免許合宿を終えてから数日後。
俺は朝から運転免許センターを訪れていた。
受付を済ませ、適性検査と学科試験を受ける。
合宿中に久我さんと何度も問題を解いたこともあり、試験そのものに難しさは感じなかった。
それでも、結果が発表されるまでは落ち着かない。
しばらく待ったあと、正面の画面に合格者の受験番号が表示された。
並んだ数字の中から、自分の番号を探す。
「あった」
小さく息を吐き、椅子の背もたれへ身体を預ける。
これで、残るのは免許証の交付だけだ。
写真撮影や必要な手続きを終え、さらに待つことしばらく。
名前を呼ばれて窓口へ向かうと、出来上がったばかりの免許証を渡された。
記載されている内容を確認し、財布へしまう。
これでようやく、普通二輪免許を取得できた。
免許センターを出た俺は、スマートフォンを取り出した。
家族へ合格したことを伝えたあと、久我さんにも短いメッセージを送る。
『免許、取れた』
すぐに返事が来るとは思っていなかったが、数分もしないうちに通知が表示された。
『おめでと』
その下に、続けてメッセージが届く。
『バイクは今日見に行くのか?』
『そのつもり』
『決まったら教えろ』
『分かった』
スマートフォンをしまい、駅へ向かう。
今日は、このままバイクショップへ行く予定だった。
候補にしているのは、HONMAのベイス250。
クラシックな形を残しながらも古すぎず、普段使いもしやすそうな一台だ。
写真や紹介動画は何度も見た。
ただ、長く乗るものを画面だけで決めるつもりはない。
実際に跨がり、足つきや姿勢を確かめたうえで、問題がなければ契約するつもりだった。
電車を乗り継ぎ、駅から十分ほど歩く。
やがて、大きなガラス張りの店舗が見えてきた。
店先には何台ものバイクが並び、入口の上には複数のメーカー名が掲げられている。
自動ドアを通ると、僅かに油の匂いが混じった空気が流れてきた。
「いらっしゃいませ」
近くにいた男性店員が、こちらへ歩いてくる。
「本日は、何かお探しでしょうか?」
「HONMAのベイス250を見に来ました」
「ベイス250ですね。展示車がございますので、ご案内します」
店員のあとについて店内を進む。
大小さまざまなバイクの間を抜けた先に、目当ての車体が置かれていた。
深みのあるマットブラックの燃料タンクに、丸型のヘッドライト。
写真で見ていた通り、落ち着いたデザインだった。
「こちらが現行型のベイス250です。一番人気は、このマットブラックですね」
店員が車体の横へ立つ。
「軽量で扱いやすく、初めての一台として選ばれる方も多いですよ。よろしければ、跨がってみますか?」
「お願いします」
許可をもらい、ベイス250へ跨がる。
ハンドルを握って車体を起こすと、店員が反対側から軽く支えてくれた。
そのまま両足を下ろすと、足つきに問題はなかった。
ハンドルまでの距離も遠すぎず、姿勢も窮屈ではない。
教習車より軽く、取り回しもしやすそうだ。
「いかがですか?」
「乗りやすそうですね」
「街中でも扱いやすいですし、日帰りのツーリングでしたら十分楽しめます」
ハンドルへ手を添えたまま、車体全体を見下ろす。
悪いところは見当たらない。
見た目も好みに合っているし、初めて所有するバイクとしては十分すぎるほどだった。
このまま契約しても、後悔することはないと思う。
それでも、すぐに決めようという気持ちにはならなかった。
「一度、降りてもいいですか?」
「もちろんです。ほかのカラーもございますので、そちらもご覧になりますか?」
「お願いします」
ベイス250から降り、店員の案内で別の展示車へ向かう。
黒や銀の車体を見比べながら、どれが一番自分に合うか考える。
やはり、最初に見たマットブラックが一番よさそうだった。
「色は最初のものが好みですね」
「人気のカラーです。現在、在庫もございますので、納車までそれほどお待たせしないと思います」
「そうですか」
条件としては申し分ない。
見積もりを出してもらおうかと考えた、そのときだった。
店内の奥に並んだ車体の一台が目に入る。
黒いタンクが、店内の照明を受けて静かに光を映していた。
鏡のように強く反射するわけではない。
側面を走る細い白銀色のラインが、その黒をさらに引き締めて見せていた。
丸型のヘッドライトに、スポークホイール。
焦げ茶色のタックロールシートが、黒を基調とした車体の中で柔らかなアクセントになっている。
クラシックな外見だが、古臭さはない。
小柄な車体に少し太めのタイヤが組み合わされ、細すぎない力強さもあった。
それなのに、威圧的には見えない。
無骨さと落ち着きが、同じ車体の中に収まっていた。
「お客様?」
「あのバイクは何ですか?」
俺が指した先を見て、店員が小さく頷く。
「
「ブラックソーン……」
聞き覚えのないメーカーだった。
「国内ではまだ台数は多くありませんが、消耗品には一般的な規格のものが多く使われています。通常の整備で極端に困ることはありませんよ」
「専用の部品は取り寄せですか?」
「外装部品などは、お待ちいただく場合があります。ただ、普段乗るうえで維持が難しい車種ではありません」
海外の小規模メーカーと聞いて少し気になったが、部品が手に入らず乗れなくなるようなバイクではないらしい。
「街中でも扱いやすいんですか?」
