Fate/Draco―蛇竜王戦線―   作:ぴーらー

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第65話:Paradise Lost

2020.04.06 11:32 UTC / 南極・エレバス山中腹 天文台の廃墟 視点:ユキネ

 

 目が覚める。

 ……周囲を急いで確認するが、私たち以外の姿は見えない。音も聞こえない。

 夢の中での体感時間と、実際の時間は違う。

 「私たちがどれだけ寝ていたのか」は分からないが、おそらくダルグレインはまだ追いついていない……らしい。

 

「ほら、起きてアルヴェイル!探索を続けるよ!」

「お、おう!……とは言っても、今のところ礼装なんて全然見つからないぞ。どうする?」

 そう、問題はそこなのだ。

 魔術師にとって、礼装は基本的に大切なもの。「神秘の秘匿」の原則がある以上、いい加減には扱えない。

 少し探したくらいで成果が出るとは思っていなかったが、ここまでとは。

 

「この部屋も、この部屋も……この部屋もないか」

 扉の開閉は機械によるものらしい。だが電気が止まっているため、ロックは機能しておらず、侵入は簡単にできる。

 礼装には何らかの魔力がこもっているはずなので、その痕跡を探しているのだが……

 

「うーん、例の“魔術師同士の戦い”で全部使い切ってしまったとか?」

「うげ、それ結構ありそう」

 

 「人類の消滅」によって「隠す間もなく所持者がいなくなった」なら、何か一つはあるだろうと思っていたが、予想以上に何も見つからない。

 一方、アルヴェイルは周囲の警戒を続けている。

 私の耳にも、鼻にも、反応はない。

 ただ、嗅覚ならダルグレインの方がはるかに勝っている。

 ペンギン特有の生臭さに加え、流血までしているアルヴェイルの位置は、ダルグレインからすれば遠くからでも余裕で特定できるだろう。

 でも、耳の良さならアルヴェイルは十分勝負できる。

 なにせ一万羽の群れの中で、自分のパートナーやヒナの鳴き声を聞き分けられるレベルの聴力だ。

 

「えーと、ここは……倉庫かな?」

 扉の隙間からは、複数のコンテナが雑多に置かれた部屋が見える。

 そこから、わずかに魔力の反応を感じた。

「アルヴェイル、警戒お願い!多分ここ、何かある!」

 早速調べてみようと、箱に近づく。

 外からでも分かるほどの魔力となれば、結構期待できる代物かもしれない。

 そうやって、

 

「――『エアリアル・ドライブ』ッ!!」

 

 突如、轟音と爆風が部屋を揺らす。

 振り返ると、そこには――真上に向けて、砲撃を繰り出したアルヴェイル。

 ――そしてそれを受け、左半身が吹き飛んだダルグレイン。

 

「あ、あれは……!」

 天井に、魔力でできた扉のようなものが光っていた。

 それを見た瞬間、脳内で状況の推察が即座に組み上がっていく。

(――そうだ。先に南極に来ていたキャスターとダルグレインが!ここを調べていないわけがなかったッ!!)

 

 聞いた話では、セイバーは魔力の残滓を辿ってこの建物を見つけたらしい。

 おそらく、建物を保全するための「結界」の魔力を。

 ……「宣戦布告」の後、隕石による突入までの準備期間中に、キャスターたちもここに気付いたのだろう。

 もしくは聖杯戦争開始より前から、例の大儀式のためのロケハンに訪れていたのかもしれないけど。

 キャスターが準備を進める間、本来ならやれることがないダルグレインが残っていた礼装の類を回収し――いざとなればすぐに侵入できるよう、「バックドア」を用意していたんじゃないか!? 確か、そういう「ワープの竜種魔術」があったはず!

 そう考えれば、すべて辻褄が合う……!

 

(でも、奇襲は失敗だ! アルヴェイルの警戒心と、射程の優位が上回った――!)

