夏休みも半ばを過ぎた午後。
窓の外では、強い日差しを避けるように、通りを歩く人々が建物の影へ寄っていた。
冷房の利いた店内には静かな音楽が流れ、時折、食器の触れ合う小さな音が聞こえてくる。
私はカップを持ち上げ、紅茶を一口飲んだ。
向かいの席では、佳乃がコーヒーへ口をつけている。
「やっぱり、ここは落ち着くね」
「ああ。夏休み中でも、それほど騒がしくない」
「がっせー、静かな店好きだよね」
「わざわざ騒がしい場所で話す必要はないだろう」
「それはそうだけど」
佳乃は小さく笑い、窓の外へ目を向けた。
今日は生徒会の用事があって集まったわけではない。
昼食を一緒に取ったあと、しばらく街を見て回り、午後3時を過ぎた頃にこの喫茶店へ入った。
学校で顔を合わせる機会は多いが、休日に二人で出かけることも珍しくはない。
「二学期に入ったら、また忙しくなるね」
「文化祭があるからな」
「今年も企画書、多そう」
「クラスと部活動だけでも相当な数になる。内容だけでなく、使用場所や備品の重複も確認しなければならない」
「貸し出す備品や、再利用できる飾りの整理も必要だよね」
「ああ。文化祭実行委員会にも、早めに確認してもらう必要がある」
「桜庭と鷹取がまとめてる臨時予算の案も、二学期最初の会議で確認するんだっけ」
「部活動向けのものだから、文化祭のクラス予算とは別だ。申請できる金額の上限と審査基準をまとめてもらっている」
「一年生の三人もいるけど、今年も大変そうだね」
「仕事を分担できる相手が増えたのは助かる。だが、その分、生徒会として対応できる範囲も広がるからな」
「がっせーなら、余裕ができた分だけ仕事を増やしそうだもんね」
「必要なことだ。三人とも任せた仕事はきちんとこなしている。文化祭でも十分に力になってくれるだろう」
槻山、鷹取、石倉。
三人とも生徒会へ加わってから、それぞれの担当で経験を積んでいる。
上級生役員の助言が必要な場面はまだあるが、以前より任せられる仕事は増えていた。
「がっせー、もう二学期の仕事を考えてるんだ」
「始まってから慌てても遅いだろう」
「休みの日まで会長だね」
「佳乃も副会長だろう」
「今日はただの友達としてお茶しに来たの」
「それは分かっている」
「じゃあ、仕事の話はここまで。せっかくだし、何か甘い物でも頼もうかな」
佳乃は楽しそうに笑うと、テーブルの端に置かれていたメニューを手に取った。
「がっせーは?」
「私は紅茶だけでいい」
「気になるのない?」
「そうだな……」
佳乃が開いたメニューへ目を向ける。
季節の果物を使ったタルトや、アイスクリームを添えたワッフルなど、午後の時間に合わせた品がいくつか並んでいた。
「このタルト、おいしそうじゃない?」
「佳乃が食べたいのなら頼めばいい」
「がっせーも一口食べる?」
「最初から分けるつもりなのか?」
「一人で食べてもいいけど、せっかくだから」
「なら、少しだけもらおう」
「珍しく素直だね」
佳乃は満足そうに笑い、店員を呼んだ。
注文したのは、季節の果物を使ったタルトだった。
しばらくして、季節の果物を使ったタルトが運ばれてきた。
佳乃は店員へ礼を言うと、フォークでタルトを半分に切り分ける。
「本当に半分もいらないぞ」
「一口って言っても、どのくらいか分からないでしょ」
「明らかに一口ではないだろう」
「残ったら私が食べるから大丈夫」
佳乃はそう言って、小さな取り皿へ切り分けたタルトを載せ、私の前へ置いた。
断るほどの量でもない。
フォークで果物と生地を一緒に切り取り、口へ運ぶ。
「どう?」
「おいしいな。果物の酸味と甘さのバランスがいい」
「でしょ?」
佳乃は満足そうに笑い、自分の分のタルトを一口食べた。
「そういえば、がっせーは夏休み、何してるの?」
「特別なことはしていない」
「学校説明会以外で全然会ってないから、何してるのかなって」
「家の用事を済ませたり、本を読んだりしている」
