◆
2020.04.02 02:00 UTC/アイスランド・シンクヴェトリル国立公園
火の粉がパチパチと跳ねている。
談話の中、ユキネはアサシンの膝上で強い眠気に襲われ――
◇
再び、彼女は微睡みの中にいた。
ある怪奇小説家曰く、猫がよく眠るのは「彼らが夢を渡り、夢の世界を旅することができるから」なのだという。
彼らは重力に縛られず月へと飛躍し、誰よりも自由に宇宙を駆け抜けていく。
その作家は、猫についてこう語っていた。
『美しさ、冷静さ、超然性、哲学的な平静、尊大さ、飼い慣らされざる風格、その無謬性と完全性の半分でも備えた生き物は他にあるだろうか?』
――それは、「この宇宙」とは異なる「外側」における法則に基づいた世界の話である。
だが猫たちだけは例外的に、この世界においても「夢を歩く」ことができるのだ。
とはいえ、その技能が有効活用できる機会は少ない。
夢魔たる「花の魔術師」や、時空の神と繋がった「降臨者」のような秘術を扱えるわけでもない。
彼女にできるのは、せいぜい――
「自らの夢と繋がった、サーヴァントの記憶の中を歩む」くらいである。
「……いや、十分とんでもないことをしてるのだけど。凄いわね、プライバシーなんてあったものじゃないわ。あと世界観はどうなっているのかしら」
川に沿った道を進んでいくユキネの隣に、アサシンが姿を現す。
ランサーが自らの領域内に「分霊を召喚した」のと同じように、己の化身体を夢の中に召喚したのだ。
「あれ、駄目だった?」
「本来なら見せるべき記憶は私の方で選定するわ。恥ずかしいからとかじゃなく、単純に危険なのよ」
「大丈夫だよ。あっちならともかく、夢の中なら私だって十分戦える。ウルタールのみんなと、土星のやつらをボッコボコにしたこともあるんだから」
その声は妙に誇らしげで、やけに楽しそうだった。
アサシンは、小さく笑ったような、ため息を吐いたような――曖昧な表情を浮かべた。
……アサシンは知らない。それが誇張でも冗談でもないことを。
ウルタールにおいて、彼女は「土星の猫」との戦争において勲章を得る程の活躍を果たしたことを。
夢とは奇妙なものだ。
時にそれは、現実よりも確かに「真実」を刻むことがある。
たとえ、それを誰も観測できなかったとしても。
もし、令呪の使用によってアサシンを「向こう側」に連れていくことができたとしたら――
互いの世界の法則は、恐ろしいほどに変わってしまっていたかもしれない。
閑話休題。
草生した谷に入り、藪の中を進むユキネは、ふと人の声に足を止めた。
「どうか、どうかお願いです。あの大蛇を倒し、娘を救ってくだされ……!」
「――いいだろう。この俺に万事任せておけ」
そこにいたのは、土下座のように地に伏す老人二人。
後ろに、うつむいたまま座る若い娘。
そして彼らの前に立つ、髪を風になびかせた剣士の男。
服装は薄汚れていたが、それが目に入らないほどに凄まじい活力と気迫に満ちていた。
次の瞬間、彼は若い女性――クシナダと呼ばれた娘を不思議な力で小さな櫛へと変え、自らの髪に挿した。
櫛はまるで男の魔力と一体となり、更に力を増したようであった。
(……ぬーん、凄い既視感。アサシンのアレには先駆者がいたとは)
背に結びつけられた「櫛」を思い、ユキネは複雑な気持ちになる。
「さて、大蛇とやらは何処にいる?」
「そ、それが……奴はその巨体故、普段はこことは違う異界に姿を隠しております。時が来ねば現れませぬ」
「……参考までに聞くが、どれくらい大きいんだ?」
「あまりの巨体ですので詳しくは分かりませぬが、山を八つは跨ぐかというほどでございます」
「……成程。いや待てよ、奴が現れるまでは未だ時期があるのだったな?」
「は、はぁ。そうでございますが」
「俺に策がある。手伝え」
ユキネは藪に潜みながら、傍らで霊体化しているアサシンに問いかける。
(あれは誰? あいつがアサシンを倒したの?)
