8月8日。
昨日、姫岡さんから借りたゲーム機は、今も俺の部屋に置いてある。
帰宅してから『アンビバレンス・リバーサル』を少し進めてみたが、思っていた以上に面白かった。
現実の街で手がかりを集め、それをもとに鏡の向こう側にある反転世界を調べていく。
まだ序盤しか遊んでいないものの、姫岡さんが勧めてくれた理由は少し分かった気がする。
それとは別に、昨日のことを思い返す。
前髪が左右へ流れ、普段は隠れている姫岡さんの顔を初めてきちんと見た。
目が綺麗で、かわいいと思ったから、そのまま口にした。
ただ、姫岡さんは随分と恥ずかしそうにしていた。
少し直球に言いすぎただろうか。
とはいえ、褒めること自体は悪くないはずだ。
からかったわけでも、思っていないことを言ったわけでもない。
わざわざ謝る方が、かえって姫岡さんを困らせる気もする。
そんな昨日のことを時々思い出しながら、俺はいつものようにカフェで働いていた。
昼の混雑が落ち着き始めた頃、カウンターの奥から宗一郎さんに声をかけられる。
「槻山君、桃のパンナコッタはあといくつある?」
冷蔵庫の中を確認する。
「6個です」
「もうそれだけか。今日は少し多めに用意したんだけどね」
宗一郎さんは注文票を見ながら、嬉しそうに笑った。
先日試作した桃と紅茶のパンナコッタは、8月に入ってから夏季限定の新メニューとして店に並んでいる。
ミルクのパンナコッタに、桃のコンポートと紅茶のジュレを重ねたグラスデザートだ。
上には薄く切った生の桃を飾り、仕上げにレモンの皮を少しだけ削っている。
涼しげな見た目も好評らしく、注文する客は予想していたより多かった。
「今日も売り切れそうですね」
「そうだね。今から追加で作るのは難しいから、残り6個で終了かな」
「固める時間が必要ですからね」
「明日の分は、もう少し増やしてみようか」
「桃の状態を見てから決めた方がいいと思います。柔らかいものが多いと、飾りに使える分が足りなくなるので」
「分かった。青果店にも相談しておくよ」
夏休みに入ってからは、平日でも昼過ぎまで客足が途切れない。
今日は桃と紅茶のパンナコッタだけでなく、ハンバーグやパスタの注文も多かった。
空いた皿を下げるためにホールへ出たところで、入口のベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
いつものように声をかけ、入口へ顔を向けた。
そこに立っていた顔ぶれを見て、思わず足を止める。
「……みんな?」
「お疲れ、叶多」
千夏が楽しそうに手を振った。
その隣には、瑞葉、直樹、大輔が並んでいる。
「どうしたんだ、4人そろって」
「俺が誘った」
大輔が得意そうに胸を張る。
「叶多のところでハンバーグ食おうって、グループに送っただろ?」
「仕事中だから見てないよ」
「そうだと思った」
スマートフォンを確認できるのは、休憩時間か仕事が終わったあとだ。
今の時間に送られても、気づけるはずがなかった。
「今日は4人なんだな」
「うん。里穂は今日は来ないって」
千夏が答える。
「七瀬さんは?」
「家で宿題を進めるって言ってたよ」
「へえ」
直樹が感心したように頷き、そのまま大輔へ視線を向ける。
「大輔君も見習った方がいいんじゃない?」
「なんで俺に飛んでくるんだよ」
「宿題、進んでるのか?」
俺も尋ねる。
「やってはいるぞ」
「その言い方、あんまり進んでなさそうだな」
「うるせえ。まだ夏休みは残ってるっての」
「最後に慌てるなよ」
「分かってるって」
「それじゃあ、4名様でよろしいですか?」
「急に店員へ戻ったな」
「仕事中だからな。こちらへどうぞ」
店の奥にある4人掛けの席へ案内し、人数分のメニューを置く。
「注文が決まったら呼んでくれ」
「あ、待って」
離れようとしたところで、千夏に呼び止められた。
「これ、前に来た時はなかったよね?」
