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2017.09.15 UTC / 南極
吹き荒れる強烈な吹雪。
どこまでも白い、極寒の地。
後にアルヴェイルと呼ばれる彼は、群れの最外端に立ちながら、中央にいる我が子のことを想う。
コウテイペンギンのヒナたちは、「クレイシ」と呼ばれるヒナだけの群れを作り、身体を押し合って体温を保っている。
大人たちはそれを囲み、少しずつ位置を交代しながら、ブリザードから彼らを守る。
「ハドル」と呼ばれるその陣形では、熱損失が約32%抑えられ、外気が-40℃でも中心は0~20℃まで上がる。中心部は加熱しすぎることもあり、定期的に外に出たがる者がいるほどだ。その結果、ハドルでの立ち位置は入れ替わり続け、群れ全体に熱が保たれる。
逆に、もしここから隔離されることがあればペンギンの代謝率は二倍以上に跳ね上がるという。
彼らが極地の冬において生存できる理由が、この「ハドル」なのだ。
そんなコロニーの一つに所属する、およそ一万のコウテイペンギンのうちの一羽。
彼には、そんな過酷な環境の中でも耐える秘訣があった。
――それは、とある記憶の回顧だった。
◇
「すいません、ちょっと魚落としましたー!」
南極観測船の新人隊員は、雪の上を滑る銀色の影に気付き慌てて走る。
観測隊の作業中、彼が運んでいた魚の入った容器。
そこから偶然、一匹の魚が滑り落ちてしまったのだ。
凍りかけた手袋でそれを拾い上げようとした瞬間――視線を感じた。
見ると、目の前には一羽のコウテイペンギンが立っていた。
黒曜石のような瞳が、じっとこちらを見つめている。
言葉はない。だが、その眼があまりにも雄弁に見えた。
隊員は、しばらく固まってしまった。
誰もいない――と思っていたが、振り返れば他の隊員が遠くにいる。
早くしないと怒られる。でも――その目が。
「……ちょっとだけ、だぞ」
つい、手を差し出した。
ペンギンは小さな嘴で、魚を受け取った。
咀嚼するような音が、静かな雪の中に微かに響く。
……その夜、新人隊員は主任から大目玉を食らうことになった。
南極条約と観測隊のガイドラインにおいて、野生動物への餌付けは禁止されている。
ペンギンや、後にこの記憶を見ることになるセイバーはそれを知る由もなかったが。
翌日。
新人隊員たちは、再びやってきたペンギンを眺めていた。
「あれ、もしかして昨日も来てた子じゃないの?」
「今日は何もやらないからなー」
「アイツまたケースに頭突っ込んでるのか?」
「いや、今日はじっと見てくるだけだ」
多少の沈黙の後、彼らは誰ともなしに言い出した。
「せっかくだから名前でも付けないか?」と。
さむぞうだの、トトロだの、適当な名前の案が飛び交う。
そんな中、凝ったファンタジー風の名前を考えたオタクの隊員がいた。
「“アルヴェイル”、とかどうだ?」
北欧神話に由来する「アルヴ(Alv / Alf)」――「妖精」や「精霊」を意味する言葉。
そこに英語の「ヴェイル(veil)」――「覆い」や「帳」の意味を重ねて。
確かに、神秘的な名前ではあった。
「……急にカッコよくなり過ぎじゃないか?」
「いいだろ。名前ってのは大事なものだろうが」
ペンギンは、彼らの言葉を理解することはない。
だが、なんとなく音だけは記憶することができた。
◇
アルヴェイルと呼ばれた彼は、不思議な彼らのことをうっすら覚えていた。
大きさは違えど、自分たちと少し似たようなシルエットの彼らが気にかかっていた。
しかし彼らは、いつの間にかいなくなった。
観測船が南極に滞在するのは、11月末から2月頃まで。
