機動戦士ガンダム:残響   作:片蔵清優

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■第1巻 第3章 「残された者」

雨は、

朝になっても止まなかった。

 

 

空も。

 

海も。

 

世界そのものも。

 

 

全てが灰色に沈んでいた。

 

 

海沿いの家。

 

 

窓辺に、

一人の女性が立っている。

 

 

セイラ・マス。

 

 

白いニット。

 

淡い色のロングスカート。

 

 

年齢を感じさせない、

整いすぎた横顔。

 

 

艶の残る金髪。

 

整えられた指先。

 

微かな香水。

 

 

彼女は、

今も美しく在ろうとしていた。

 

 

誰かが、

いつ戻ってきてもいいように。

 

 

ただ。

 

 

その瞳の奥だけが、

長い時間を生きていた。

 

 

セイラは動かない。

 

 

ただ、

遠くの海を見ていた。

 

 

波は静かだった。

 

 

だが。

 

 

その静けさが、

どこか不自然だった。

 

 

まるで海が、

“息を潜めている”。

 

 

そんな感覚。

 

 

昨夜の声が、

まだ耳の奥に残っていた。

 

 

『アルテイシア』

 

 

セイラの瞼が、

わずかに揺れる。

 

 

あり得ない。

 

 

その声は、

もうこの世界には存在しないはずだった。

 

 

死者の声。

 

 

あるいは。

 

 

記憶の残滓。

 

 

だが。

 

 

本当に恐ろしいのは、

“聞こえたこと”ではない。

 

 

自分がそれを、

疑っていないことだった。

 

 

(……私は、いつから)

 

 

(現実を疑えなくなった?)

 

 

雨音が響く。

 

 

波音が重なる。

 

 

その二つの境界が、

曖昧になっていく。

 

 

まるで世界全体が、

深い海へ沈み始めているようだった。

 

 

その時。

 

 

窓の外が、

一瞬だけ歪む。

 

 

海面の輪郭が、

わずかにズレた。

 

 

気のせいではない。

 

 

空間そのものが、

僅かに“遅れた”。

 

 

セイラは目を細める。

 

 

だが。

 

 

すぐに視線を戻した。

 

 

──見なかったことにする。

 

 

それは、

長く生き残るために覚えた習慣だった。

 

 

世界の異常を、

深く観測しない。

 

 

定義しない。

 

 

触れない。

 

 

そうしなければ、

人は壊れる。

 

 

チャイムが鳴った。

 

 

セイラはゆっくり振り返る。

 

 

扉を開く。

 

 

そこにいたのは、

ミライ・ノアだった。

 

 

雨に濡れた髪。

 

疲れ切った顔。

 

 

だがその目だけは、

まだ人を見失っていない。

 

 

「久しぶりね」

 

 

ミライが言う。

 

 

セイラは、

うまく返せなかった。

 

 

時間の距離が、

言葉の形を壊していた。

 

 

 

居間。

 

 

紅茶の湯気だけが、

静かに揺れている。

 

 

しかし二人とも、

ほとんど口をつけない。

 

 

雨音が近い。

 

 

まるで家の中にまで、

海が入り込んできているようだった。

 

 

ミライは、

膝の上で手を握っている。

 

 

小さく震えていた。

 

 

「主人は……」

 

 

その名前で、

セイラの目がわずかに伏せられる。

 

 

ミライは続けた。

 

 

「連邦保安局に“保護”されたの」

 

 

保護。

 

 

その言葉は、

今の時代ではもう別の意味を持つ。

 

 

拘束。

 

監視。

 

隔離。

 

 

セイラは静かに理解していた。

 

 

「研究施設へ移送されるかもしれない」

 

 

ミライの声が、

そこで崩れかける。

 

 

セイラの指先が、

ほんの僅か動いた。

 

 

サイコフレーム研究機関。

 

 

“残響現象解析施設”。

 

 

人の記憶。

 

思念。

 

死の残滓。

 

 

それらを、

再現可能な兵器へ変換する場所。

 

 

奇跡を。

 

祈りを。

 

喪失を。

 

 

軍事技術へ変える施設。

 

 

セイラは目を閉じる。

 

 

(また……)

 

 

また奪うのか。

 

 

人類は。

 

 

ミライが俯く。

 

 

「私……もう分からないの」

 

 

「ハサウェイの時も……」

 

 

言葉が止まる。

 

 

セイラは反応できなかった。

 

 

その名は、

過去ではない。

 

