午前の授業は、その後も滞りなく進んだ。
授業の速度は速かったが、事前に予習していたおかげで、今のところ問題なくついていけている。
そして4時間目の終了を告げるチャイムが鳴った。
「今日はここまで。次回までに、教科書の問題を解いておくように」
教師が教室を出ていく。
それまで静かだった教室が、一気に騒がしくなった。
昼休みだ。
弁当を取り出す者。
友人同士で机を寄せる者。
食堂や購買へ向かうため、急いで教室を出ていく者。
俺は鞄の中から弁当箱を取り出した。
一人暮らしを始めたばかりとはいえ、昼食を毎日買うつもりはない。
外食ばかりでは金もかかるし、栄養も偏りやすい。
何より、自分で作った方が好みのものを食べられる。
弁当箱の蓋を開ける。
鶏肉の照り焼き。
だし巻き卵。
きんぴらごぼう。
ほうれん草のおひたし。
彩りにミニトマトと茹でたブロッコリーを添え、ご飯には白胡麻を振ってある。
特別豪華なものではない。
朝でも無理なく作れる、一般的な和風弁当だ。
「え、それ叶多が作ったの?」
隣から声が聞こえた。
振り向くと、千夏が俺の弁当箱を覗き込んでいた。
「そうだよ」
「自己紹介で料理できるって言ってたけど、想像してたより本格的」
「これくらいなら普通の弁当だろ」
「普通ではないと思うけど」
千夏は自分の昼食を机へ置くと、改めて俺の弁当へ視線を落とした。
「盛り付けも綺麗だし、色のバランスもいい」
「よく見てるな」
「写真撮るの好きだから、見た目は結構気にするよ」
そう言って、千夏はスマートフォンを取り出した。
「写真撮ってもいい?」
「弁当を?」
「うん。美味しそうだし、普通に映えそう」
「別に構わないよ」
「ありがと」
千夏は弁当箱へカメラを向ける。
一枚撮って終わりかと思ったが、少し角度を変え、机の上に置かれていたペンケースを端へ寄せ、何度か画面を確認していた。
思っていたより本格的だ。
「これ、SNSに載せてもいい?」
「別に構わないけど」
千夏は撮った写真を確認すると、満足そうに頷いた。
「うん。いい感じ」
「弁当より写真の方が気になってないか?」
「食べる前に写真撮るのは大事でしょ」
「冷めないうちに食べる方が大事だと思うけど」
「そこは価値観の違いだね」
千夏は平然と答えた。
自分の弁当箱を開きながらも、視線は時折こちらへ向いている。
「そんなに気になる?」
「だって美味しそうなんだもん」
「味見する?」
「いいの?」
千夏が少しだけ目を丸くした。
「食べたいなら」
「食べたい」
即答だった。
俺は弁当箱の蓋へ、だし巻き卵を一切れ取り分けた。
「どうぞ」
「ありがと」
千夏は箸で卵を持ち上げ、そのまま口へ運ぶ。
一度、ゆっくりと噛む。
そして、目を見開いた。
「……何これ」
「だし巻き卵だけど」
「それは見れば分かるよ」
千夏はもう一度味を確かめるように噛み、こちらを見た。
「すごく美味しい」
「それならよかった」
素直に褒められると、やはり嬉しい。
料理は食べてもらって初めて完成する。
美味しいと言ってもらえることは、料理を作る側にとって何よりの喜びだった。
「卵はふわふわだし、味もしっかりしてるのに濃くないし……どうやって作ったの?」
「出汁を入れて、固くなる前に巻いてるだけだよ」
「その『だけ』が絶対難しいんだけど」
千夏は呆れたように笑った。
「こっちも美味しいよ。照り焼きは今日の自信作だ」
俺は鶏肉の照り焼きを一切れ、弁当箱の蓋へ取り分ける。
「まだもらっていいの?」
「遠慮しなくていいよ」
「じゃあ、いただきます」
千夏は嬉しそうに箸を伸ばした。
照り焼きを口へ運び、ゆっくりと噛む。
「……こっちもすごく美味しい」
