8月14日。
午後1時半の待ち合わせに間に合うよう、俺は駅前へ向かっていた。
昨日の夕方、千夏から水族館へ行かないかと誘われた。
急な話ではあったものの、今日はアルバイトもなく、ほかに予定も入っていなかったため、その場で了承した。
午前中はいつもどおり二学期の予習を進め、昼食を済ませてから家を出ている。
駅前へ着くと、待ち合わせの時間まではまだ10分ほどあった。
休日ということもあり、改札の周囲には待ち合わせらしい人の姿が多い。
その中から千夏を探していると、柱の近くに立つ見慣れた姿が目に入った。
千夏はすでに到着していた。
白い半袖のブラウスに、淡い色のロングスカート。肩には小さめのバッグを掛けている。
海へ行ったときとは違う、落ち着いた服装だった。
こちらに気づいた千夏が、ぱっと表情を明るくする。
「叶多!」
手を振りながら近づいてくる。
「待たせた?」
「ううん。私も今来たところ」
「まだ時間前だけど、早かったな」
「叶多を待たせるのも悪いかなって」
「俺も同じことを考えてたけど、負けたな」
「なにそれ」
「先に着いた方の勝ちだろ」
「そんな勝負してないし」
千夏はそう言いながら、楽しそうに笑った。
海で見たときよりも落ち着いた服装だが、明るい髪色にはよく似合っている。
「その服、似合ってるな」
「えっ」
「普段と少し雰囲気が違うけど、千夏らしいと思う」
「そ、そう?」
「ああ」
千夏は自分のスカートへ視線を落とし、裾を軽くつまんだ。
「昨日、ちょっと迷ったんだよね。せっかく出かけるんだし、いつもと同じなのもどうかなって」
千夏は照れくさそうに笑ったあと、今度はこちらの服へ視線を向けた。
「叶多も、今日の服いいじゃん」
「ありがとう」
今日は半袖のシャツに細身のパンツを合わせている。
千夏と二人で出かける以上、あまり適当な格好をするのも失礼だと思い、普段より少しだけ整えてきた。
「じゃあ、行こっか」
「ああ」
並んで改札を通り、ホームへ向かう。
水族館の最寄り駅までは、ここから電車で20分ほどらしい。
到着した電車へ乗り込むと、休日の昼過ぎということもあって、車内にはそれなりに人がいた。
空いている座席を見つけ、千夏と並んで腰を下ろす。
「急に誘ってごめんね」
「気にしなくていいよ。ちょうど予定も空いてたし」
「本当は、もう少し早く誘おうと思ってたんだけど」
「そうなのか?」
「うん。でも、海の次の日にまた出かけようって言うのも、疲れてるかなって」
「少し疲れは残ってたけど、昨日にはもう大丈夫だったよ」
「ならよかった」
千夏は安心したように息を吐いた。
「水族館にはよく行くのか?」
「子供の頃は何回か行ったけど、最近は全然。叶多は?」
「俺も久しぶりだな。最後に行ったのがいつか、すぐには思い出せないくらいだ」
「じゃあ、二人とも同じだね」
「ああ」
話しているうちに、電車が次の駅へ到着する。
乗り込んできた人たちで、車内は少し混み始めた。
千夏は隣に座ったままだが、人が通るたびに肩が触れそうになる。
海へ行ったときには大勢で一緒にいたため、こうして二人きりで並んでいると少し不思議な感じがした。
千夏とは普段からよく話している。
それでも、学校の外で二人だけになるのは今日が初めてだ。
「どうしたの?」
「いや、千夏と二人で出かけるのは初めてだと思って」
「……うん」
「いつもは直樹たちもいるから、少し新鮮だな」
「私も、そう思ってた」
千夏は前を向いたまま答える。
声が少し小さくなった気がしたが、周囲が騒がしくなったせいだろう。
「今日は付き合ってくれてありがとね」
「俺も水族館には行きたかったし、誘ってくれて助かったよ」
「そっか」
千夏の口元が、わずかに緩んだ。
それからは、海水浴のときに撮った写真や、夏祭りの予定について話しているうちに最寄り駅へ到着した。