「どんな本?」
「今読んでいるのは海外の推理小説だ」
「また難しそうなの読んでるね」
「推理小説だと言っただろう。専門書ではない」
「チェスもしてる?」
「ああ。時間があるときにな」
「休みの日まで頭を使うんだ」
「好きでやっていることだ。勉強とは違う」
「本当にいつもどおりだね」
「趣味を休みごとに変える人間の方が珍しいだろう」
「そういう意味じゃないって」
佳乃は苦笑しながら、タルトを一口食べた。
「出かけたりはしてないの?」
「出かけてはいる」
「誰と?」
「一人のこともあれば、家族と一緒のこともある」
「男の子とは?」
「ないな」
「そっか」
佳乃はそう答えると、何かを考えるようにフォークを止めた。
「このままだと、今年も彼氏できないんじゃないの?」
唐突な言葉に、カップへ伸ばしかけていた手が止まった。
「急に何の話だ」
「がっせーの夏休みの話。男の子と出かける予定もないんでしょ?」
「ああ」
「それだと、彼氏ができるきっかけもないじゃん」
「……そうかもしれないな」
私が認めると、佳乃は意外そうに目を瞬かせた。
「ずいぶん素直に認めるね」
「事実だからな。交際している相手はいないし、今のところ、そうなる予定もない」
「でも、恋人を作る気はあるんだっけ?」
「高校にいる間に、将来を考えられる相手が見つかるのであれば、それに越したことはない」
佳乃はフォークを皿へ置き、こちらを見つめる。
「がっせーなら、声をかければ喜ぶ男の子は多いと思うよ」
「天ヶ瀬家の娘に近づきたい者なら、いくらでもいるだろうな」
「全員が家目当てってわけじゃないでしょ」
「そうかもしれない。だが、私は榊のようにモテないからな」
「それは比べる相手が悪いよ」
「同じ女子であることに変わりはない」
「琴姫は男子との距離の詰め方が上手すぎるの。がっせーだって、十分人気はあるでしょ」
「遠巻きに見られることを、人気があるとは言わないだろう」
榊の周囲には、いつも男子がいる。
本人から積極的に声をかけることもあれば、相手の方から近づいてくることも多い。
誰に対しても思わせぶりでありながら、決して踏み込ませすぎない。
あのような振る舞いを好ましいとは思わないが、異性の関心を引くことに関して、榊が私より上であることは否定できなかった。
「がっせーの場合、話しかける前に緊張されてるだけだと思うけど」
「結果として誰も近づいてこないなら、同じことだ」
「自分から行けばいいじゃん」
「それが簡単にできれば苦労はしない」
「誰に声をかけたらいいか分からないの?」
「ああ」
男子と話す機会がまったくないわけではない。
だが、誰が交際相手としてふさわしいのか、誰なら私自身を見てくれるのかまでは分からない。
「今の目標は、将来婚約者になってもらえる相手を見つけることだ」
「いきなり婚約者なんだ」
「付き合うだけで終わる相手を探しても仕方がないだろう」
「高校生の恋愛としては、かなり重い気がするけど」
「将来を考えられない相手と交際する方が、私には理解できない」
「がっせーらしいね」
「褒めているのか?」
「半分くらいは」
佳乃は残っていたタルトを一口食べると、考えるようにフォークを止めた。
「同じ学年なら、真壁君は?」
「真壁か」
「仕事もできるし、面倒見もいいでしょ。がっせーも信頼してるし」
「仕事仲間としては信頼している。だが、交際相手として考えたことはない」
「じゃあ、三年の先輩は? 去年の生徒会で一緒だった人とか」
「卒業が近い相手では、今から互いを知る時間が短いだろう」
「好きになったら時間なんて関係ないと思うけど」
「私は将来、婚約者になってもらえる相手を探しているんだ。慎重になるのは当然だろう」
「それなら、後輩は?」
「後輩?」
「うん。年下だから駄目ってわけじゃないでしょ」
「それはそうだが」
「槻山君とか」
「槻山か?」
いくつか名前を挙げていた中で、槻山だけはすぐに否定する言葉が出てこなかった。