千夏が指さしているのは、メニューへ新しく加わった写真だった。
透明なグラスの中に、白いパンナコッタ、琥珀色の紅茶のジュレ、淡い桃色の果肉が重なっている。
「桃と紅茶のパンナコッタ?」
瑞葉が料理名を読み上げる。
「ああ。今月から出してる夏限定のデザートだよ」
「おいしそうかも」
「桃とパンナコッタだけだと甘さが続くから、間に紅茶のジュレを入れてるんだ」
「へえ。ちゃんと考えられてるんだね」
瑞葉が感心したようにメニューの写真を見る。
「まだ残ってる?」
「ああ。あと6個あるよ」
「じゃあ、私これにする」
千夏が先に決める。
「私も食べてみたいな」
瑞葉も続いて頷いた。
「大輔は?」
「……まあ、せっかくだし頼むか」
「最初から食べたそうだったよね」
「うるせえ。限定メニューなら味は確かめたいだろ」
「じゃあ、直樹は?」
「僕も頼むよ」
「それじゃあ、4人ともこれで決まりだね」
千夏が満足そうにメニューを閉じる。
俺は注文用の端末を構えた。
「デザートは全員、桃と紅茶のパンナコッタでいいんだな?」
「うん」
「お願いします」
「分かった。食事の方は?」
「俺はハンバーグな。頼んだぞ」
大輔がすぐに言う。
「ああ」
「僕もハンバーグにするよ」
直樹が続く。
「私はナポリタンにしようかな」
「じゃあ、私はオムライス」
瑞葉と千夏もそれぞれ注文を決めた。
「ハンバーグが2つ、ナポリタンが1つ、オムライスが1つ。それと、桃と紅茶のパンナコッタが4つでいいんだな?」
「うん」
「お願いします」
「分かった。少し待っててくれ」
注文を端末へ入力し、4人の席を離れる。
厨房へ戻ると、宗一郎さんが仕込み台の向こうから顔を上げた。
「知り合いだったのかい?」
「はい。学校の友達です」
「そうだったんだね」
「ハンバーグが2つ、ナポリタンが1つ、オムライスが1つです。それと、桃と紅茶のパンナコッタを4つ」
「パンナコッタも頼んでくれたんだ」
「メニューを見て気になったみたいです」
宗一郎さんは嬉しそうに頷く。
「それじゃあ、食事のあとに出せるようにしておこうか」
「はい」
俺は手を洗い、注文の調理へ取りかかった。
まずはハンバーグを焼く。
すでに成形しておいた肉だねを冷蔵庫から取り出し、熱したフライパンへ並べる。
表面へ焼き色をつけたあと、火を弱めて中までじっくり熱を通していく。
隣のコンロでは、ナポリタンに使う麺を温める。
玉ねぎ、ピーマン、ソーセージを炒め、ケチャップを加えて酸味を飛ばした。
別のフライパンでは、オムライス用のチキンライスを仕上げる。
昼の混雑は落ち着いていたものの、ほかの注文も入っている。
宗一郎さんと手分けしながら、順番に料理を仕上げていった。
「槻山君、ハンバーグの方はどう?」
「もうすぐです」
「じゃあ、僕がナポリタンを盛りつけるよ」
「お願いします」
焼き上がったハンバーグへソースをかけ、付け合わせと一緒に皿へ盛る。
続いて、薄く焼いた卵でチキンライスを包んだ。
4人分の料理がそろうと、ホールの店員が順番に運んでいく。
俺も最後に残ったハンバーグとオムライスを持って、4人の席へ向かった。
「お待たせしました。ハンバーグです」
「来た来た!」
大輔が嬉しそうに身を乗り出す。
直樹の前にもハンバーグを置く。
「直樹もハンバーグだったな」
「うん。前に大輔君がおいしそうに食べてたからね」
千夏の前へオムライスを置くと、彼女は卵の表面を見て目を輝かせた。
「綺麗」
瑞葉も自分のナポリタンを受け取りながら、オムライスへ視線を向けている。
「叶多が作ったの?」
「ああ。ハンバーグとオムライスは俺が担当したよ。ナポリタンは宗一郎さんと一緒に作った」
「じゃあ、いただきます」
千夏がスプーンを入れる。
俺は4人が食べ始めたのを確認し、厨房へ戻った。
仕事中なので、いつまでも席のそばにいるわけにはいかない。