氷が緩み、比較的安全とされるその期間だけ。
同じ海岸に上陸するとも限らない。
だが、アルヴェイルがそれを知るはずもない。
また同じ場所に行ってみても、季節が巡っても、彼らが現れることはなかった。
果たして、彼らは何だったのだろう……そう思いながら、遠くに思いを馳せる。
――遠くから聞こえてきたのは、複数の足音のような音。
すぐに続いて響いたのは、耳障りな「破裂音」。
初めて聞く不思議な音に、アルヴェイルは思わず顔を上げた。
猛吹雪の中で、むやみに動くことは危険である。
だが、その好奇心が彼の命を救った。
彼の視界に飛び込んできたのは、血のように赤い風だった。
思わず一歩後ずさり――彼は吹き飛ばされた。
奇跡的に、彼だけは「爆発の範囲外」に出たのだ。
白い荒野に、轟音が響く。
氷原を転がる彼が落ちたのは、「爆発」の影響で空いた氷の切れ目。
その先にあったのは、氷の下に広がる、黒く冷たい南極の海。
――二度目の爆発。
彼が数秒前まで立っていた「大地」は、土や石ではなく分厚い氷でできたもの。
爆発は、その氷すらも砕いた。
それは大規模な群れを一瞬で消し飛ばし、肉片に変えるほどの威力だった。
「――ッ!?!?」
◇
爆風の衝撃で途切れていた意識を取り戻したのは、海面に漂う魚の群れにぶつかった瞬間だった。
魚たちは、海に浮かぶ大量の肉片をついばみに来ていた。
彼はその肉片を見て、不思議な感覚に襲われる。
ペンギンの認知能力では、「死」や「肉片がかつての仲間である」という因果関係をそもそも理解できない。
ただ、群れの姿がどこにも見えないことだけが気がかりだった。
特にヒナは防水性の羽毛が発達していないため、海に落ちれば簡単に溺死してしまう。
だが、遠くではいまだに爆発や銃声が轟いている。
空気を引き裂くようなその音に耐えられず、アルヴェイルは再び海に潜った。
腹部の傷口からは血が滲んでいる。
視界の端で、何か灰色の塊が海に落ちたような気もした。
だが、それを気にしている余裕はなかった。
……しばらく経っても、まだ銃声は続いていた。
傷口からは、まだ赤い血が流れている。
その危険性を、アルヴェイルは本能的に理解していた。
なぜなら。
――遠くで、大きな何かが動いた。
すぐに音は近づき、黒い影が視界の端で伸びる。
アルヴェイルは、そいつの接近を水の圧力と振動音で感じ取っていた。
海の頂点に立つ
恐るべきシャチの接近を。
シャチはサメのように、血の匂いに反応するわけではない。
だが知能の高い彼らは、傷ついた個体や群れから逸れた個体というような「異常」を見逃さない。
そしてそれを可能とする、シャチが発する「エコーロケーション」――アルヴェイルは、水に伝わる振動を感じ取っていたのだ。
だがそのとき、海の上から何かが落ちる水音が響いた。
両者の注意が、そちらへ向かう。
それは、銃弾で穴だらけにされた人間の死体だった。
白いコートを纏った、動かず大きい肉塊。
海中に流れ出る大量の血液。
シャチの動きが変わり、「更に異質なもの」へと注意を向ける。
もはや、ペンギンなど眼中にないようだった。
チャンスは今しかない。
本能のまま、アルヴェイルは必死で泳いだ。
そして水の勢いをそのままに、氷の縁へと体を滑り上げる。
体が勢いよく宙に浮く。まるで空を飛ぶように。
冷たい風が羽の隙間を抜け、彼は氷上に転がった。
息が荒く、鼓動が重い。けれど、追ってくる音はもうない。
「助かった」……そんな感覚だけが、波の音とともに胸の奥を打った。
氷上で転がるうちに、腹のあたりがじんとする。
見下ろすと、羽毛の白の中に、薄赤い凍った筋が走っていた。
