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2020.04.06 11:4■ UTC / 失意の底
『SSH-EX DKIN.GU――NEURAL DIVE: INITIATE. CORE ACCESS: GRANTED』
「キングゥ」と呼ばれた緑の影は、一度だけ頭上を見上げる。――水面に映る、「白き光」。その一瞬前で、引き延ばされた時間。
どこまでも暗く、深海の底にも似た闇を――ひたすらに潜っていく。傍らに、悪魔の声を聞きながら。
(まずは、前提の確認から行こう。なぜ、ティアマトは「母」であることを否定された結果、全く動けなくなるまで追い込まれたのか……それを知るには、メソポタミアの創世神話にまで遡る必要がある。『エヌマ・エリシュ』、その第一板に曰く――)
◇
『e-nu-ma e-liš la na-bu-ú šá-ma-mu(上なる天がまだ名づけられておらず)』
『šap-liš am-ma-tum šu-ma la zak-rat(下なる地もまた名を持たなかった時)』
『abzu-u-ma reš-tu-u2 za-ru-šu-un(原初のアプスーは彼らの生みの親であり)』
『mu-um-mu ti-amat mu-al-li-da-at gim-ri-šu2-un(ティアマトもまた、彼らすべてを産んだ母であった)』
◇
原初の神々の一柱――海の女神ティアマトは、淡水の神アプスーと交わることで若い神々を生み出した。
彼女は穏やかで寛大であり、生きとし生けるすべての子供たちへの愛に満ちていた。
アプスーが若い神々の多さ・騒がしさに耐えかね、滅ぼそうとした際には温情を示して夫を止め――反旗を翻した子供たちがアプスーを逆に殺し、世界の支配圏を獲得した時も、それを容認したほどに。
しかし、若い神々は母にさえも剣を向けた。その事実にティアマトは嘆き、狂い……戦いが始まった。
(ここについてだが、「ティアマトと同時代に生まれた古い神が、夫の復讐を果たすべきと進言した結果、仕方なく重い腰を上げた」という説もある。むしろ主流ですらあるが……これは「勝った側が、自らの正当性を示すための物語」だったのかもしれないな)
戦いの末、英雄神マルドゥクの活躍によって、ついにティアマトは倒される。
彼女は天と地の材料に、「生命を生み出す土壌」として利用された。
そして地球の環境が落ち着き、生態系が確立された後――不要なものとして、創世の女神は「世界の裏側」に追放されてしまう。
生態系が確立した以上、「ランダムに生命をデザインする母体」は、全く新しい生命の系統を作り出しかねない危険物だったからだ。
(つまり、真にティアマトの心を裂いた悲嘆とは――「おまえはもう要らない」という否定であり、拒絶だった)
ルーラーは、キャスターによって「母」であることを否定された。
それは、己の存在定義を否定されたということ。
即ち――「お前は不要だ」という、追放劇の再演。
(言ってしまえば……彼女は、あらゆる理屈が通じないほど、どうしようもなく感情的なんだ。かつてティアマトが「ビーストⅡ」として顕れた際、狂気に堕ちて、知性と理性を消失していながら――「人類への恨み・憎しみ・悲しみ」と、その裏返しとなる「子供たちへの愛」を、一切失っていなかったくらいには)
そこまで聞いた時、緑の影は海の底に降り立つ。
最も深い闇の中には、蹲る女神の姿があった。この心象風景の持ち主――ルーラー。
(全く……俺も苦労したんだぞ?さっきまで、「完全に心が壊れている」状態でな。声を受け取ることすらできない、近づくことすらままならないのを、俺の力でどうにか「説得が聞こえはする」くらいにまで持ち込めた。んじゃ、あとは――任せたぜ)