改札を出ると、水族館へ向かう人らしい家族連れやカップルの姿が多い。
駅からは案内表示に従って、広い歩道を進んでいく。
「思ってたより人いるね」
「夏休みだからな」
「入口、混んでるかな」
「事前に買ってあるんだろ?」
「うん。昨日のうちに買った」
「準備がいいな」
「誘ったの私だし、そのくらいはね」
千夏はスマートフォンを取り出し、画面に表示された電子チケットを確認する。
「代金、あとで払うよ」
「いいよ。私が誘ったんだし」
「そういうわけにはいかないだろ」
「でも、急に誘ったのは私だよ?」
「それとチケット代は別だ。中に入ってからでもいいから、金額を教えてくれ」
「叶多、こういうところ真面目だよね」
「普通だと思うけど」
「じゃあ、今度ご飯奢ってもらおうかな」
「それでいいのか?」
「うん。それで交渉成立」
千夏は満足そうに笑い、スマートフォンをバッグへ戻した。
しばらく歩くと、海を思わせる青い壁面の建物が見えてくる。
入口の前には大きな水槽を模した看板が置かれ、その周囲では家族連れが記念写真を撮っていた。
「着いた」
「思っていたより大きいな」
「ね。中にトンネル水槽もあるみたい」
「それは楽しみだな」
「ほかにも結構いろんな展示があるみたいだよ」
「事前に調べたのか?」
「一応ね。せっかく来るなら、見逃したくないし」
千夏が少し得意そうに笑う。
入口へ向かう人の列へ並び、千夏が二人分のチケットを表示した。
係員の確認を終えて館内へ入ると、外の明るさから一転し、周囲が薄暗くなる。
青い照明に照らされた通路の先で、大きな水槽の中を魚の群れがゆっくりと泳いでいた。
「わあ……」
千夏が小さく声を漏らす。
普段より静かな反応が珍しくて、思わず横顔を見る。
水槽から漏れる青い光が、千夏の髪や頬を淡く照らしていた。
「綺麗だな」
「うん。すごく綺麗」
千夏は水槽を見つめたまま答える。
俺もその隣へ並び、ゆっくりと泳ぐ魚へ視線を向けた。
水槽の中では、銀色の小さな魚がまとまって泳いでいた。
一斉に向きを変えるたび、鱗が照明を反射し、水中に細かな光が走る。
「こういうの、ずっと見てられるかも」
「分かる。動きがそろってるのに、ぶつからないのも不思議だな」
「一匹だけ違う方に行ったりしないのかな」
「端の方には何匹かいるけど、すぐ戻ってるな」
俺が水槽の隅を指すと、千夏もそちらへ顔を近づけた。
「あ、本当だ」
水槽を見ようとした千夏の肩が、俺の腕へわずかに触れる。
千夏はすぐに身体を離したが、何か気になるものを見つけたように、そのまま水槽へ視線を向けていた。
「次、向こうも見たい」
「ああ」
通路に沿って進むと、壁へ埋め込まれた小さな水槽が並んでいた。
色鮮やかな熱帯魚や、岩の隙間に身体を隠す魚。砂の中から顔だけを出している細長い生き物もいる。
「これ、かわいい」
千夏が足を止めたのは、岩陰から丸い顔を覗かせている小さな魚の水槽だった。
「さっきの大きな水槽より、こういうのが好きなのか?」
「大きいのも綺麗だけど、この子、なんかぼーっとしてない?」
「確かに、悩みなんてなさそうな顔だな」
「ちょっと羨ましいかも」
「こうして岩陰でじっとしてるのを見ると、のんびりしてるようには見えるな」
「でしょ?」
千夏はそう言いながら、水槽の前に置かれた説明板へ目を落とした。
「夜になると動くんだって」
「今は休んでるだけか」
「ぼーっとしてるんじゃなくて、のんびりしてるだけだったんだね」
そんな話をしながら、順番に水槽を見て回る。
千夏は気になる生き物を見つけるたびに足を止め、そのたびに俺も隣へ並んだ。
普段は明るくよく話す印象が強いが、水槽を眺めている間は思っていたより静かだった。
「千夏って、こういう場所が好きなんだな」
