機動戦士ガンダム:残響   作:片蔵清優

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■第1巻 第1章「静かな海」

「静かな海」

 

 

U.C.0110。

 

3月12日。

 

地球。

 

早朝。

 

 

海沿いの慰霊施設には、

まだ人の気配がほとんどなかった。

 

 

風だけがそこにある。

 

 

波の音が、

静かに繰り返されていた。

 

 

寄せては返す。

 

 

まるで、

時間そのものが呼吸しているようだった。

 

 

空は薄曇り。

 

海は深い蒼を湛えている。

 

 

その色だけが、

妙に重かった。

 

 

 

白い花を供える女性がいる。

 

 

年齢は分からない。

 

 

いや。

 

 

分からなくしている。

 

 

長い金髪は、

海風の中でも乱れなく整えられていた。

 

 

白いコート。

 

淡い香水。

 

 

指先に至るまで、

一切の隙がない。

 

 

まるで。

 

 

“いつか誰かに再会する日”のために、

時間そのものへ抗い続けてきたみたいだった。

 

 

その美しさは、

若さじゃない。

 

 

覚悟だった。

 

 

彼女は何も言わず、

慰霊碑を見つめている。

 

 

そこには、

無数の名前が刻まれていた。

 

 

ロンド・ベル。

 

地球連邦軍。

 

民間人。

 

 

戦争で失われた、

数え切れない命。

 

 

そして――

 

いくつかの“空白”。

 

 

不自然な欠落だった。

 

 

削られた形跡はない。

 

 

最初から、

そこだけ存在しなかったかのように空いている。

 

 

だが。

 

 

見ていると、

奇妙な違和感だけが残る。

 

 

何か大切な名前が、

そこにあった気がするのだ。

 

 

思い出せない。

 

 

思い出そうとすると、

微かな頭痛だけが走る。

 

 

 

その空白に。

 

 

この世界の“歪み”が潜んでいた。

 

 

 

遠くの施設から、

ニュース音声が漏れてくる。

 

 

『サイド6宙域において、

再び高濃度サイコフレーム反応が観測されました』

 

 

『近年、同様の現象は増加傾向にあり――』

 

 

『一部専門家は、

アクシズ・ショックとの関連性を指摘しています』

 

 

『なお現地では、

通信障害及び短時間の記録齟齬が確認され――』

 

 

音声が乱れる。

 

 

一瞬だけ、

ノイズが混じった。

 

 

女性の指先が、

ほんのわずか止まる。

 

 

だが、

彼女は振り返らない。

 

 

表情も変えない。

 

 

ただ静かに、

その言葉だけを受け取っていた。

 

 

風が少し強くなる。

 

 

波音が近づいたように感じた。

 

 

いや。

 

 

違う。

 

 

“海そのものが近づいている”。

 

 

そんな錯覚。

 

 

 

その時。

 

 

後方から、

静かな声が届く。

 

 

「また反応しておりますなぁ〜」

 

 

女性は振り返らない。

 

 

だが、

少しだけ目を細めた。

 

 

そこに立っていたのは、

年老いた男。

 

 

黒い執事服。

 

白手袋。

 

 

その立ち姿には、

軍人とも技術者とも違う、

独特の整然さがある。

 

 

マルク。

 

 

ノアズアーク所属。

 

 

そして――

 

フィロメラ開発主任。

 

 

彼は海を見ながら、

静かに続けた。

 

 

「海底観測層の揺らぎ、

前回より深くなっております」

 

 

女性は小さく息を吐く。

 

 

「……そう」

 

 

マルクは、

わずかに肩を竦めた。

 

 

「いよいよ、

隠し通せなくなるやもしれませんな」

 

 

その言葉に、

女性はようやく海を見る。

 

 

深い蒼。

 

 

静かな海。

 

 

だがその下に。

 

 

巨大な“何か”が眠っている。

 

 

誰にも知られず。

 

 

長い年月をかけて、

静かに準備され続けてきたもの。

 

 

アマテラス。

 

 

そして。

 

 

ノアズアーク。

 

 

彼女は小さく呟く。

 

 

「もう……

同じことは繰り返させない」

 

 

マルクは静かに目を伏せる。

 

 

「……はい」

 

 

短い返答。

 

 

だがその中には、

長い年月が詰まっていた。

 

 