最後に「ある一言」を付け加えて、通話は終了した。
そして「彼女」は歩き出す。
詰んだ盤面を覆す、一縷の可能性に賭けて。
◇
強大な神霊の「内部」に入り込む行為は、当然ながら危険を伴う。感情や魔力が実体を成した、強力な防衛機構が存在してもおかしくない。だが、
(……ここには、本当に何もない。まるで、完全に枯れ果てた泉のように)
それにすら、「緑の影」は憤っていた。何もかもが、気に食わなかった。
「起きろ。ルーラー」
感情を押し殺した声が、水底に響く。
「……キン、グゥ?」
聞き覚えのある声に、ルーラーが少しだけ顔を上げる。次の瞬間――
「――へぶっ!?」
視界を埋めたのは、高速の拳だった。
予想外の一撃を受け、ルーラーは砂の上に倒れ伏す。間髪入れず、緑色の影は伸ばした腕で彼女の胸ぐらを掴み、
「……何だよ、その体たらくは。何なんだよ、その情けなさは!!」
抑え込んでいた怒りを、ついに爆発させた。
「はな……してくれ、キングゥ……わたしは、もう」
心象風景の中に、かつての残響が灯る。
(――わたしを、おいていかないで)
(もうにどと――わたしを、あいさないで)
いつか幼年期は終わり、子は自立/自律する。それを認められず、すべてを無に帰し、新たな生命を始めようとした――身勝手な自分。
そんな自分でも「愛してくれる」者がいるのは、自分が母親だったから。彼らが、自分の子供だったから。
だがその「前提」は、既に。
「もう、わたしには……誰かを愛する資格も、愛される資格も……ないの」
水中に、緋色の涙が溶けていく。緑色の影は、黙ってその様を見ていたが――
「だから……自分は助けられる資格もない、とでも言うつもりか?放っておいてくれとでも、言うつもりか?」
ばぎん、と――破砕音が鳴る。
「ふざけるな……ふざけるなッ、ティアマトッ!」
限界を超えた怒りが、自らの奥歯を噛み砕いた音だった。
「愛がどうだの……そんなことのために、僕はここに来たんじゃない! あの時、お前に挑んだんじゃないッ!!」
その叫びは、慟哭にも似ていた。――「泣きたいのはこっちの方だ」、と。
「頂に立ちたい。最強でありたい。その証明のためだけに、僕はお前に挑んだ。――そして僕は負け、死んだ。お前はあの時、その挑戦を真っ直ぐ受け止めてくれた。なのに……!」
血涙めいた血の泡が、歯の欠片と共に闇に舞う。非難と、嘆きを伴って。
「最強のはずのお前が、そんな体たらくじゃ……僕の命は!何だったんだよッ!!」
事態が呑み込めず、ルーラーは困惑のただ中にいた。
荒く息を吐きながらも、「緑の影」は少しだけ間をおいて――
「……弱い自分が嫌だった。惨めで、どうしようもなく貧相な自分が嫌いだった。だから――この世の誰よりも強くなりたかった。そうすれば、きっと何かが変わる。そう思ったから」
降りしきるマリンスノーの中、訥々と「彼女」は続ける。
撃てなかった最後の一弾。ゆえに残った、魂の一片。
悪魔から「キングゥ」の名を被せられ、戦場に戻った――小さき竜。
「なのに――生まれつき、誰よりも強かったお前が。何よりも強大だったお前が、あんな言葉だけで折れてッ……」
「補助システム」となり、色を模す能力を英霊の技能にまで昇華させた彼女は、キャスターの戯言を思い出す。セイバーが指摘した通り、聞くに堪えない詭弁を。
「戦いすらせず、朽ちようとしていることが――僕は悔しくて仕方ない……!!」
その言葉は、切実極まる「祈り」だった。
生前の彼女が抱いた、「強ければ奪われない」という信仰、自己嫌悪に由来する変身願望。
「最強」への信仰の果てに、敗北で閉じた己の生に――意味と価値を見出したいという、願い。
利他ではなく「自己保存」の、どこまでも身勝手な「悪」の祈り。
