8月4日。
学校説明会当日の朝、俺は昨日よりも少し早く学校へ到着した。
集合時間は8時だが、昇降口にはすでに何人かの教員が集まり、受付周辺の確認を始めている。
昨日設置した案内板も、動かされた様子はない。
生徒会室へ入ると、天ヶ瀬先輩が今日の予定表へ目を通していた。
「おはようございます」
「おはよう、槻山。早いな」
「天ヶ瀬先輩も」
「会長が遅れるわけにはいかないからな」
天ヶ瀬先輩の机には、筆記具や名札、連絡用の無線機が並べられていた。
今日も朝から忙しくなりそうだ。
「あの、天ヶ瀬先輩」
「どうした?」
俺は鞄から弁当箱を取り出し、天ヶ瀬先輩へ差し出した。
「お弁当です」
天ヶ瀬先輩は一瞬だけ目を見開き、それから両手で受け取った。
「本当に作ってきてくれたのか」
「そのつもりで聞いたんですから、作りますよ」
「……ありがとう。昼にいただく」
天ヶ瀬先輩の表情が、僅かに柔らかくなる。
そのとき、生徒会室の扉が開いた。
「おはよー。あ、約束のお弁当だ」
入ってきた如月先輩が、天ヶ瀬先輩の手にある弁当箱へ目を向ける。
「はい。昨日頼まれたので」
「槻山君、がっせーは家庭的な男に弱いんだよ」
「佳乃」
天ヶ瀬先輩の声が僅かに低くなる。
「料理上手で、約束したら本当に作ってきてくれるんだもん。がっせーには効くよね」
「朝から余計なことを言うな」
「分かりやすいなあ」
「仕事の準備をしろ」
「はいはい」
如月先輩は楽しそうに笑いながら、自分の席へ向かった。
天ヶ瀬先輩も、それ以上は何も言わずに弁当箱を鞄へしまった。
8時になる頃には、生徒会役員全員が揃った。
天ヶ瀬先輩が今日の配置を改めて確認する。
「受付開始は8時半だ。槻山、鷹取、石倉は受付で資料を配ってくれ。来場者が増えてきたら、槻山は体育館への誘導に回る」
「はい」
「全体説明が終わったあとは、予定どおり校内案内を担当してもらう」
「分かりました」
「何か問題が起きた場合は、自分だけで判断せず、必ず近くの役員か教員へ報告するように」
全員が返事をし、生徒会室を出る。
昇降口へ移動すると、昨日並べた受付用の長机には、学校案内や入試要項が種類ごとに積まれていた。
俺たちは来場者へ渡しやすいよう、資料を一組ずつ封筒へ入れていく。
「槻山君、こちらは終わったよ」
隣で作業していた鷹取が、揃え終わった封筒を机の端へ移した。
「ありがとう。あと何部くらい必要かな」
「今ある分で足りると思う。ただ、予備は下に置いておこう」
「そうだね」
石倉も無言で頷き、予備の資料が入った箱を机の下へ運ぶ。
8時半になると、正門から少しずつ受験希望者と保護者が入ってきた。
「おはようございます。学校説明会へお越しの方はこちらで受付をお願いします」
来場者名簿を確認し、資料の入った封筒と名札を渡していく。
最初のうちは余裕があったが、9時を過ぎる頃には受付の前に列ができ始めた。
男子の受験希望者は、ほとんどが保護者と一緒に来ている。
緊張した様子で辺りを見回す者もいれば、受付を済ませるなり、興味深そうに校舎を眺める者もいた。
9時20分を過ぎたところで、受付の列が途切れる。
「槻山、そろそろ体育館へ移動してくれ」
近くにいた真壁先輩に声をかけられた。
「分かりました」
資料を鷹取へ引き継ぎ、体育館へ向かう。
中にはすでに、多くの受験希望者と保護者が席へ着いていた。
空いている席を案内しながら、俺は入口付近へ視線を向ける。
ちょうどそのとき、一人の少女が、母親らしい女性とともに体育館へ入ってきた。
艶のある長い黒髪は、頭を囲むようなクラウンブレイドにまとめられている。
淡い色のワンピースを着ており、立ち姿も綺麗だ。受験希望者というより、どこかの式典へ出席しに来たような雰囲気だった。
「こちらへどうぞ」
俺が声をかけると、少女はこちらへ顔を向けた。
「ごきげんよう」
柔らかく微笑み、丁寧に頭を下げる。
「本日はよろしくお願いいたします」
「はい。空いている席へご案内します」
「お願いいたしますわ」
「前の方でも大丈夫ですか?」
「ええ。せっかくですもの。よく見える場所で拝聴したいと思っております」
「それなら、こちらが空いています」
「ありがとうございます」
少女は母親と並んで席へ着いた。
