府中正門前駅から少し離れた路地裏にある、とあるバー。
隠れ家のような落ち着いた雰囲気の中、矢萩は一人、カウンターで琥珀色のカクテルを静かに嗜んでいた。
グラスを傾ける彼の傍ら、木製のカウンターに置かれたスマホの画面には、今日の夕方に配信されたスポーツ紙の速報記事が大々的に躍っている。
画面をスクロールすれば、ミリタリーアレンジの勝負服を泥ではなく、ちぎれた緑の芝で汚しながら、不敵な笑みで右手を突き上げるスターズシャインの姿が鮮烈に映し出されていた。
弥生賞の8着大敗で囁かれた「ダート専用」「芝不適性」の声を、東京レース場の長くて広い直線、そのただ一度の爆発ですべて黙らせてみせたのだ。
「……有言実行か。大したもんだよ、お前は」
矢萩は小さく呟き、カクテルを口に含んだ。
喉を焼くアルコールの熱さが、今日の昼間、府中のスタンドを文字通り揺るがしたあの地鳴りのような大歓声の余韻を思い出させる。
出室トレーナーの完璧な現場管理、そして自分が練り上げた「中山(皐月賞)を避けて、得意なワンターンの東京マイルで賞金と自信を加算する」というローテーション。
お互いができることを限界まで全うした結果が、この「芝マイル王」の称号だった。
「ようやく確信できたスターズシャインはダービーで勝てる」
――――
東京レース場を包み込む、地鳴りのような大歓声。スタンドを埋め尽くした数万人の観客たちの視線の先にあるのは、ただ一つの栄誉。
三歳ウマ娘の頂点を決める『芝の祭典』――東京優駿(日本ダービー)の舞台だ。
初夏の眩しい日差しが、青々と輝く美しい芝生を照らし出している。
「キタサンブラック。デビューから無傷の三戦三勝でスプリングステークスを制し、前走の皐月賞でも三着に入着。あのタフな中山を粘り切ったスタミナと根性は、この東京の二千四百メートルでも決して侮れない」
記者席の遊佐よし子は、出走表を睨みながら素早くペンを走らせる。
パドックに姿を現したのは、黒と黄土色を基調に、鮮やかな赤を組み込んだ祭りの法被を思わせる勝負服を纏ったウマ娘、キタサンブラック。恵まれた体躯と、どこか親しみやすくも力強い黒髪を揺らし、威風堂々と周回を重ねている。
「もちろん共同通信杯を制したリアルスティール、弥生賞馬サトノクラウンのNF勢も上位人気に支持されているけれど……。だけど、今日この場所の主役は、誰がどう見ても彼女ね」
遊佐の視線が、圧倒的なオーラを放つパドックの中心へと向けられる。
「一番人気、ドゥラメンテ」
前走の皐月賞。4コーナーで大きく外へ膨らむ致命的なロスがありながら、直線だけで他を文字通り「置き去り」にする上がり3ハロン33.9秒という異次元の末脚を披露して圧勝。誰もがその姿に、かつての三冠ウマ娘たちの面影を重ねていた。
黒を基調とし、部分的に赤や金が効果的に用いられた気高き勝負服。右肩部分にあしらわれた美しい羽の意匠、そして左右色違いのブーツが、名門の結晶たる彼女のスタイリッシュな強さをいっそう際立たせている。
『一族の悲願へ、そして偉大なる二冠の奇跡へ! 誰も彼女を止められないのか!』
場内アナウンスが響くたび、ドゥラメンテの二冠、そしてその先にある三冠の偉業を確信する観客たちの狂狂とした声援が、地響きとなってスタンドを揺らした。
完璧なシステム、完璧な血統、そして完璧な科学によって育て上げられた、現代トゥインクルシリーズの最高到達点。ドゥラメンテの瞳には、一切の隙も、迷いもなかった。
――だが。
その最高峰の熱狂の片隅で、ちぎれた芝の匂いに混ざり、わずかに「砂」の匂いが立ち上る。
NHKマイルカップを制し、ついにこの芝の最高峰へと泥を引っ提げて殴り込みをかけてきた、もう一人の最優秀ジュニア。
「やっと戦るな」
「俺が勝つ」
二人の邂逅は短い言葉を放つだけ。
ゲートに入ると息をのむ音だけが聞こえた。
そして――
『ゲートインが完了して、今、一斉にスタート!!』
地鳴りのような大歓声が東京レース場を包み込む。日本ダービーの幕が上がった。
『スタートは大方揃いましたが、ポルトドートウィユがやや出遅れた! そして、そのすぐ前にはスターズシャイン!』
「出遅れギリギリのスタート。……相変わらず、スターズシャインはゲートが遅いな」
観客席で見守る観客が、ハラハラした様子で双眼鏡を握りしめる。