 ダルグレインは無様に墜落し、床を転がる。

 続けて、ボトボトと肉片や前足の残骸がアルヴェイルのもとに落ちてきた。

「……ああ、痛えなあ畜生。心も体もズタボロだぜ」

 狼は力なく笑う。

 

「――だがよ、どれだけ傷ついたとしても」

 だが、その目は。

「まだ、死んじゃいねえってなあ……!」

 

 直後。

「……ッッ!?」

 床に転がる「前足の残骸」が、凄まじい光を放ち――

 

 

 後から思えば、違和感はあった。

 「左前足」の切断面が、「焦げていなかった」のだ。

 つまり、あれは砲撃で千切れたわけじゃない。

 ダルグレインが、あらかじめ切り離していたということ。

 爆発で吹き飛んだふりをするために――「そこに落とした」。

 そして、ダルグレインたち「赫咆(レッドハウル)」の本来の「製造目的」は――自爆兵器。

 魔力回路をオーバーロードさせた、呪詛を伴った強烈な爆発。

 それを、ダルグレインは「左前足」だけで……!

 

2020.04.06 11:43 UTC / 天文台の倉庫

 

 回避は、間に合わなかった。

 アルヴェイルの礼装は、「砲撃」直後は魔力の大量消費で推進力がガクッと落ちる。

 そのことを、ダルグレインは利用したのだ。

 

「……耐えやがった、だと?」

 少しずつ肉体を再生させ、ダルグレインは起き上がりながら訝しむ。

 しかし、左前足だけは欠損したまま。

 「自爆」した部位は再生できないか、時間がかかるのだろうか。

 今まで「一部だけ自爆」を使わなかったのも頷ける。

 

「まさか、セイバーのスキルで“ダメージを庇った”のか?だが、『契闘の竜印(サンヴィド・コアトル)』下であれは発動しないはずだろ……」

 セイバーのスキル、【不屈の護獣:B+】のことだろうか。

 ――多分、私が「夢の中」で『神剣・草那芸之大刀(しんけん・くさなぎのたち)』を使ったためだ。

 あの時、何かしらの「誓約」に穴が開いたのかもしれない。

 そんな風に、コンテナの影で考える。

 とっさに隠れたために直撃は避けたが、さっきから頭が痛くて仕方ない。

 もしかしたら、耳をやられたかな。

 

「まあ、いい。今からとどめを刺せば済む話だ――!」

 爆心地で倒れ伏すアルヴェイルに向けて、最低限の再生を終えたダルグレインは走り出す。

 その鋭い牙を、獲物の喉もとへと定めて。

 

 ――ごぎり。

 そんな、骨を砕く鈍い音が響く。

 

「ぎ、う……ッ!」

 ――自分の胴の、内側から。

 

「……!?ユキ、ネ……!?」

 アルヴェイルの驚く声が、か細く聞こえた気がした。

 想像を絶する痛みのせいで、それが本当だったかは分からない。

 

 ――でも、本当ならいいよね。

 それならきっと、まだアルヴェイルは生きているってことなんだから。

 どうか、私の努力が無駄になりませんように。

 

「――『渦巣顕界・幽蛇叢雲(かそうけんかい・ゆうだむらくも)』っ!!」

 駄目だったら、化けて出てやるぞ。

 

 

「て、テメェ……何を、しやがった!?」

 ダルグレインは、私を放して距離を取る。

 その口内からは、血が溢れていた。

 まるで――「剣の切っ先でも噛んだ」みたいに。

 

「おあいにく様。それは私の意志じゃない……知ってるでしょ?アサシンの宝具。あの世界を断つ剣の残骸は今、“私の中”にある。私ごとそれを噛んだことで、例の『契闘の竜印(サンヴィド・コアトル)』の制限が少しだけなくなったの」

 ……アルヴェイルの姿はない。

 無事に、「結界の外」に弾くことができたようだ。

 

「そして、お前は私の血肉を食べてしまった。一時的に、“お前と私は同一”になった。契約の隙を突き、お前の魔力を借りて、固有結界を発動させたのよ」

 自分で言っておきながら、無茶が過ぎる理論だ。

 でも、私は今まさに「神秘と神話」のただ中にいる。

 無茶も齟齬も、一切合切知ったことじゃない。

 固有結界発動による「身体強化」で、少しでも傷が癒え始めたことを確認し――

 

「そして私は――全力で逃げるッ!!」

「テメェ……! クソッ、待ちやがれぇッ!!」

「古今東西、それを言われた通りにした奴なんかいないよぉ――ッ!!」

 