死してなお、利他を――「善」を選んだ守護獣と、まるで正反対な「祈り」のカタチ。
「お前のためなんかじゃない……お前が立ち上がらないと、セイバーが負けてしまう。……アイツのことは嫌いだけど、キャスターに勝たれるのだけはもっと嫌だ。誰よりも強くあって欲しいのは、ティアマト――お前なんだよ!」
「……っ、」
ルーラーが、ようやくその意味を理解した時。――その足に、少しずつ
緑の影は、なおも続けた。キャスターの論を「詭弁」と喝破した、最大の理由を。
「子を産むから母なのか?それができるから、母なのか!?少なくともお前は!“それだけじゃないと決めた”はずだ!そうでなきゃ――
自然界では、「哺乳類的育児」――出産後も長期にわたり面倒を見るような繁殖様式は、全体から見れば少数派だ。ならば、出産後も子を育て、守り続けるその「高コストな生態」は、「多数派」からすれば奇妙に映るだろう。
「我が子を慈しむ」という情動/思想は、特定の条件下で進化的に安定する戦略の一部に過ぎず、地球における「普遍的な原理」ではない。
「少数の生存率を押し上げるのが利益になる系統」と、「損耗を織り込んで多数の子を残し、当たりを待つ方が有利な系統」では――前提が、あまりにも違いすぎる。
爬虫類であり、繁殖経験を持つ「彼女」も、「果実」の恩恵によって後から知識として知っただけに過ぎない。地中に産卵する「卵生」ではなく、己の胎内で卵を孵化させる「卵胎生」であろうとも。
だとしても――そうだとしても。
「子を愛し、育て、護るから――“母”なんだと!他でもないお前が!“そうありたい”と思ったんだろう!?だったら……!!」
緑の影が「変容」し、崩れゆく。
「どうか、誰よりも強く……身勝手に……!」
生前、最後に受けた、規格外の宝具を――
「自分らしく……輝いてくれ……!!」
己が信じた星に、持ちうるすべてを託して。
◆
2020.04.06 11:43 UTC / 南極
【REBOOT】
降り注いだ白光が、セイバーの「竜体」に到達し。
【REBOOT:SSH-000 DTI.AMAT】
三秒後、無情にも防御を貫き。
【SSH-EX DKIN.GU――CODE SPECTRUM: EXECUTE】
完全に「竜体」を焼き尽くした、その直後だった。
【TRACE ON――『NAMMU DURANKI』】
「Aaaaaa――
AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAァァァァァァ――――ッッッ!!!」
残されたセイバーの「人間体」は、突然の事態に目を見開く。視界を覆ったのは、白亜の光ではなく――黒い虚数の泥。
それを纏い、巨竜の姿で幼子を庇う――ルーラー・ティアマトだった。
『
頭すら上げられず、一歩も動けないとしても――「巨大化して包み込む」のならば関係ない。そう言わんばかりに!
(まさか……『
セイバーと同じく、キャスターもまた疑問に呻く。思考を回して驚愕を抑え込みながら、全霊で『
(もしや……「キングゥ」に為っていたあのカメレオンのスキルか?進化した
だが、理屈はこの際どうでもよかった。なぜなら――最終的に宝具を発動させるのは、ルーラー当人の意思でなければならないはず。
「既に、完全に心を折り砕いたはず……! 何故だ……何故、まだ立ち上がることができる!?」
キャスターが、執拗にルーラーの脱落を狙ったのには明確な理由があった。
それは、この聖杯戦争において彼女だけが、針の穴を縫うような細い可能性だが……
(――アルビオンの光を、耐えうるからだろう?)
脳裏に滑り込む、悪魔の嗤う声。
まるで、「狂気の沙汰ほど面白い」と言わんばかりに。ずっとこの展開を待っていたと――言わんばかりに!
