久我凌華とまともに言葉を交わした翌日。
午前の教習を終えた俺たちは、次の時間まで休憩所で待機していた。
外では別の班が教習を続けており、低いエンジン音が途切れることなく聞こえてくる。
俺は自動販売機で買ったお茶を机の端に置き、鞄から夏休みの課題を取り出した。
合宿中は教習以外の時間もそれなりにある。
部屋へ戻ってからまとめて取り組んでもいいが、空いた時間を使って少しずつ進めておいた方が楽だ。
数学の問題集を開き、途中になっていたページから解き始める。
何問か進めたところで、机の前に人影が落ちた。
「槻山」
顔を上げると、久我さんが立っていた。
昨日より顔色はよく、体調に問題はなさそうだった。
「もう大丈夫なのか?」
「ああ。寝たら治った」
「そうか」
「これ」
久我さんが机の上へ硬貨を置いた。
昨日、俺が買って渡したスポーツドリンクの代金らしい。
「別にいいよ。大した金額じゃないし」
「借りたままは気持ち悪ぃんだよ」
そう言われては、受け取らない方がかえって面倒だろう。
「分かった。ありがとう」
「礼を言うのはあたしの方だろ」
久我さんはそう言いながら、俺の向かい側にある椅子を引いた。
彼女の視線は俺ではなく、机の上に開かれた問題集へ向いていた。
「……お前、聖凰か?」
「そうだけど」
表紙には学園名が印刷されている。
久我さんは少し眉を上げた。
「何年だ?」
「1年」
「あたしもだ」
「久我さんも聖凰だったのか」
「ああ」
同じ学校どころか、同じ学年らしい。
聖凰学園は生徒数が多い。
特に男子は女子よりはるかに人数が多いため、クラスが違えば顔を知らなくても不思議ではなかった。
「何組なんだ?」
「G組。お前は?」
「A組」
「A組か」
久我さんが少し意外そうに眉を上げる。
「何だ?」
「いや、別に。普通は学科の勉強すんだろ」
「学科の勉強もやってるよ」
「それにしたって、学校の課題まで持ってくるやつは珍しい」
「空き時間が結構あるからな。少しでも終わらせておけば、家に帰ってから楽になる」
「真面目だな、お前」
「後に残したくないだけだよ」
「それを真面目って言うんだろ」
久我さんは呆れたように息を吐くと、近くの自動販売機へ視線を向けた。
「そういや、お前は学科どうなんだ?」
「今のところは問題ないかな。前日に少し復習するくらいで何とかなってる」
「へぇ」
「久我さんは?」
「実技の方が好きだな。座学は眠くなる」
それから会話が途切れたが、沈黙を気まずいとは感じなかった。
しばらく無言になったところで、場内に教習開始を知らせる放送が流れる。
『第3教習の受講生は、教習コース前へ集合してください』
「俺たちの班だな」
「ああ」
俺が問題集を閉じると、久我さんは先に立ち上がった。
休憩所を出て、教習コースへ向かう。
今日も教官の指示に従い、決められた課題を繰り返す予定だ。
「槻山」
前を歩いていた久我さんが振り返った。
「遅ぇぞ」
「今行くよ」
☆
午後の教習では、一本橋とスラロームを中心に練習した。
一本橋は低速で細い板の上を通過する課題だ。
前世でも経験したが、久しぶりにやると感覚を取り戻すまで少し時間がかかる。
視線を遠くへ向け、ニーグリップで車体を安定させながら、半クラッチと後輪ブレーキで速度を調整する。
最初の数回は規定時間にわずかに届かなかったものの、繰り返すうちに安定してきた。
一方、久我さんは苦戦していた。
橋へ乗ること自体はできているが、途中で車体がふらつき、そのまま板から落ちてしまう。
「久我さん、ハンドルを細かく動かしすぎです」
「分かってる」
「分かっていても、力が入っています。腕をもう少し楽にしてください」
「……分かった」
久我さんは返事をして、再び発進位置へ戻った。
次の挑戦でも、途中でバランスを崩して橋から落ちる。
待機場所へ戻ってきた久我さんは、苛立ったように息を吐いた。
「時間はあまり意識しなくていいと思うぞ」
「は?」
「まずは落ちずに渡り切る方が大事だ。規定時間に届かなくても減点で済むけど、落ちたら終わりだからな」
「でも、遅く走らねぇと駄目なんだろ」
「それは渡れるようになってからでいいよ。今は少し速くてもいいから、最後まで走り切ることを優先した方がいい」
久我さんはしばらく橋の方を見たあと、小さく息を吐いた。
「……分かった」
「目線も近くに置きすぎない方がいい。橋の先を見ると安定しやすいぞ」
「教官と同じこと言ってんな」
「教官の言ってることが正しいからな」
「それができりゃ苦労してねぇよ」
「最初から全部できる人はいないだろ」
「……もう1回やる」
久我さんはそれだけ言うと、自分の順番を待った。
次の挑戦では、これまでより少し速い速度で橋へ進入する。
途中で車体が揺れたものの、今回は橋から落ちることなく最後まで渡り切った。
規定時間には届いていなかったが、教官は頷いている。
「久我さん、今のでいいです。まずは落ちずに渡る感覚を覚えましょう」
「分かった」
待機場所へ戻ってきた久我さんは、ヘルメットのシールドを上げた。
「できたな」
「時間は足りてねぇけどな」
「まず渡れたんだから、それでいいだろ」
「次はもっと遅く走る」
「その調子でいいと思う」
久我さんは再び一本橋へ挑戦した。
何度か繰り返すうちに少しずつ速度を落とせるようになり、最後には規定時間に近いところまで伸ばしていた。