 固有結界の解除条件は、大きく分けて二つ。

 一つ目は、「術者の死亡」。

 二つ目は、「時間経過」。固有結界は、世界の修正力を受けていずれは消滅する。

 「対界宝具で破壊する」という三つ目もあるが、今は関係のない話だ。

 走る。跳ぶ。登る。駆ける。

 神秘の濃霧(ヴェール)に満ちた、手つかずの原生林。

 記紀以前の、セピア色の世界を。

 

 ――即ち、この場所に私たちの「名前」は存在できず。

 「個」を証明することも、全くままならない。

 あの人から「もらった」という事実そのものも。

 

「ゼぇッ……はァッ……随分と、苦しそうじゃねえか!?腹に穴がッ、空いてるんだぜ!?」

「こっちの……ヒュー、セリフッ!足がないの、キッツいんじゃない!?」

 

 岩から倒木へ。倒木から木の幹へ。

 私は無理やり体を持ち上げ、上へ上へと逃げる。

 ただでさえ木登りが不得意なのに、前足を失ったダルグレインが追いつくことはできな……

 

「うおらァ!!」

 ――マジか。

 魔力を纏った強烈な突進が、太い幹を一撃でへし折った。

 どうやら後ろ足さえ健在なら、速さや勢いには影響しないらしい。

 

「だったら、これでッ!」

 倒れゆく木の幹から、次の木へ向けて――「左に向けて」跳ぶ。

「ぬぐ……ッ!」

 ダルグレインは即座に方向転換――できない!

 奴は今、要となる「左前足」が失われているのだからッ!

 ただでさえ「前方に向けて加速している」現状、今度こそ――

 

「――舐めンなァッ!!」

「が……ぅっ!?」

 

 突如、意識が飛び――戻る。

 後頭部の痛み。

 それから、何かが弾けるような音。

 ――視界の端で回転する、「折れた木の枝」。

 

(まず、った……!)

 迂闊にも程があった。

 狡猾さに定評のあるダルグレインが、私の考えくらい読んでいて当然だった。

 奴は私が「木に登り始めた」時点で、突進前に手頃な枝を咥えていたのだ。

 普通に投げては避けられてしまう。走りながらでは当たらない。

 しかし、「目標が空中にいれば」話は別だ。

 竜ならともかく、翼なき動物に回避はできない――!

 

「……鬼ごっこは終わりだぜ。それとも、その“剣”とやらでオレと勝負するか?」

 辛うじて着地には成功するが、もはやダルグレインは眼前にまで迫っていた。

 ……私の攻撃は、ダルグレインには通らない。そこだけは変えられないが――

 

「でも、お前の攻撃で“お前が勝手に傷つく”のも事実でしょ。私を一撃で殺せない限り、お前の勝利はどんどん遠のいていくわ」

 二足歩行になり、右腕で「剣」を構える。

 あえて心臓を晒して、敵を挑発する形だ。

 

「――ハッ。人の真似事のつもりか? いいぜ……テメェの殺し方は決まった」

 紅染めの獣は、憎悪と嘲笑を込めて吠える。

「心臓なんぞ要らねえ。テメェの頭を噛み砕き、首無し死体を晒してやる――愛なんぞのために命を散らした、あの愚かな鳥みてぇになぁッ!!」

 

 ――瞬間。

 私の頭の中で、何かが切れる音がした。

 私だって、ダルグレインの過去は知っている。

 アルヴェイルのそれと同じくらい、同情する気持ちがないわけじゃなかった。

 その言葉は、きっと私の冷静さを削ぐための安い挑発に過ぎないのだろう。

 でも、もう駄目だ。

 

「――お前だけは、絶対に」

 刹那、山中に響いたのは斬撃の音だけではなかった。

 

「ここで、“すり潰す”」

 それは、世界を刻む音。

 「誰かの敷いたルールに、否を突きつける」爪痕だった。

 

「づッ、ぐおぁッ……!?」

 飛び掛かったダルグレインの胴を、後の先の一撃が斬り飛ばす。

 ――しかし、その傷は「再生」し始める。ダルグレイン自身の力によって。

 