その後もいくつか注文をこなし、空いた皿を下げる。
しばらくして4人の食事が終わる頃、冷蔵庫からパンナコッタを取り出した。
白いパンナコッタの上に、崩した紅茶のジュレと桃のコンポートを重ねる。
薄く切った生の桃を飾り、仕上げにレモンの皮を少しだけ削った。
「これで4つだね」
宗一郎さんが並んだグラスを見て頷く。
「はい」
「せっかくだから、槻山君が持っていったらどうかな」
「俺がですか?」
「友達なんだろう? 感想も聞いてきてほしいな」
「分かりました」
4つのグラスをトレーへ載せ、席まで運ぶ。
「お待たせしました。桃と紅茶のパンナコッタです」
「わあ」
千夏が声を上げた。
「思ってたより綺麗だね」
瑞葉もグラスを横から眺める。
透明な器の中で、白いパンナコッタと琥珀色のジュレ、桃の淡い色が層になっていた。
「それじゃあ、食べてみてくれ」
「叶多は戻らなくていいの?」
「今は少し落ち着いてるから、感想を聞いてきていいって言われたんだ」
「じゃあ、遠慮なく」
千夏がスプーンを入れ、パンナコッタとジュレ、桃を一緒にすくう。
一口食べたあと、目を見開いた。
「おいしい」
「本当?」
「うん。桃は甘いけど、紅茶のところはさっぱりしてる」
瑞葉も続けて口へ運ぶ。
「香りがいいね。パンナコッタも柔らかいから、全部一緒に食べやすい」
「そこは意識して調整したんだ」
「調整した?」
直樹がスプーンを止める。
「これ、叶多君も作るのに関わったの?」
「ああ。最初の案を出して、宗一郎さんと一緒に試作した」
「そうだったんだ」
千夏が改めてグラスへ目を向ける。
「先に言ってくれてもよかったのに」
「聞かれなかったからな」
「普通は少しくらい自慢するだろ」
大輔がパンナコッタを食べながら言う。
「店の商品なんだから、俺一人で作ったわけじゃないよ。それで、味はどうだ?」
「うまい」
「それだけ?」
「うまいものはうまいでいいだろ」
「大輔君らしいね」
直樹が笑う。
その直樹のグラスは、4人の中で一番早く減っていた。
「直樹、食べるの早くないか?」
「甘いものは別腹だからね」
直樹は平然と答え、残っていた桃をスプーンですくった。
「そういえば、遅くなったけど、県大会ベスト8おめでとう」
「ありがとう」
「俺は合宿中で応援に行けなかったけど、結果を見た時は驚いたよ」
「応援のメッセージも送ってくれたし、それで十分だよ」
「本当にすごかったよ」
瑞葉が当日のことを思い出したように言う。
「直樹君、何本もシュート決めてたし」
「先輩たちが作ってくれた場面で打っただけだよ」
「またそうやって控えめに言う」
千夏が苦笑する。
「最後の試合も、あと少しで追いつけそうだったよね」
「うん。でも、相手の方が一枚上だったかな」
「それでも1年でスタメンに出て、県大会ベスト8まで行ったんだろ?」
大輔が口を挟む。
「十分すごいって」
「本当に余裕はなかったんだけどね」
「直樹君はいつもそう言うよね」
瑞葉に言われ、直樹は少し困ったように笑った。
「……ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいよ」
「次の大会も応援に行くから」
「次はもう少し余裕を持ってプレーできるように頑張るよ」
その時、厨房の方から宗一郎さんに呼ばれる。
「槻山君、そろそろお願いできるかな」
「はい」
返事をして、4人へ向き直る。
「悪い。仕事へ戻るよ」
「うん。ごちそうさま」
「パンナコッタ、おいしかったよ」
「宗一郎さんにも伝えておく」
「叶多にも言ってるんだけど」
千夏にそう言われ、少しだけ返事に困った。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
千夏が満足そうに笑う。
俺は空になった皿をトレーへ載せ、厨房へ戻った。