(かつて
現代から見ればどちらも「すごい昔」で括れてしまうが、その差はあまりに絶大だ。
この土壇場で「回帰」を行うとして、四十六億年前までの回帰など、絶対に間に合うはずがない。
――「時間の加速」でも、しない限りは。
「まさか……まさかッ!?」
キャスターは、気づく。
巨大化したルーラーが体内に取り込んだ、『
「時が進む速度を一万倍とせよ」という、世界に対する命令文。
それにルーラーが刻んだ訂正の二重線は消え、下部にはごく小さな追記が加わっていた。
「
(魔術師ならご存じだろうが、体の内部とは一つの世界そのものだ。
契約の本質とは、「何が書いてあるか」ではない。――その文言を、誰がどう解釈できるかだ。
それこそは悪魔が「新たな契約の起草者」として仕込んだ、僅かにして決定的な余地。
(何より、ルーラーの傍には「キングゥ」がいる。神話において石板を託された、正当な代理執行者が!)
事実上の「最高神」の席に立ったキャスターと、本来の石板の所持者たるルーラーではその権威は互角。だが、ルーラー側には「本来の権利者」と「その権限を補佐・執行する代理人」が揃っている。
キャスターは、「役割を当てはめただけの偽物だろう」と指摘することもできない。
その理論は、自分にも跳ね返ってきてしまうからだ。
(即ち、契約の解釈権と正当性において! ルーラーと「相棒」が――お前を完全に上回ったということだ!!)
光に焼かれながら、巨竜はその身をすぐさま「回帰」させ、更新し続ける。顕生代から原生代、さらに太古代へ――「一万倍」の、凄まじい速度で……!
「だが……だが!理解しているのか、ティアマト! 冥王代最初期の地球とは、バクテリアすら存在せぬ世界! 生命以前の泥があるだけだ!そうなれば、此方は……!!」
キャスターが指摘した瞬間、ついに「冥王代」まで回帰したルーラーの全身は――その「竜体」を維持できず、
「a――■■■■■■■■」
泥のように溶け落ちる。形も、言葉も、理性も――記憶すらも。
「ルー……ラー……お前、お前は……ッ!」
綯い交ぜの感情に表情を歪ませ、セイバーは震え呻く。それしか、できなかった。
◆
――「いたい」。「あつい」。「くるしい」。
泥中から、全身に伝わる「原始的な感情」。さっきまでルーラーだったものが、光を浴びて引き起こす、「反射」でしかない無意識。
(なのに、どうして存在を保つことができる。どうして――そんなに苦しいのに、続けることができる)
……答えはもう分かっている。そんなことは、とうに知っている。
だって、彼女は。
(――ああ。こうなる前に。言っておけば、よかった)
気まずくて、こっ恥ずかしくて……言えなかった。
ただ、それだけの理由で。
きっとそれを、かつての「オレ」は――ずっと求めていたはずなのに。
『此方の本質は、幼き日より何も変わってはいない。どう取り繕おうと、此方は“親に愛されなかった、ただの子供”でしかない……!!』
キャスターの、胸を貫く残酷な言葉と。
『わたしは、“天命の書版”の為に来たのではない。
わたしは――おまえのあの言葉が、どうしても許せなかった。それだけだ』
怒りに満ちたルーラーの顔を、覚えている。
視線だけで人を呪い殺すほどの――途方もない憤怒。
「ワシ」のために、彼女は……キャスターに対して、怒ってくれたのに。
「自分だけは、“母”として――タラスクを、“親に愛されなかった”などと、絶対に言わせない」。
そのために、悪魔と契約してまで。彼女はここに来てくれたというのに。
(本当に欲しかったモノを、もらえていたっていうのに)
今からでも、間に合うだろうか。届くだろうか。
たった一つの意地で、その無形を維持し続けている彼女に。
もらった「愛」を、少しでも――返せるように。
「……ありがとう、“母さん”……ありがとう」