「……お前を、私は殺せない。でも」

 もはや痛みは消え去った。きっと怒りが吹き飛ばした。

「お前を“切り刻み、痛めつける”ことはできるように“なった”。頭のいいお前なら、理解できるよね……!」

 ――即ち、「心が折れるまで切り刻む」。

 

 ダルグレインは一瞬目を見開き、しかしすぐさま元の表情に戻す。

「そうかよ。よくもまあ――よくもまあ、そこまで! 堕落できるもんだよなァッ!!」

 

 突進。斬撃。血飛沫。

 しかし、勢いは止まることなく。

 肉を抉る音。刺さる音。二つの斬撃。飛び退き、地を濡らす赤。

 

「知っているんだろう!? 理解しているんだろうッ!? かつて人間どもが、テメェに何をしたのか!」

 攻防の中、狼は口から肉片を吐き捨てて叫ぶ。

「愛玩のため……人間側の勝手な都合で! テメェは生殖能力を! 生物としての根幹を奪われたんだ! 奴らに、“余計な機能”だなんて決めつけられてよォ!!」

 

 ……知っている。

 それは、目の前の敵も同じだということも。

 「再生魔術」にかかるコストを下げるため、「必要のない部位」は切除されて創られたことも。

 

「オレは許せねぇ。人間も、奴らを肯定した……このクソみてぇな世界も。なのに、テメェはなぜそうしていられる? 今の世界を、なぜ肯定できるッ!?」

 

 獣は叫ぶ。

 ずっとため込み続けてきた、どす黒い怨嗟の声を。

 ……ああ、そうだとも。

 お前だけじゃなく、私だって。

 

「――知っているさ、そんなことはずっと昔からッ!!」

 

 言われなくとも、私だって理解している。

 この世界が、どれだけ醜いかなんてことは。

 ――「昔は良かった」。

 無知だったあの頃は、きっと「幸せ」だった。

 痛みも穢れも知ることなく、ただ無垢を享受した過去。

 だが、もはや「楽園」への道は閉ざされた。

 すべては遥か遠き――もう戻らない、セピア色の彼方。

 

「世界がクソなことなんて、よーく分かってる。人間がどれだけ自分勝手な生き物かってことも、嫌ってほど思い知らされてる!」

 

 勝手に連れてきて、勝手に閉じ込めて、勝手に愛して――

 勝手に、何も言わずいなくなりやがってさ。

 ――でも。

 

「……だとしても。だとしてもッ! 私は、間違いなくあの人を愛したんだ。あの人から!“愛”を、貰ったんだ! それだけは――絶対に間違いだなんて言わせないッ!!」

 

 生物とは、遺伝子の運搬者。

 DNAの螺旋に囚われた、本能の奴隷。

 だったら――生殖能力のない私には、何ができる?

 

(……貰ったものを、他者へと繋ぐ)

 

 託されたものを、未来へと遺す。

 かつて私は、「彼女」から「打算なき愛」を――

 「無償の愛」を、ずっと受けてきたのだと悟った。

 

 でも、今なら分かる。

 「ただより高い物はない」。

 私には、「勝手に」抱いた義務がある。

 愛をもらったままではなく。

 抱えたまま死にゆくのではなく。

 ――未来へと、「繋げる」義務が。

 

「うぅおらぁッ!!」

「ギッ……ちぃィッ……!」

 

 ダルグレインは体を捩じり、飛来した斬撃を辛うじて躱す。

 厳密には、頭部を避けて胴で受ける。

 ――かつて南極でダルグレインが「頭に銃を受けた」際の、術の誤作動による一斉自爆。

 私たちが同時に思い至ったのは、「神剣によって、それが起こり得る」可能性だった。

 脳を切り飛ばそうと、魔力さえあれば奴は再生する。

 どれだけ痛みを伴おうと、奴を「私が殺すことはできない」。

 だが、もし神剣が脳内の術式に影響して……かつてと同じ誤作動が起きたなら?

