くエンジン音と、身体へ直接伝わる振動。
以前は当たり前だった感覚が、今は妙に新鮮だった。
初日の教習は、大きな失敗もなく終わった。
☆
合宿が始まってから数日が過ぎた。
朝から学科と技能教習を受け、夕食後はその日の復習をする。
同じことの繰り返しに見えて、教習内容は少しずつ難しくなっていた。
発進と停止、変速、カーブ、坂道発進。
前世で経験したことのある操作でも、検定で求められる手順には細かな決まりがある。
余計な癖を出さず、教官から指示されたとおりに練習を続けた。
久我とは毎日同じ班だったが、言葉を交わす機会はなかった。
俺は出席確認で彼女の名字を覚えていたが、向こうにとって俺は、同じ班にいる男子の1人にすぎないだろう。
久我は覚えが早く、1度注意されたことはすぐに直していた。
休憩中は少し離れた場所で1人で過ごし、ほかの参加者と話すこともほとんどない。
特に男子へは、自分から声をかけようともしなかった。
ただ、通路を塞がれたり、何かを動かす必要があったりすれば、ためらわず短く指示を出す。
頼むというより、相手が従うことを疑っていない口調だった。
見た目と態度のせいか、久我に視線を向けられただけで場所を空ける者もいる。
誰かと親しくする気はなさそうだが、人を動かすことには慣れているらしい。
一方で、失敗した人間を笑ったり、理由もなく絡んだりすることはなかった。
☆
7月24日。
合宿が始まってから5日目を迎えた。
慣れない生活と連日の教習で、参加者の顔にも少しずつ疲れが見え始めている。
その日は朝から気温が高く、午後になっても強い日差しが教習コースへ降り注いでいた。
屋根のある待機場所にいても、外から流れ込んでくる空気は熱い。
俺は持っていたペットボトルから水を飲み、次の教習を待っていた。
しばらくすると、前の組がコースから戻ってくる。
その中に久我の姿もあった。
普段なら先頭に近い位置を歩いてくるが、今日はほかの参加者より少し遅れている。
待機場所まで戻ってきた久我が、壁へ片手をついた。
ほんの一瞬だった。
だが、普段の彼女ならしない動きだった。
「大丈夫か?」
声をかけながら一歩近づくと、久我がゆっくりと顔を上げた。
顔色は明らかに悪かった。
「……触んじゃねぇ」
「触らないから。顔色が悪いぞ」
「平気だ。ちょっと暑いだけだって」
久我は壁から手を離そうとしたが、身体がわずかに揺れた。
「少し座った方がいい」
「このあと教習あんだよ」
「その状態で乗るのは危ない。教官には俺から話しておくよ」
「そこまでしなくていいって」
「すぐに済むから。水は持ってる?」
「……もうねぇ」
「分かった。持ってくるから、ここで待ってて」
近くにいた教官へ久我の様子を伝え、休憩室の自動販売機へ向かう。
冷えたスポーツドリンクを買って戻ると、久我は待機場所の椅子へ座っていた。
教官からも休むように言われたらしく、不満そうな顔で壁に背を預けている。
「飲めそうか?」
「ああ」
ペットボトルを差し出すと、久我は受け取って少しずつスポーツドリンクを飲んだ。
「一気に飲まない方がいい。ゆっくりでいいから」
「分かってる」
言葉は荒いが、先ほどまでの強い語気はない。
俺は少し離れた場所へ腰を下ろし、次の教習が始まるまで様子を見ることにした。
「お前も行けばいいだろ」
「まだ時間があるから大丈夫だよ」
「だからって、ここにいる必要ねぇだろ」
「また具合が悪くなったら、誰か呼んだ方がいいからな」
「……好きにしろよ」
久我はそれ以上何も言わず、目を閉じた。
しばらく休んでいると、青ざめていた顔にも少しずつ血色が戻ってくる。
「少しは楽になったか?」
「ああ。もう平気だ」
「よかった」
次の教習へ向かおうと立ち上がると、久我がこちらを見上げた。
「なあ」
「何?」
「お前、優しいな」
「具合が悪そうだったから、声をかけただけだよ」
「……そっか」
久我は小さく息を吐いた。
それから俺の顔を改めて眺め、わずかに目を細める。
「お前、よく見たら随分かわいい顔してんじゃねぇか」
「急にどうした?」
「そう思ったから言っただけだよ」
「そんなことを言えるなら、もう大丈夫そうだな」
「何だよ、その返し」
久我の口元がわずかに緩んだ。
普段の近寄りがたい表情とは違い、年相応に見える笑い方だった。
「そういや、お前の名前は?」
「槻山だ。槻山叶多」
「槻山か……覚えとく」
遠くから、教官に俺の名前を呼ばれた。
「次の教習に行ってくるよ。まだ無理はしない方がいい」
「分かってるって」
歩き出そうとすると、背後からもう1度声をかけられた。
「槻山」
振り返ると、久我はこちらをまっすぐ見ていた。
「助かった」
「ああ」
短く答え、教官のいる方へ向かう。
それが、久我凌華と初めてまともに言葉を交わした時だった。