「はい。古い英国車を思わせる見た目ですが、車体は軽く、日常でも乗りやすいように作られています」
俺はハウンド250の前へ向かう。
近くで見ると、遠目では分からなかった細かな造りまで目に入ってきた。
丸みを帯びた燃料タンクには深い艶があり、店内の照明を柔らかく映している。
白銀色のラインは別部品ではなく、タンクの曲面に沿って細く塗り分けられたものだった。
黒くまとめられたエンジンと、車体右側の低い位置に伸びる一本出しのマフラー。
派手な装飾はない。
その分、一つ一つの形がはっきりして見えた。
「跨がってもいいですか?」
「もちろんです。どうぞ」
許可をもらい、サイドスタンドで傾いたハウンド250へ跨がる。
ハンドルを握り、車体を起こそうとすると、店員が反対側から軽く支えてくれた。
両足を地面へ下ろすと、踵まで無理なく届いた。
ベイス250と比べてシートが僅かに低く、跨がったときの車体も細く感じる。
ハンドルへ手を伸ばしても、肩や腕に余計な力は入らなかった。
初めて跨がったはずなのに、姿勢が不思議なほどしっくりくる。
「体に合っている気がします」
「車重はこのクラスの中でも軽い方です。ただ、見た目が華奢になりすぎないよう、タンクやタイヤには少しボリュームを持たせています」
ハンドルをゆっくり左右へ動かしてみる。
展示車なので動かせる範囲は僅かだったが、取り回しの軽さはなんとなく分かった。
ベイス250も悪くなかった。
けれど、自分が乗って走る姿を思い浮かべたとき、自然に浮かんだのはこちらだった。
「エンジンの音も聞けますか?」
「はい。少々お待ちください」
店員がハウンド250を展示位置から移動させ、エンジンを始動した。
低く乾いた排気音が響く。
必要以上に大きくはない。
それでも軽すぎる音ではなく、一定の間隔で落ち着いた鼓動を刻んでいた。
俺はしばらく黙ったまま、その音を聞く。
「本日はベイス250をご覧になる予定だったんですよね?」
「はい」
「どちらにするか、悩まれていますか?」
「……いえ」
エンジンを止めたハウンド250へ、もう一度目を向ける。
「こっちがいいです」
口に出してみると、自分でも驚くほど迷いがなかった。
性能を細かく比べたわけではない。
この店へ来るまで、名前すら知らなかったバイクだ。
それでも、乗るならこれがいいと思った。
「ハウンド250で、お見積もりをお作りしましょうか?」
「お願いします」
「車体色はこちらのブラックでよろしいですか?」
「はい。この色がいいです」
店員に案内され、商談用の席へ移動する。
車両価格や諸費用、保証について説明を受け、見積書の内容を一つずつ確認していく。
「用品の取り付けも、納車前でしたらまとめて承れます」
「サイドバッグを両側につけたいです」
「左右ですね。こちらの車種でしたら、専用のセミハードタイプがございます」
店員がタブレットに画像を表示する。
黒を基調とした四角いバッグで、車体の雰囲気を崩さない形になっていた。
大きすぎるものではないが、普段の買い物や一泊程度の荷物なら十分に入りそうだ。
「これでお願いします」
「承知しました。取り付け用のサポートも併せて追加します」
「ヘルメットホルダーもつけられますか?」
「はい。車体の左側へ取り付けられます」
「それもお願いします」
店員が見積もりへ項目を加えていく。
「ほかにご希望はございますか?」
「スマートフォンホルダーも欲しいです。ナビに使うので」
「でしたら、振動を抑える機構がついたものがおすすめです。端末の大きさに合わせて調整もできます」
「それでお願いします」
「長時間ナビを使用されるのでしたら、目立たない位置にUSB電源も取り付けられますが、いかがなさいますか?」
今後、久我さんとツーリングへ行くことを考える。
携帯用の充電器でも対応はできるが、最初からつけておいた方が便利だろう。
「一緒につけてください」
「承知しました」
用品を追加するたびに、見積書の合計金額が更新されていく。
車体だけを見ていたときよりは高くなったが、無理のある金額ではない。
俺は見積書を最初から読み返し、不要なものが含まれていないことを確認した。
「この内容でお願いします」
「ありがとうございます。それでは、ご契約の手続きを進めさせていただきます」
必要事項を記入し、書類へ署名する。
用品の取り付けと車両登録を含め、納車までは二週間ほどかかるらしい。
手続きを終えた俺は、もう一度ハウンド250の前へ戻った。
ハンドルには、契約済みと記された札が掛けられている。
今日この店へ来るまでは、ベイス250を買うつもりだった。
それが今では、名前すら知らなかったバイクの納車を待っている。
こういうものを、一目惚れと言うのかもしれない。
俺は車体の写真を一枚撮り、久我さんとのメッセージ画面を開いた。
『バイク、決めた』
写真を添えて送信する。
返事はすぐに届いた。
『ベイスじゃねぇのか?』
『店で見つけて、気が変わった』
『へぇ』
少し間が空いてから、次のメッセージが表示される。
『悪くねぇじゃん』
久我さんにしては、かなり好意的な感想だと思う。
『納車されたら見せるよ』
『当然だ』
その返信を見て、俺は僅かに笑った。
免許は取れた。
乗りたいバイクも決まった。
あとは、新しい相棒が納車されるのを待つだけだった。