 それは「私が殺した」ことにはならない。

 ――ダルグレインが、「勝手に自爆して死んだだけ」だ。

 神秘は、より強い神秘によって打破されうる。

 伝承において「けして折れない剣」であろうと、それを上回る神秘であれば折れることもある――たしかアサシンは、そう言っていた。

 ……私の手にあるのは、きっとキャスターの魔術すら上回りうる神秘の極限。

 

「ひゅーッ……ふうーッ……!」

 体を突き動かす、激しい情動と衝動。

 裏腹に、私の体は冷たくなっていく。

 ――魔力の使い過ぎ。

 未だ速度を落とさない相手に攻撃を当てるには、出し惜しみは許されない。

 結果、もはや体が上げる悲鳴すら感じ取れない。

 

「でも……まだ“この世界”が見えている」

 私が固有結界を維持できるのは、かなり大きく見積もって最大五分。

 果たして今、どれだけの時間を稼げているかは分からない。

 だって、ずっと頭が痛いんだ。

 

「そンなら……これでどうだァッ!!」

 ダルグレインは――背を向け、距離を取る。

 逃げ……?いや、違う!

 

「らぁ、ハぁッ!!」

 奇妙な呼気と共に、その場で剣を振るう。

 続く、鈍い破砕音。

 ――倒れてきた大木が、軌道を変えて落ちた。

 

「……切り飛ばせなかったな。その“剣”を維持すンのも、もう限界が来てんだろ!?」

 再び走り出したダルグレインは、次の木に向けて突撃をかける。

 獲物の足が、もうまともに動かないことを見抜いて……!

「テメェの言う“愛”は大したもんだが、要は脳内物質で……体の限界を騙しているだけだ!所詮それは……一瞬咲いて燃え尽きる、花火と同類なんだよォッ!!」

 

 倒れてくる木の幹が……三つ。

 そして、大きく回り込んで迫ってくる狼の影。

 仮に木を全部捌けても、ダルグレインまで斬れない間合い。

 四つの斬撃を飛ばす? そんな魔力は残っていない。

 もちろん、木がぶつかればそのまま潰れて死ぬ。

 

「――いいや。まだ、死ねないねッ!!」

 剣を向けるのは――地面。

 突きによって縦穴を空け、その隙間に潜り込む。

「チッ、前足は動いたか……!」

 わずかに聞こえた、くぐもった罵声。

 数秒後、私のいる少し上に倒れ重なる、三本の木。

 凄まじい衝撃が大地を揺らすが、直撃が届くことはない。

 ただ、この回避には大きな欠点がある。

 

 ――遠くない距離から、地面を掘る音が迫る。

 私の周囲は、完全に土と倒木で塞がれた。

 これでは回避ができないどころか、敵がどこから来るのかも分からない。逃げ出す暇も、体力もない。

 

「さて……やるしかない、か」

 覚悟を決め、敵の到来を待ち構える。

 奴が姿を現した瞬間、全力の斬撃を叩き込むために。

 ……今こうしている時点で、「時間を稼ぐ」という目的は果たし続けられている。

 焦る必要があるのは、ダルグレインだけなのだ。

 悠長な手段は取れない以上、すぐさま攻撃が来るはず。

 実際、「掘り進める音」はすぐそこまで――

 

「……え?」

 音が、止まった。

 だが、敵の姿は見え……

 

(ザッ、ザザザッ)

 息を整え……下がる足音?

 まさか。

 まさか奴は、

 

「ウゥオオおおおおおおおおッッ――!!」

「――ッ!!うゥあああアアアアアアアアアアアア――ッ!!」

 

 咆哮を上げてぶつかり合う、赫の突撃と翠緑の刃。

 ダルグレインは、その嗅覚で私の位置を完璧に把握しつつ――「長いトンネル」を、「私のいる少し手前まで」掘っていたのだ。

 そして思い切り助走をつけて突進し、最後の土壁をぶち抜いた。

 一方、迎撃は「ギリギリ間に合った」が……貫いたのは、頭部ではなく腹部。

 背中にまで貫通し、大量の血を流してなお、狼は死ぬことはない。止まることもない。

 

「……が、っ」

 ――そして。血に染まった牙が、少しずつ私の首にかかる。

 走る激痛。

 相手の顔は見えず、ただ赤が広がるのみ。

 ……何も見えない。何も聞こえない。

 それでも。

 

 だとしても。

 私は、

 

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