(……ええ。彼の名はスサノオ。一挙一動が災厄を撒き散らすような乱暴者。私からすれば、あっちの方が余程怪物ね)
「何それ怖っ」
――思わず声を上げたユキネのすぐ隣を、斬撃が走り抜けた。
(ひっ!?)
藪が切り払われ、白猫の姿が露わになる。
「ニャーン」
「なんだ猫か。一瞬邪な気配がしたようだったが……」
「それより早く“酒造り”に取り掛かりましょうぞ。時間がありませぬ」
「おう。作戦についてだが――」
彼らが歩き去っていくのを見届けてから、アサシンが呟く。
「……おかしいわね。これは記憶の再生に過ぎない筈。閲覧者が“認識される”なんてあり得ない。何をしたのマスター」
「私だって分からないよ……“夢歩き”は誰かに習ったわけじゃないし」
「それに、そもそも本来“私の記憶”を覗く以上、見えるのは“私が見た場面”だけのはずでしょ」
「だよね。ここをアサシンが見てたらスサノオの策が台無しだもんね」
「……ところでこの時代に猫っていたかしら……?」
スサノオは老人――アシナヅチ・テナヅチの夫婦に、七度絞った強い酒を醸させた。
それこそは後のアサシンの死因となる、「八塩折之酒」。
彼らは八つの門を作り、それぞれに酒で満たした桶を設置し、オロチが来るのを待った。
◇
突如、風が変わった。
強烈な血の臭いを含んだ、重く淀んだ空気が辺りを包む。
鳥たちが驚いて逃げていくが、空を割いて顕れた巨大な顎は、木々ごとそれを一呑みしてしまった。
地を這うような圧力。
空を覆うような気配。
背に繁茂する苔と木々。
それは、もはや山脈が動き出すが如し。
森が裂け、河が逆流する。
異界より八つの首が風に踊り、空に向かい咆哮を上げる。
赤く爛れた腹からは、常に鮮血が流れ出す。
鬼灯のように燃える瞳が、闇の中でも激しく光る。
その姿はもはや、怪物という言葉すら生ぬるかった。
怒れる大自然の顕現――八岐大蛇。
「■■■■■■■■■ゥゥゥゥー……?」
やがて、その行進が止まる。
大河の流れる斜面に、八つの門が並び立っていた。
漂うのは、蛇神ですら抗えぬほどの芳醇な香り。
ひとつ、またひとつ。
蛇の首が桶に吸い寄せられ、酒に顔を沈める。
飲み干し、身をよじり、酔いを深めていく。
やがてその巨躯は膂力を失い、八つの首が泥酔しきって、地に伏した。
そして男は、剣を抜いた。
八つの首が、次々と断ち切られていく。
雷が鳴り、山が割れ、滝のような血流が大地を染める。
しかし、残り一つというところで――
大蛇は、目を醒ました。
◇
確かにアサシンの言った通りだと、ユキネは実感する。
八岐大蛇の巨体は、動くたびに地形を砕き、谷を崩す。
だが、大蛇より遥かに小さいはずのスサノオが引き起こす破壊は、それ以上に苛烈だった。
かつて彼は、高天原に登るだけで大地震を起こした男だ。
日本最高クラスの神威を以て、高天原に破壊と混乱を巻き起こした男だ。
そんな神が、本気で剣を振るう戦い。
もはやそれは、正気の光景ではなかった。
まさに、「神話の戦い」としか言いようがない。
大蛇が吐き出す炎は山々を焼き、見渡す限りの大地を焦土に変えていく。
だがスサノオは海神としての力で巨浪を呼び寄せ、それを打ち消す。
スサノオが剣を振るえば、大蛇の雷と閃光がそれに食らいつく。
一進一退の攻防――だが、少しずつスサノオが優勢を取り戻していく。
大蛇の七つの首は既に落ち、大量の血が大地を染めている。
残る一首の命は、もはや風前の灯火。
ユキネはアサシンの力で上空の雲の上に退避し、戦いの行く末を見守っていた。