「うん。詳しいわけじゃないけど、見てるのは好き」
「学校にいるときとは、少し雰囲気が違うな」
「そう?」
「こういう静かな場所も、似合うと思う」
「……そっか」
千夏は少し照れたように笑い、再び水槽へ視線を戻した。
いくつかの展示を通り過ぎると、通路の先に下り坂が見えてくる。
壁には、トンネル水槽と書かれた案内表示があった。
「ここだ」
「思ったより早かったな」
「楽しみにしてた?」
「水槽の下を歩くのは、ほとんど覚えがないからな」
「じゃあ、ゆっくり見よ」
坂を下りるにつれて、天井まで水槽に覆われていく。
頭上では、大きな魚がゆっくりと横切り、そのさらに奥を小さな魚の群れが泳いでいた。
水面から差し込む光が揺れ、通路の床にも波のような模様を映している。
「すごい……」
千夏が足を止め、頭上を見上げた。
その直後、影が俺たちの上を通り過ぎる。
見上げると、平たい身体をした大きなエイが、翼を広げるように泳いでいた。
「でかいな」
「お腹、顔みたいに見える」
「目に見えるのは鼻の穴らしいけどな」
「知ってるけど、顔にしか見えないじゃん」
千夏はスマートフォンを取り出し、頭上を泳ぐエイへ向けた。
だが、光の反射が強いのか、何度か角度を変えている。
「うまく撮れない?」
「動いてるし、暗いから難しい」
「少し貸して」
千夏からスマートフォンを受け取り、画面の明るさと角度を調整する。
エイが再び近づいてくるのを待ち、頭上を通過する瞬間に何枚か撮影した。
「こんな感じでどうだ?」
「見せて」
千夏が俺の横から画面を覗き込む。
肩が触れるほど近い位置まで来たが、写真へ集中しているらしい。
「綺麗に撮れてる。叶多、写真撮るの上手いんだ」
「何枚か撮った中で、ましなのを選んだだけだよ」
「それでも、私が撮ったのより全然いい」
「何枚か撮ったから、好きなのを残しておけばいいよ」
「うん。ありがと」
スマートフォンを返すと、千夏は撮った写真を見比べながら、そのうちの一枚を選んだ。
俺は再び頭上の水槽へ視線を向ける。
大きなエイがゆっくりと通り過ぎ、その後ろを銀色の魚の群れが追うように泳いでいた。
カシャリ、と背後で小さな撮影音が鳴る。
千夏も水槽を撮っているのだろう。
特に気にせず、そのまま頭上を泳ぐ魚を眺める。
しばらくして振り返ると、千夏はスマートフォンの画面を見つめながら、嬉しそうに頬を緩めていた。
「いい写真、撮れた?」
「えっ? う、うん。結構いいかも」
「ならよかった」
「……うん」
千夏はもう一度だけ画面を確かめると、スマートフォンを大事そうにバッグへ戻した。
「次、向こうも見てみようか」
「ああ」
千夏はどこか機嫌よさそうに、俺の隣へ並んだ。
それからもいくつかの水槽を見て回り、気づけば館内を一通り見終えていた。
外へ出ると、まだ日は高かったものの、海から吹く風は来たときより少し涼しく感じられた。
「楽しかったね」
「ああ。思っていたより長く見てたな」
「途中で結構立ち止まってたからね」
「千夏が気になるものを見つけるたびにな」
「叶多も一緒に見てたじゃん」
「俺も気になったからな」
千夏は満足そうに笑い、俺の隣を歩く。
駅へ向かう途中、入口で話したことを思い出した。
「そういえば、今度のご飯はどうする?」
「ちゃんと覚えてたんだ」
「忘れないよ」
「じゃあ、食べたいもの考えておく」
「ああ。決まったら教えてくれ」
「うん。今日は付き合ってくれてありがとね」
「こちらこそ。誘ってくれてありがとう」
千夏は嬉しそうに笑った。
昨日になって急に決まった外出だったが、来てみれば思っていた以上に楽しかった。
今度の食事も、きっと今日と同じように楽しい時間になるだろう。
そんなことを考えながら、俺たちは並んで駅へ向かった。