およそ−50℃の圧倒的低気温。
傷口と出血は、あっという間に凍結していたのである。
痛みはあるが、冷気がすでにそれを閉じ込めていた。
……まだ、動ける。
どこかにいるはずの群れを探し、彼は歩き続けた。
◇
コウテイペンギンは狩りに出たあと、数十キロ離れた営巣地へと、氷原を正確に往復することができる。
何もないように見える白い大地に、彼らなりの目印を見出して。
太陽の位置、地形の微細な凹凸、氷の軋む音――
それらを組み合わせて、アルヴェイルの足は自然と営巣地へと向かっていた。
ペンギンの歩みは遅い。
腹部を負傷しているため、腹ばいになって滑る「トボガン」と言われる移動方法もできない。
だが、その遅さが――
結果として「戦闘が終わった後に到着する」という幸運を、彼にもたらしていた。
その点においてのみ、彼は運が良かったと言える。
そこは、アルヴェイルの記憶とは変わり果てていた。
穴だらけの氷原。
大小さまざまな肉塊が転がる戦場の跡地。
あれだけいた群れの姿は、どこにもなかった。
いくら鳴いても、返事は返ってこない。
もしかして、場所を間違えたのだろうか。
そう思って歩き回っても、たどり着くのは必ずここだった。
コウテイペンギンにとって「群れの全滅」とは、行動の指針、生存の手段、感情の支え――
それらすべてを一瞬で失う、まさに「世界の崩壊」に等しい。
このままでは、吹き荒ぶブリザードに耐えることもままならない。
そんな中、歩き続けた彼が見つけたのは横倒しになったトラックだった。
荷台には帆が張られ、知らない臭いと毛が散らばっていた。
だが、これなら寒さを凌げるかもしれない。
そう思った彼の判断は、当たっていた。
寒いことには違いなかったが、氷原の上に独り立つよりは遥かにましだった。
◇
その後も、アルヴェイルは本能に従って行動し続けた。
海に出ては、「ヒナのために魚を獲る」という思考回路を止めることができなかった。
腹部に餌を溜め、遠い距離を歩き、持ち帰る。
――ヒナの鳴き声を聞くことは、一度もなかった。
やがて季節は移り、夏になる。
氷が融け始め、トラックも、肉塊も、巨大な穴も、すべてが海に消えた。
それでも、アルヴェイルには「他のコロニーに合流する」という発想はなかった。
……何より、南極という大陸はあまりにも広大だ。
他のコロニーに合流することが、そもそもできないのだ。
それでも、偶然の出会いがあった。
彼は放浪の中、アデリーペンギンたちと出会うことがあった。
白く染まった崖の下に、黒い点が群れている。
耳慣れない鳴き声。すばしっこく、背の低い動き。
もしかしたら、仲間かもしれない――そう思ったアルヴェイルは、ゆっくりと距離を詰めた。
一羽がこちらを見た。数羽がそれに続く。
だが、アルヴェイルが「違う」と気づいたのは、そのすぐあとだった。
小さな個体のひとつが、突然まっすぐ突進してきた。
頭を下げ、翼を広げて、まるで岩を押すようにぶつかってくる。
彼はよろめいた。さらにもう一羽、三羽、五羽――
鳴き声は強く、乾いていた。
意図も意味もわからない。
ただ、全身が「拒まれている」と感じた。
人間からすれば「同じペンギンでは?」と思うかもしれない。
だが、彼らにとってはそうではない。
言語体系も理屈も、根本から何もかもが違っていた。
まして、強い縄張り意識を持つアデリーペンギンが相手ならば。
アルヴェイルの脳裏によぎったのは、遠い過去の記憶。
かつてアルヴェイルが幼い頃、彼の属するクレイシ(ヒナの群れ)がカモメに襲われたことがあった。
その名をオオフルマカモメ。ヒナの死因の三割を占めるとされる、冷酷にして聡明な捕食者。