大蛇が負けることは理解できている。
勿論、自分にできることは何もない。
それでも心の底で、大蛇の側を応援したい気持ちを隠しきれなかった。
それは、自分のサーヴァントだからという贔屓に過ぎないかもしれない。
しかし、それだけではない――と思っていても、自らの感情を言語化することはできなかった。
大蛇が吼える。
その身を這わせ、血に染まった大地に呪詛を撒き散らす。
高天原の神々をも殺し尽くさんとする、怨霊めいた呪いの波動。
だが、スサノオはそれさえも剣の一振りで弾き飛ばした。
その瞬間、ユキネは見た。
大蛇の瞳が、僅かに尾の方へと向いたのを。
ほんの刹那。
そこにある「禁忌の剣」を抜くべきか否か――
決意が、揺らいだのだ。
……その一瞬の隙を。
日本最強の英雄神が、見逃すはずはなかった。
◇
静寂の中、男は血の海に佇んでいた。
その右手には、刃の欠けた十拳剣。
左手には、血に濡れながらも途方もない美しさと神秘を放つ大剣があった。
それは大蛇の尾に隠されていた、謎の宝剣。
スサノオがしばし逡巡の後、その剣を携えて去ろうとした瞬間。
――ユキネの身体は、自然と動いていた。
異様な気配に気づき、スサノオは上空を仰ぐ。
視界に飛び込んできたのは、雲の彼方から高速で落下してくる白い小動物。
そしてそれを必死に追ってくる、「先ほど倒したはずの大蛇と同じ気配」をまとう女。
「貴様、まさかあの藪の……ッ!?」
あまりの異常事態に、激戦の疲労もあって男の反応は遅れてしまう。
猫は着地に長けているとはいえ、雲の上からの落下など耐えられるはずもない。
ユキネの狙いは、自分の身も顧みぬ、落下の加速を乗せた攻撃による仇討ちであろうか?
否! 白猫の向かう先は、スサノオの左手――輝きを放つ大剣であった!
なぜそうしようと思ったのかは説明がつかない。
「だが、ここで動かなければならない」と――本能が、そう叫んでいた。
何かを変えたければ、行動するしかないのだと。
そして、狙い澄ましたように白猫は剣の輝きへと着弾する。
瞬間、世界は剣が発した光に塗り潰された。
◇
「……ほんっとうに、無茶が過ぎるわ。二度としないで頂戴、頼むから」
アサシンの色んな感情が混ざった声で、彼女は目を覚ました。
続けて、自分の肉体を確認する。
五体満足。欠損は一切ない。
「説明して、マスター。どうして――そうだと分かったの?」
「……分からない。でも、あの剣が鍵だと思ったの。更に“奥”に、進むための」
ユキネの目の前に広がっていたのは、簡素ながらもよく手入れされた祭殿だった。
酒と穀物が捧げられたその最奥には――厳かに、一つの剣が安置されていた。
「これは……私の、もう一つの記憶。深く封じられ、否定された世界の断片。踏みにじられ、忘れられた……太古の景色」
サーヴァントとは、人々が信じた/語り継いだ物語の集合体である。
たった一つの正解や正しい姿というものは存在せず、異なる側面、異なる解釈が時に別のクラスとして顕現する。
それは、大蛇である彼女にもまた当てはまる。
この景色こそは、怪物ならざる「神」としての彼女が見た世界であった。
日本において「蛇」への信仰はあまりにも古く、体系的な神話が形をなす遥か以前から存在していたという。
人々は蛇を、ただの獣とは見なさなかった。
その背後にある自然の意思、霊的な力を見出し、祈りを捧げてきた。
神霊としての大蛇は山に宿り、五穀豊穣を願う者、川の氾濫を恐れる者、大地から金属を求める者――