「まぁプロ目指してるしね」
「絶対なれるよ」
迷いのない言葉だった。
「ずいぶん簡単に言うんだな」
「だって、これだけ美味しいんだもん。なれない方がおかしくない?」
「ありがとう」
前世では、すでに料理人として働いていた。
今世でも、その経験に胡坐をかくことなく、子どもの頃から研鑽を続けてきた。
もう一度、料理人としてやっていける自信はある。
それでも、誰かに真っすぐ応援してもらえるのは素直に嬉しかった。
「将来は自分のお店とか出すの?」
「そこまではまだ決めてないよ。まずは、料理人として働けるだけの実力を身につけないとな」
「もう十分ありそうだけど」
「家庭で弁当を作るのと、店で金をもらって料理を出すのは別だからね」
「真面目だねえ」
「食べ物を扱う仕事だからな。適当にはできないよ」
千夏は感心したように頷いた。
「じゃあ、叶多が店を出したら食べに行く」
「随分先の予約だな」
「常連第1号になってあげる」
「その頃まで覚えてたらね」
「覚えてるって。こんな美味しいお弁当、簡単には忘れないし」
千夏はそう言って、もう一度弁当へ視線を落とした。
「イタリアンは、これより得意なんだよね?」
「一応ね」
「どんなの作るの?」
「材料と調理器具さえあればなんでも作れるよ」
「なんでもって、すごい自信」
「それだけ練習してきたからね」
「じゃあ、何をお願いするか考えておこうかな」
「それまで腕を磨いて千夏が満足できる料理を出してみせるよ」
「……そういうこと、普通に言うんだ」
「何か変だった?」
「別に。じゃあ、楽しみにしてる」
千夏はわずかに目を逸らし、自分の昼食へ箸を伸ばした。
何かおかしなことを言っただろうか。
料理を振る舞う以上、相手を満足させたいと思うのは当然だ。
前世でも、客に喜んでもらうために腕を磨いてきた。
千夏が何を気にしたのか分からないまま、俺も弁当を食べ進める。
しばらくして、机の上に置かれた千夏のスマートフォンが何度か震えた。
「あ、もう反応来てる」
「さっきの写真?」
「うん。どこのお店のお弁当って聞かれてる」
「店のものに見えるなら、悪くないな」
「悪くないどころか、みんな普通に信じてるよ」
千夏は画面を指先で滑らせながら、楽しそうに笑う。
「ほら。この卵焼き食べたいって」
「残念ながら、もう千夏が食べたな」
「私が先でよかった」
「そこまで気に入った?」
「うん。お世辞じゃなくて、本当に美味しかった」
迷いなく言い切られる。
料理の感想として、これ以上嬉しい言葉もない。
「じゃあ、明日は別のものを作ってみるよ」
「明日も味見していいの?」
「まだ何を作るかも決めてないけどね」
「じゃあ期待しないで待ってる」
「期待してる人の言い方だな」
「あはは、ばれた?」
千夏は楽しそうに笑った。
入学してから、まだ二日目だ。
それでも、千夏の人懐っこさと気さくな性格のおかげで、最初に話したときよりずっと自然に会話できるようになっていた。
これなら、これからもっと仲良くなれそうな気がする。
高校生活の滑り出しとしては、かなり幸先がいい。
千夏は明るくて、自信がある。
それでいて、相手への気遣いも忘れない。
千夏が中等部から人気だった理由が、少しずつ分かってきた気がする。
やがて昼休みの終わりを知らせる予鈴が鳴った。
「もう終わりか。昼休みって短いね」
「話してると余計に早く感じるな」
「それって、私と話すのが楽しかったってこと?」
「そういうことになるね」
千夏は一瞬だけ目を丸くし、それから嬉しそうに笑った。
「そっか。私も楽しかったよ」
弁当箱を片づけながら、俺も自然と頬が緩む。
最初の隣が千夏でよかった。
素直に、そう思った。