「真面目で成績もいいし、料理もできる。生徒会の仕事だって、がっせーがかなり信頼してるでしょ」
「ああ。確かに、槻山は好ましい男性だと思っている」
「おっ、素直に認めた」
「否定する理由がないからな。仕事に対して真面目で、任せたことは確実にこなす。周囲への気遣いもできるし、必要以上に女子へ媚びることもない」
「それに、お弁当を作ってもらったときも嬉しそうだったよね」
「あれは本当においしかったからな。料理の腕も確かなものだった」
「人柄も問題なし?」
「ああ。信頼できる相手だ」
「それなら、婚約者候補としても悪くないんじゃない?」
「条件にも人柄にも、問題はない」
「やっぱり、前から槻山君のことを少し気にしてたんじゃない?」
「そう見えたか?」
「うん。槻山君のことになると、評価がやけに具体的だから」
言われてみれば、槻山については仕事の能力だけでなく、普段の振る舞いや周囲への接し方まで、思いのほか細かく覚えている。
生徒会長として一年生役員を見ていただけだと思っていたが、ほかの二人について同じように語れるかと問われれば、少し自信がなかった。
「優良物件なんだから、声をかけてみればいいじゃん」
「おそらく、槻山は候補にならない」
「どうして?」
「すでに親しい女子がいる可能性が高いからだ」
「槻山君に彼女がいるの?」
「分からない」
「分からないのに、候補から外すの?」
「家の手伝いでゲームショウへ行ったときに見かけたんだ。一年の女子生徒と二人で来ていた」
「そうだったんだ」
佳乃は初めて聞いたように目を瞬かせた。
「休日に二人で出かける程度には親しいということだ。交際している可能性もあるだろう」
「でも、友達かもしれないよ?」
「その可能性もある」
「なら、彼女だと決まったわけじゃないじゃん」
「決まってはいない。だが、相手がいるかもしれない男子へ、こちらから声をかけるつもりはない」
「本人に聞いてみたら?」
「何と聞くんだ」
「ゲームショウに一緒にいた子って、彼女なのかって」
「もし彼女ならば、そんなことを尋ねるのは気まずいだろう」
「彼女じゃなかったら?」
「それでも、交友関係を探るような質問を突然するのは不自然だ」
「気になってるから聞いたって言えばいいじゃん」
「余計に聞けなくなるだろう」
「がっせー、時には自分からアタックしないと、彼氏なんてできないよ」
「分かってはいる」
「本当に?」
「頭ではな」
「そこまで分かってるなら、あとは行動するだけじゃん」
「それが簡単にできれば、最初から困ってなどいない」
佳乃はコーヒーへ口をつけた。
「それに、私のような不器用な女を選ばなくとも、槻山ならほかにいくらでも相手を見つけられるだろう」
「うーん。私は、がっせーにも十分可能性はあると思うけどなぁ」
「そうだとしても、休日に二人で出かけるほど親しい女子がいることは確かだ。それだけで、こちらから近づかない理由にはなる」
「本人に確認する気はないの?」
「ない。二人の関係へ踏み込む理由がないからな」
「慎重すぎると思うけどなぁ」
「婚約者になってもらう相手を探しているんだ。曖昧な状態のまま近づくつもりはない」
「でも、それだと勘違いしたまま終わるかもしれないよ?」
「そのときは、縁がなかったということだろう」
私がそう答えると、佳乃は呆れたように息を吐いた。
「がっせーって、変なところで諦めがいいよね」
「無理に割り込もうとしないだけだ」
「その判断が正しいといいけど」
「何が言いたい」
「別に。あとで後悔しても知らないよってこと」
佳乃は意味ありげに笑い、残っていたコーヒーへ口をつけた。
槻山が好ましい男性であることは否定しない。
だが、すでに親しい女子がいるのなら、私が婚約者候補として考えるべき相手ではない。
だから、槻山を候補から外すという判断は間違っていない。
私はそう結論づけ、少し冷めた紅茶を口へ運んだ。