それを見届け、俺は再び入口へ戻る。
9時半になると、体育館の扉が閉められ、学校説明会が始まった。
最初に校長から挨拶があり、続いて教員が学校の教育方針や年間行事について説明する。
壇上のスクリーンには、授業中の様子や文化祭、体育祭などの写真が順番に映し出されていった。
俺は体育館の後方に立ち、途中で入ってくる人がいないか確認する。
説明を聞く受験希望者の反応はさまざまだ。
熱心に資料へ書き込んでいる者もいれば、部活動の紹介写真が映るたび、隣の保護者と小声で話している者もいる。
先ほど案内した黒髪の少女は、背筋を伸ばしたまま壇上を見つめていた。
説明が切り替わるたび、手元の資料へ視線を落としている。
かなり真面目に聞いているらしい。
学校生活と進路実績についての説明が終わると、最後に校内見学の案内が行われた。
参加者は名札に書かれた番号ごとに分かれ、それぞれ別の経路を回る。
俺が担当するのは、受験希望者と保護者を合わせて20人ほどのグループだった。
体育館前で人数を確認していると、先ほどの少女とその母親も列の中へ入ってきた。
「高等部1年、生徒会書記の槻山叶多です。これから校内をご案内します。移動中に分からないことがありましたら、遠慮なく聞いてください」
全員が揃っていることを確認し、俺は廊下を歩き始めた。
最初に向かったのは図書室だ。
夏休み中のため利用している生徒は少ないが、図書委員の生徒が中で待機し、蔵書数や貸し出し方法について説明してくれる。
「こちらの図書室は、中等部と高等部の生徒が共同で利用しています。放課後だけでなく、昼休みも開いています」
俺が説明すると、参加者たちが室内を見回した。
本棚の間を歩いていると、黒髪の少女が静かに手を挙げる。
「一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
「はい」
「希望する書籍が置かれていない場合は、取り寄せていただくこともできますの?」
「図書委員か司書の先生に申請すれば、学校で購入してもらえる場合があります。ただ、全部が通るわけではないと思います」
「そうなのですね。個人で購入したものを寄贈することはできますか?」
「状態や内容によると思います。詳しくは図書委員の先生に確認してください」
「承知いたしました。ありがとうございます」
質問の仕方も、受け答えも丁寧だ。
ただ、自分で読むために買うのではなく、学校への寄贈を考えるところは少し変わっている気がする。
図書室を出たあとは、普通教室や理科室などを順番に案内していく。
廊下を移動する途中、男子受験生の一人が俺へ声をかけてきた。
「先輩、この学校って、女子はどのくらいいるんですか?」
「全校で160人弱ですね。1クラスだと、7人か8人くらいです」
それを聞き、受験希望者の男子たちが小さくざわついた。
保護者からも、授業中の雰囲気や席の配置についていくつか質問される。
俺は実際のクラスを思い浮かべながら、分かる範囲で答えていった。
次に案内したのは食堂だった。
夏休み中なので営業はしていないが、入口にはメニューの見本や利用時間が掲示されている。
「食堂は昼休みに利用できます。日替わり定食のほか、麺類や丼物もあります」
「お弁当を持参してもよろしいのですか?」
また黒髪の少女が尋ねてきた。
「もちろんです。教室で食べてもいいですし、食堂へ持ってきて食べることもできます」
「そうなのですね」
少女は掲示されているメニューへ目を向ける。
「こちらのお料理は、皆さま同じものを召し上がるのでしょうか」
「メニューの中から自分で選びますよ」
「自分で、ですか?」
「はい。食券を買って、カウンターで受け取ります」
「まあ」
少女は小さく目を見開いた。
「毎日、ご自身でお昼のお料理をお決めになるのですね」
「そうなりますね」
「昼食は、あらかじめ決まっているものだと思っておりました」
感心したように頷いている。
周囲の受験希望者たちにとっては、特に珍しくもない話だろう。
少女の母親が隣で困ったように微笑んでいるところを見ると、本人だけが真面目に驚いているらしい。
身なりや立ち居振る舞いからして、随分と大切に育てられてきたのだろう。