久我さんは少しだけ視線を逸らした。
「さっきの助言、役に立った。ありがとな」
「ああ」
昨日の礼を含めても、久我さんは義理堅い性格らしい。
見た目や話し方だけでは分からない部分が、少しずつ見えてきた気がした。
☆
夕食を終えたあと、俺は宿舎の共用スペースで学科教本を開いていた。
今日習った範囲を一通り読み返してから、練習問題を解いていく。
「槻山」
顔を上げると、久我さんが学科教本と問題集を持って立っていた。
「ここ、座っていいか?」
「ああ。どうぞ」
久我さんは向かい側の椅子へ座り、問題集を開いた。
それからしばらく、俺たちは黙ってそれぞれの問題に取り組んだ。
「槻山」
「どうした?」
「これ、どっちだ?」
久我さんが問題集をこちらへ向ける。
書かれていたのは、二輪車の乗車姿勢に関する問題だった。
「これは丸だな」
「でも、腕に力を入れてハンドルを押さえた方が安定すんじゃねぇのか?」
「力を入れすぎると、かえって操作しにくくなるよ。今日の一本橋でも教官に言われてただろ」
「ああ……そういうことか」
久我さんは納得したように答えを書き直した。
「実技でやったことと結びつけると覚えやすいと思う」
「なら、何とかなりそうだな」
そう言って、久我さんは次の問題へ進んだ。
勉強が好きなわけではなさそうだが、免許を取るために必要なことはきちんと覚えるつもりらしい。
俺も自分の問題集へ視線を戻す。
時折ページをめくる音がするだけで、会話はほとんどなかった。
それでも、向かいに久我さんが座っていることを不自然には感じなかった。
「そういえば、久我さんは免許を取ったら、どんなバイクに乗るつもりなんだ?」
「もう決めてる。KASASAGIのV400。黒のやつ」
「ネイキッドか。前から乗りたかったのか?」
「ああ。免許を取るなら、あれに乗るって決めてた」
迷う様子のない答えだった。
久我さんの雰囲気にも合いそうだ。
「槻山は?」
「俺はHONMAのベイス250あたりにしようかと思ってる」
「ベイス250か。意外だな」
「そうか?」
「お前なら、もう少し今っぽいバイクを選ぶと思ってた」
「クラシック系が好きなんだ。見た目も落ち着いてるしな」
「まあ、似合いそうではあるな」
「そうか?」
「ああ。派手なやつより、そっちの方がお前っぽい」
久我さんはそう言うと、再び問題集へ視線を落とした。
「ただ、まだ決めたわけじゃないけどな」
「他にも候補があんのか?」
「一応は。店で実物を見てから決めるつもりだよ」
「写真だけじゃ分かんねぇしな」
「ああ。足つきや取り回しも確かめたいからな」
「慎重だな」
「長く乗るものだから、後悔はしたくないんだ」
「それもそうか」
久我さんは小さく頷いた。
バイクの話になると、普段よりも言葉が増えるらしい。
「久我さんは、もう実物を見たことがあるのか?」
「ああ。店にも行った」
「跨がってみた?」
「当然だろ。足つきも問題なかった」
迷いなく答える辺り、本当にV400に決めているようだった。
「納車は免許を取ってからか?」
「そのつもりだ。今は店に取り置きしてもらってる」
「そこまで済んでるんだな」
「免許取ってから探してたら遅ぇだろ」
「楽しみにしてるんだな」
「悪いかよ」
「いや。いいと思う」
そう答えると、久我さんは僅かに目を逸らした。
「……まあ、楽しみではある」
それだけ言って、今度こそ問題集へ戻る。
俺も手元へ視線を落としたが、しばらくしてからまた久我さんの声がした。
「槻山」
「分からないところがあった?」
「ああ。ここなんだが」
久我さんが問題集をこちらへ向ける。
それからも、久我さんは分からない問題があるたびに俺へ尋ねてきた。
俺は教本を一緒に確認しながら、できるだけ実技で習ったことと結びつけて説明していく。
久我さんもただ答えを聞くだけではなく、納得できるまで教本へ目を通していた。
勉強が得意ではないというより、文字だけで覚えるのが苦手なのかもしれない。
それでも、この覚え方は久我さんに合っていたらしく、最初より問題を解く手が止まらなくなっていた。
「今日はここまでにする」
しばらくして、久我さんが問題集を閉じた。
「もういいのか?」
「ああ。やりすぎても頭に入らねぇ」
「それもそうだな」
「槻山はまだやんのか?」
「あと少しだけ。今日の範囲までは終わらせたいから」
「やっぱ真面目だな、お前」
「後に残したくないだけだよ」
「それを真面目って言うんだろ」
昼間と同じことを言われ、俺は小さく笑った。
「そうかもしれないな」
久我さんは立ち上がると、教本と問題集をまとめて手に取った。
「じゃあ、先に戻る」
「ああ。おやすみ」
「……おやすみ」
去りかけた久我さんが、ふと足を止める。
「槻山」
「どうした?」
「明日も、分かんねぇところがあったら聞いていいか?」
「もちろん」
「そうか」
短く答えると、久我さんは今度こそ共用スペースを出ていった。
閉まった扉を一度見てから、俺は再び問題集へ視線を戻す。
合宿が始まったばかりの頃は、名前を知っているだけだった。
それが今では、向かい合って学科の勉強をする程度には話すようになっている。
きっかけは些細なことだったが、久我さんとの距離は少しずつ縮まっているように思えた。