一年戦争。

 

 

グリプス戦役。

 

 

第一次ネオ・ジオン抗争。

 

 

第二次ネオ・ジオン抗争。

 

 

そして。

 

 

マフティー動乱。

 

 

彼女は、

ずっと見てきた。

 

 

失われていく人達を。

 

 

戻らない人達を。

 

 

そして最後には。

 

 

アムロとシャアまで、

世界から消えた。

 

 

だから。

 

 

次に世界が戦争へ触れた時。

 

 

今度は、

傍観しないために。

 

 

彼女は艦隊を作った。

 

 

海の底へ隠し。

 

 

誰にも知られず。

 

 

長い年月をかけて。

 

 

ノアズアーク。

 

 

それは私設武装艦隊。

 

 

だが本質は違う。

 

 

“帰還艦隊”。

 

 

帰れなくなった者達を。

 

 

もう一度、

連れ戻すための艦隊。

 

 

そして。

 

 

その艦隊はまだ、

完成していない。

 

 

艦長がいないから。

 

 

ブライト・ノアという、

最後の支柱が欠けたままだから。

 

 

マルクが静かに言う。

 

 

「お迎えに行かれるのですな」

 

 

女性は、

すぐには答えなかった。

 

 

波音だけが続く。

 

 

やがて。

 

 

小さな足音がした。

 

 

振り返ると、

子供が一人立っている。

 

 

慰霊碑を見上げていた。

 

 

まだ幼い。

 

 

だがその目だけは、

妙に真っ直ぐだった。

 

 

子供が尋ねる。

 

 

「ねえ、おばさん」

 

 

「アムロって、

本当にいたのかな?」

 

 

 

その名前が、

空気を少しだけ変える。

 

 

アムロ・レイ。

 

 

今では歴史上の人物として語られる名。

 

 

だが。

 

 

同時に、

記録の曖昧な存在でもあった。

 

 

戦果記録。

 

映像。

 

証言。

 

 

一致しない。

 

 

まるで、

誰かが存在の輪郭を上書きしたように。

 

 

 

女性は、

少しだけ困ったように笑う。

 

 

そして静かに答えた。

 

 

「ええ」

 

 

「いましたよ」

 

 

 

子供の目が輝く。

 

 

「強かったの?」

 

 

 

沈黙。

 

 

海風。

 

波音。

 

 

その全てが、

一瞬だけ遠くなる。

 

 

 

女性はゆっくりと目を伏せた。

 

 

そして。

 

 

静かに言う。

 

 

「……優しい人でした」

 

 

 

その答えは、

英雄譚ではなかった。

 

 

だが。

 

 

それこそが、

その人物の本質だった。

 

 

 

子供は少し考えたあと、

小さく頷く。

 

 

そして、

施設の中へ走っていった。

 

 

再び、

静寂だけが残る。

 

 

女性はゆっくりと、

ポケットへ手を入れる。

 

 

取り出したのは、

一枚の古い写真。

 

 

そこには、

かつて戦争のただ中にいた人々が写っていた。

 

 

ブライト。

 

ミライ。

 

カイ。

 

ハヤト。

 

フラウ・ボウ。

 

 

そして。

 

 

アムロ・レイ。

 

キャスバル・レム・ダイクン。

 

 

まだ誰も、

“伝説”ではなかった頃。

 

 

ただの人間として、

笑っていた時代の顔。

 

 

女性は、

写真の端をそっと指でなぞる。

 

 

長く。

 

静かに。

 

 

 

「……兄さん」

 

 

 

声は、

海へ溶けていく。

 

 

その瞬間。

 

 

遠くの海面が、

ほんのわずか揺れた。

 

 

波ではない。

 

 

風でもない。

 

 

まるで海の底で、

巨大な何かが“脈動”したようだった。

 

 

マルクが静かに目を細める。

 

 

「……始まっておりますな」

 

 

女性――

 

セイラ・マスは、

静かに海を見つめていた。

 

 

理由は分からない。

 

 

だが。

 

 

“何かがまだ終わっていない”。

 

 

そんな感覚だけが残る。

 

 

そして、

誰も知らない。

 

 

この静かな海の下で。

 

 

既に“残響”は、

微かに動き始めていることを。

 

 

深蒼の底で。

 

 

まるで、

目覚めを待つように。

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