ヒナたちは身を寄せ合い、一つにまとまって立ち向かう。それが唯一の防御手段だった。
あとは、カモメが諦めて去るのをひたすら待つしかない。
だがそのカモメを追い返したのは、偶然そこに現れた一羽のアデリーペンギンだった。
そのペンギンはためらいなくカモメに突進し、鋭く突き立てた嘴に怯えたカモメはあっさりと退散した。
結果、ヒナたちは難を逃れたが――
それは、アデリーペンギンの凶暴さと偶然が、たまたま味方しただけに過ぎなかった。
その凶暴性が、相手を選ぶことはない。
たまたま、「自分たちには向かなかった」というだけのことだ。
景色が、現在に戻る。
飛びかかるように突進してきたアデリーペンギンの嘴が、アルヴェイルの胸の羽をかすめた。
少しずつ生え替わったばかりの、あの傷痕の上を。
他の数羽が、それに続く。
鳴き声を上げて威嚇し、翼を振り上げて立ちはだかる。
「ここにいるな」「出ていけ」
まるで、彼ら全員がそう叫んでいるかのようだった。
アルヴェイルは、その場を離れた。
遠く離れたところで、彼らの群れを見つめる。
その胸に育っていくのは――
名前も知らぬ、黒く、冷たく、形のない感情だった。
「孤独」。
その言葉の意味すら、まだ知らぬままに。
◇
二度目の冬がやってきた。
本来なら、外敵の少ない営巣地に大移動する季節。
陽は傾き、風が強くなっていた。
空気の匂い、光の色、氷の鳴る音。
それら全てが、彼に「時が来た」と告げていた。
今も、その足は自然と氷の奥地へ向かおうとしている。
……一度、背後を振り返る。
そこには、誰もいない。
歩いても、雪の上に並ぶ足跡は一種類だけ。
かつての記憶がフラッシュバックする。
鳴き交わす声。
肩を寄せ合った白い夜。
足元から孵った小さな命。
育ち切り、海へと旅立ったヒナの背中。
――彼は止まった。
立ち止まり、空を見上げた。
この冬に、並び立つ番いはいない。
この冬に、守るべきヒナはいない。
この冬に、共に歩く群れはいない。
ならば、風の当たらない場所を探したっていいはずだ。
一人用の隠れ場所を、探してもいいはずだ。
……歩き続け、彼は見つけた。
それは、かつての人間の痕跡。
「人類の消滅」によって、主を失った観測用野営地の跡地。
雪に埋もれかけていたが、そのテントの屋根は、風を防ぐのに十分だった。
魚を獲り、テントに戻る。
魚を獲り、テントに戻る。魚を獲り、テントに戻る。
魚を獲り、テントに戻る。魚を獲り、テントに戻る。魚を獲り、テントに戻る。
ただひたすらに、日々を重ね続けた。
輝かしい名残を、脳裏に刻んで。
――辛い記憶を、忘却の底に封じて。
◇
2020.03.31 23:40 UTC / 南極・エレバス山付近の海岸
風は冷たく、海は静かだった。
偶然にも彼が訪れたのは、かつての観測隊が訪れていた海岸付近。
その突端にじっと立ち、海と空の境界を見つめる。
鉄の音、声、魚の匂い。
一時だけ交流した、自分たちとどこか似た背格好の彼ら。
彼は鳴いた。
誰もいない海へ向かって。
返事はなかった。波の音だけが、繰り返された。
自分が独りになったことは理解している。
それでも、声を出してしまう。
「なぜ」、と。
ただ、そうするしかなかった。
ペンギンに、「悲しみの涙を流す」機能はない。
「理解ができない」というストレスに、その場に留まることしかできない。
ただ、彼らの言語で鳴くことしかできない。
足は凍てついた石の上に止まり、目は遠くの水平線を捉えたままだった。
風に羽毛が嬲られても、動かなかった。
ただ――独り、じっと海を見ていたのだ。
極寒の宙に、二色の星が駆けるまでは。