 

今もなお、

終わっていない傷だった。

 

 

ミライが小さく呟く。

 

 

「守れないの……」

 

 

その瞬間。

 

 

部屋の空気が変わる。

 

 

セイラの胸の奥が、

静かに軋んだ。

 

 

守れない。

 

 

その言葉は、

ずっと自分の中にあった。

 

 

アムロも。

 

兄も。

 

時代も。

 

 

守れなかった。

 

 

選ばなかった。

 

 

そして。

 

 

逃げた。

 

 

セイラは立ち上がる。

 

 

椅子が小さく鳴った。

 

 

ミライが顔を上げる。

 

 

「セイラさん……?」

 

 

短い沈黙。

 

 

セイラは静かに言う。

 

 

「行ってくるわ」

 

 

決意ではない。

 

 

確認だった。

 

 

“まだ終わっていない”。

 

 

その事実を、

確かめに行くような声。

 

 

セイラが背を向ける。

 

 

その時。

 

 

ミライの声が、

静かに響いた。

 

 

「待って」

 

 

セイラが振り返る。

 

 

ミライは俯いたまま、

震える指を握り締めていた。

 

 

「私も行くわ」

 

 

雨音だけが響く。

 

 

セイラは何も言わない。

 

 

ミライが続ける。

 

 

「もう……待っているだけなのは嫌なの」

 

 

その声は弱い。

 

 

だが。

 

 

長い時間を越えて、

ようやく零れ落ちた本音だった。

 

 

「誰かが居なくなるのを……」

 

 

「ただ見ているだけなのは……もう……」

 

 

言葉が崩れる。

 

 

セイラは、

静かにミライを見つめていた。

 

 

ロンド・ベル。

 

 

あの戦場を生き残った者達。

 

 

だが。

 

 

誰一人として、

戦争から帰ってはいなかった。

 

 

セイラはゆっくり目を閉じる。

 

 

そして小さく頷いた。

 

 

 

夜。

 

 

海辺の家の地下。

 

 

重い隔壁が開く。

 

 

冷たい空気が流れ込んだ。

 

 

そこには、

巨大な昇降シャフトが存在していた。

 

 

地下ではない。

 

 

もっと深い。

 

 

海の底へ続く、

秘匿ドック。

 

 

ミライが息を呑む。

 

 

「……セイラさん、

これ……」

 

 

セイラは答えない。

 

 

ただ静かに、

下を見つめている。

 

 

やがて。

 

 

暗い海底の奥で、

巨大な灯火が点った。

 

 

低い駆動音。

 

 

まるで海そのものが、

呼吸を始める。

 

 

そして。

 

 

蒼い海を割るように、

巨大艦が浮上する。

 

 

白い艦体。

 

 

長大なシルエット。

 

 

その姿は、

まるで海底に沈められていた

“もう一つのロンド・ベル”。

 

 

ミライの瞳が揺れる。

 

 

「……戦艦?」

 

 

セイラが静かに答える。

 

 

「違うわ」

 

 

一拍。

 

 

「帰る場所よ」

 

 

艦首へ、

白い文字が浮かび上がる。

 

 

《AMATERASU》

 

 

その瞬間。

 

 

さらに奥。

 

 

格納区画の一角で、

白いモビルスーツが静かに立っていた。

 

 

MSN-RX-R00

 

フィロメラガンダム。

 

 

セイラが、

長い年月をかけて封印していた機体。

 

 

本来。

 

 

自分自身が乗るために、

作らせた機体だった。

 

 

白い装甲。

 

 

その内部へ。

 

 

“二つの残響”が眠っている。

 

 

アムロ。

 

 

そして。

 

 

シャア。

 

 

セイラは静かに、

フィロメラを見上げる。

 

 

「もう……

誰も失わせない」

 

 

その声は、

決意ではなかった。

 

 

もっと静かな。

 

 

長い後悔の果てで、

ようやく辿り着いた覚悟だった。

 

 

その時。

 

 

フィロメラ内部で、

微かな駆動音が鳴る。

 

 

ミライとセイラの呼吸が止まる。

 

 

次の瞬間。

 

 

ツインアイが、

わずかに発光した。

 

 

緑。

 

 

そして、

ほんの一瞬だけ白く揺らぐ。

 

 

まるで。

 

 

返事をするように。

 

 

あるいは。

 

 

長い眠りの底で、

“誰か”が目を開いたように。

 

 

雨音だけが、

静かに響いていた。

 

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