もしかすると、食事の献立まで家の者に管理されてきたのかもしれない。
食堂のあとは階段を上がり、特別教室の並ぶ廊下を通る。
途中で一度人数を確認し、最後に体育館前まで戻ってきた。
「校内案内は以上です。このあとは、希望する方は個別相談会場へ移動してください」
参加者たちがそれぞれ頭を下げ、受付や相談会場へ向かっていく。
俺も次の案内までの時間を確認しようとしたところで、後ろから小さな声が聞こえた。
「どうしましょう……ございませんわ」
振り返ると、先ほどの少女が胸元へ手を当てていた。
母親と一緒に、鞄や服の周りを確認している。
「どうかしましたか?」
俺が声をかけると、少女は不安そうな表情で顔を上げた。
「ブローチが見当たりませんの」
「案内が始まる前にはありましたか?」
「ええ。体育館へ入る直前に、母が位置を直してくれましたので」
隣にいた母親も頷いた。
「確かに、そのときにはございました」
「それなら、校内案内の途中で落とした可能性が高いですね。どんな形ですか?」
「銀色の鈴蘭をかたどったものです。小さな青い石が一つ、あしらわれております」
少女の表情が曇る。
「幼い頃、お婆様から譲っていただいた、大切な品なのです」
それまでの穏やかな声とは違い、僅かに震えていた。
「分かりました。さっき通った経路を確認してみましょう」
「ですが、槻山先輩には、まだお役目がおありなのでは?」
「先輩に確認してきます。少し待っていてください」
「……はい。お願いいたします」
俺は近くで参加者を案内していた如月先輩のもとへ向かった。
「如月先輩、少しいいですか?」
「どうしたの?」
「先ほど案内した方が、校内でブローチを落としたみたいです。次の案内まで時間があるので、通った経路を一緒に探してきてもいいですか?」
如月先輩が時計へ目を向ける。
「次の案内は?」
「20分後です」
「分かった。こっちは私が見ておくよ。間に合わなそうなら連絡して」
「ありがとうございます」
「見つからなかったら、受付にも特徴を伝えてね」
「はい」
許可をもらい、少女のところへ戻る。
「探しに行っても大丈夫だそうです。案内した順番に戻ってみましょう」
少女は一瞬驚いたように目を見開いたあと、深く頭を下げた。
「わたくしのために、ありがとうございます」
「大切な物なんですよね。見つけましょう」
「はい」
少女は胸元で両手を重ね、真剣な表情で頷いた。
母親には受付で落とし物が届いていないか確認してもらい、俺たちは最後に通った特別教室前の廊下から探し始めた。
窓際や壁際へ目を向けながら、ゆっくりと歩く。
少女も俺の隣で床を見つめていたが、長いスカートの裾を押さえながら歩いているため、少し探しづらそうだ。
「急がなくて大丈夫ですよ。見落とさないように探しましょう」
「ですが、次のお役目までお時間がないのでしょう?」
「まだ余裕はあります。時間がかかりそうなら、先輩へ連絡すれば大丈夫ですから」
「そうでしたの」
少女は少し安心したように息をついた。
「槻山先輩は、随分と落ち着いていらっしゃいますのね」
「そうですか?」
「はい。わたくしは、なくしたと気づいてから、どうすればよいのか分からなくなってしまいました」
「それだけ大切な物なら、慌てるのも当然ですよ。恥ずかしがることじゃありません」
「そう……ですね」
少女は少しだけ表情を和らげた。
廊下の端まで確認したが、それらしい物は見つからない。
次に階段を下りる。
「お婆様から譲ってもらったと言っていましたよね」
「ええ。元は、お婆様がお使いになっていたものですの」
少女は何もなくなった胸元へ手を添えた。
「初めて一人でお茶会へ出席した日、緊張しないようにと着けてくださいました。それから、大切な日にはいつも身につけておりますわ」
「だから、今日も着けてきたんですね」
「はい。これから通いたいと思っている学校を、自分の目で確かめる大切な日ですもの」
「実際に見てみて、この学校はどうでした?」
「とても素敵な学校だと思いましたわ」
少女は迷うことなく答えた。
「女子生徒も多く通っていらっしゃるだけでなく、学校の運営にも関わっていらっしゃると知り、安心いたしました」
「会長も副会長も女子ですからね」