多くの命のそばに共に在り、共に生きていた。
彼ら「まつろわぬ者」たちが、「正しさ」を名乗る支配の波に呑まれるその時までは。
◇
その白蛇に、八つの首は生えていなかった。
確かに、彼女の支配域には八つの大河が流れていた。だが、それだけの話だ。
彼女の腹は、血に爛れてなどいなかった。
炎を操り、人々に製鉄と鍛冶の知識を齎しただけだ。
時に戒めとして、川を氾濫させることもあった。
それでも、彼女は「雨を呼ぶ神」として祀られていた。
恵みの水をもたらす、豊穣の守り手として。
言の葉を届けるために、時折化身を遣わすこともあった。
それでも彼女自身は、不動の山脈として在り続けた。
地に寄り添い、人と共に生きる神として。
だからこそ、アサシンはこの記憶を見せるつもりはなかった。
この平穏の均衡を壊したのは、紛れもなく人間の支配欲だったからだ。
遠くより来たる彼らは、どうしてもこの地を――
この地に暮らす民と、その「技術」を掌握する必要があった。
より強く、より速く、より広く。
武器を、領土を、秩序を。全てを、支配するために。
軍は村を焼き、逆らう者はことごとく討たれた。
「彼らは“土蜘蛛”。邪教を信じ怪物の血を引く、人外の民である」として。
そう定めることで、殺すことに疑問を抱かなくなった。
木々が燃え、祭壇が砕け、民の声が空に消えていった時。
――人々は聞いた。山の動く声を。
川は赤く染まり、風が唸りを上げる。
人々は見た。
怒りに震え、数万の怨念と一つになった荒ぶる神を。
動き出した大蛇の憤怒は、波濤のごとくあらゆるものを呑み込んだ。
武装した軍勢は、一瞬の抵抗すら許されず鏖殺された。
彼らに投降し、命乞いをした村人たちすらも容赦なく。
荒ぶる神の怒りは収まることを知らず、彼らの「都」ごと全てを滅ぼし尽くすべく動き出した。
その前に立ちはだかったのは、一人の英雄。
黒髪を乱し、巨大な剣を構えた――
「何か」の後押しを受けた、「神ならざる」男だった。
戦いの果てに、大蛇の首は断たれた。
男は尾の中から剣を取り出し、都へと送った。
それが「勝利」と「支配」の証とされた。
だが――その剣こそが、大蛇の最後の抵抗だった。
どれだけ自分が怪物として貶められようと、自らの記憶と意志は剣に宿り続ける。
どれだけ歪められようと、剣を通して大地が覚えている。
「彼ら」の祈りは、残り続けるのだと。
◇
アサシンは思い出す。
現世にて座す場所――シンクヴェトリル国立公園。
大地が裂け、プレートが接する場所。
地殻の狭間、目に見える「境界」。
ユキネが見た夢の景色は、自分の記憶と、大地そのものの記憶が重なり合ったものだった。
何が「正しい」記憶だったのかは、もはや当事者にさえ分からない。
けれど、ユキネは最後まで見届けた。
アサシンがその記憶を隠そうとした理由も、今ではよく分かっている。
知識は、時に劇薬と化す。
無知という名の病が、命を守ることもあるのだから。
それでも、同じ道を歩みたいと思った。
生殖能力を持たない、主を喪った一匹の猫。
信仰を奪われ、祈りの声も忘れられた神。
共に心の淵にあったのは――どうしようもなく、癒しがたい孤独。
現実においては、たった数時間の眠りに過ぎなかった。
けれどこの精神世界で、彼女たちはまるで数ヶ月にも及ぶ旅路を共に歩いた。
そしてその果てに、ひとつの想いが、白き小さな命の中に刻まれた。
果たしてそれが芽吹くかは、今はまだ誰にも分からない。
※日本に猫がやってきたのは弥生時代とされています