「ええ。皆さまが責任あるお役目を任され、学校のために動いていらっしゃる姿が、とても頼もしく見えましたわ」
少女は少しだけ憧れるように、目を細めた。
「中でも、天ヶ瀬様が生徒会長を務めていらっしゃることには驚きました」
「天ヶ瀬先輩を知っているんですか?」
「お目にかかったことはございませんが、お名前は以前から存じております。今日、壇上でお話しになる姿を拝見して、わたくしもあのようになりたいと思いましたの」
少女は胸元で両手を重ねた。
「こちらへ入学しましたら、わたくしも生徒会のお仕事に携わってみたいと思っております」
「そうなったら、一緒に仕事をすることになるかもしれませんね」
「まあ。そうなりましたら、ぜひよろしくお願いいたしますわ」
そんな話をしながら階段を下りていると、踊り場の隅で、窓から入った光を反射するものが見えた。
「あれじゃないですか?」
「えっ?」
壁際へ近づき、落ちていた物を拾い上げる。
細い茎にいくつもの鈴蘭の花が並び、中央に青い石が埋め込まれた、銀色の小さなブローチだった。
「これですよね?」
「まあ……!」
少女が目を見開き、両手を差し出した。
その手のひらへブローチを載せると、少女は壊れ物を扱うように、そっと包み込む。
「間違いございません」
しばらく手の中を見つめたあと、少女は安堵したように息をついた。
「本当に、よかった……」
それから顔を上げ、深く頭を下げる。
「槻山先輩、ありがとうございました」
「見つかってよかったです」
「わたくし一人では、どこから探せばよいのかも分かりませんでした」
「案内した経路なら覚えていましたから。俺も一緒に探した方が早かっただけですよ」
「それでも、わたくしのために時間を使ってくださいました」
少女は顔を上げ、柔らかく微笑んだ。
「槻山先輩は、とてもお優しい方なのですね」
「如月先輩がすぐに許可してくれたから探せたんです。見つからなければ、ほかの先輩たちも手を貸してくれたと思います」
「ええ。皆さま、とても親切でいらっしゃいますわ」
少女がブローチを胸元へ戻そうとする。
けれど、留め具は少し開いたままになっていた。
「そのまま着けると、また落とすかもしれません」
「では、どうすればよろしいでしょう」
「受付に小袋があると思います。今日は鞄に入れて持ち帰った方がいいですよ」
「承知いたしました」
少女は素直に頷き、ブローチを大切そうに握ったまま、俺と一緒に受付へ戻った。
母親は俺たちの姿を見つけると、すぐに立ち上がる。
「見つかったのですか?」
「はい。階段の踊り場に落ちていました」
「まあ、本当によかった」
少女が手のひらを開き、ブローチを見せる。
「槻山先輩が見つけてくださいましたの」
「お手数をおかけしてしまい、申し訳ありません」
「いえ。無事に見つかってよかったです」
受付にいた桜庭先輩へ事情を話すと、小さな袋を用意してくれた。
少女はブローチを丁寧に袋へ入れ、鞄の奥へしまう。
「槻山先輩」
少女が改めて俺の方を向いた。
「本日は、学校をご案内いただいただけでなく、大切な品まで探してくださり、本当にありがとうございました」
「どういたしまして」
「あ……」
少女は何かに気づいたように、小さく目を見開いた。
「わたくし、まだ名乗っておりませんでしたわね」
姿勢を正し、胸元で両手を重ねる。
「
「一条院さんですね」
「はい。覚えていただけましたら嬉しいですわ」
一条院さんは柔らかく微笑んだ。
「わたくし、こちらの学校へ通いたいという気持ちが、先ほどよりも強くなりましたわ」
「そう思ってもらえたなら、案内した甲斐があります」
「来春、こちらへ入学いたしましたら、改めてお礼をさせていただいてもよろしいでしょうか」
「お礼はもう十分ですよ」
「それでは、わたくしの気が済みませんもの」
真剣な表情で言われ、断る理由も見つからない。
「分かりました。そのときはお願いします」
「はい。お約束ですわ」
一条院さんは丁寧に頭を下げた。
「それでは、槻山先輩。ごきげんよう」
「はい。また来年、会えるといいですね」
母親と並んで歩いていく一条院さんの背中を見送る。
一条院鈴。
今日のことを考えれば、来年この学校へ入学してきても、すぐに気づくだろう。