だが、隣に立つ矢萩流星は微動だにせず、むしろその口元には不敵な笑みが浮かんでいた。
「どうした? 急に」
「スターズシャインには、あの一瞬でトップギアに入るような切れ味(一瞬の爆発力)はありません。その代わり、どこまでもバテずに伸び続ける、常識外れのロングスパートがある。他のウマ娘からは中途半倍に前に行くより、むしろ後ろでじっくりと牙を研いでいる方が厄介だ」
レースはミュゼエイリアンが猛然とハナを奪い、その後ろを外からキタサンブラック、コメート、スピリッツミノルが追走。引き締まった先行集団を形成して2コーナーへと向かっていく。
人気どころでは、大本命のドゥラメンテが中団の8番手付近。さらにその後方、後ろから5番手辺りにリアルスティールとサトノクラウンが虎視眈々と位置を占めていた。
先頭を行くミュゼエイリアンが刻んだ前半1000メートルの通過タイムは58秒8。
「58秒8……!? 芝の2400メートルとしては、かなりのハイペースよ!」
よし子が息を呑む。急激に体力を削り取る魔のペース。しかし、この極限の消耗戦こそ、過酷なダートで培われたスターズシャインの頑強なスタミナが最も活きる展開だった。
隊列は縦長のまま、大歓声が待つ最後の直線へと進入する。
『ミュゼエイリアンが先頭のまま、直線の攻防を迎える! 外からキタサンブラックが並びかけていく!』
「キタサンブラック!! イッケー!、!!」
スタンドのあちこちから悲鳴に似た声援が飛ぶ。法被の勝負服を揺らし、キタサンブラックが逃げるミュゼエイリアンを捉え、泥臭く先頭へと躍り出ようとした、その瞬間だった。
「問題ない。ここから荒々しくいく」
ドゥラメンテの瞳に、勝利への冷徹な執念が宿る。
三バ身後方から、次元の違うフットワークでドゥラメンテが猛然と追い込んできた。
さらにその外からは、リアルスティールとサトノクラウンが必死に牙を剥いて猛追する。
『残り400! 坂を駆け上がってドゥラメンテだー!! 早くも先頭に躍り出た!!』
直線、府中のだらだらとした坂の途中で完全に先頭に立ったドゥラメンテ。左右色違いのブーツが美しく芝を捉え、押し寄せる後続のウマ娘たちをものともせずに、ぐんぐんとその差を広げていく。
誰もが確信した。このままドゥラメンテが圧倒的な力で二冠を達成するのだと。名門の結晶が、トゥインクルシリーズの頂点に君臨するのだと。
――だが、そのとき。
『――待て! 大外から一気に上がってくるウマ娘がいる!!』
実況の絶叫が、東京レース場に新たな衝撃を走らせる。
極限の58秒8というハイペースを嘲笑うかのように、息の長い、そして暴風のようなロングスパートを仕掛けた青鹿毛の影。
ミリタリー勝負服を激しくなびかせ、他員が次々と足を鈍らせていく中で、一歩ごとに歩幅を広げていく怪物。
「――!!」
二冠を確信したドゥラメンテの背中に、日高の泥を引っ提げた一等星が、今まさにその牙を突き立てようとしていた。
前を走るリアルスティールを、キタサンブラックを、サトノクラウンを、まとめて大外から呑み込んでいく。
「行くぞ怪物」
スターズシャインの瞳が、爛々と狂おしく輝いた。
「来い怪物」
それを迎え撃つドゥラメンテの瞳にも、一族の誇りと、底知れぬ闘争心の炎が爆発する。
互いのトップスピードが東京の直線を駆ける。
時間にして数秒、しかし永遠のようにも思える極限の頂上決戦。
交錯する黒と青鹿毛の閃光。二人の影は、完全に重なり合ったまま、限界の先でゴール板を割った。
『――ゴールイン!! 激しい、激しい大接戦! ドゥラメンテか! スターズシャインか! 栄光のダービーウマ娘の称号はどちらの手に!!』
直後、場内の電光掲示板に非情な、しかしこれ以上なく熱い四文字が灯る。
どちらが勝ったかは、人間の目では判別不能。
数万人の観客が固唾を呑み、場内は異様な静寂に包まれる。
ドゥラメンテの圧倒的な二冠か。それとも、スターズシャインによる砂と芝を引っくり返す大革命か。
長い、あまりにも長い沈黙の果てに、電光掲示板に1着の馬番が同時に二つ、点灯した。
『結果が出ました! ……なんと、なんと同着! 日本ダービー史上初! ドゥラメンテ、そしてスターズシャイン! 二人のウマ娘が、同時に世代の頂点に輝きました!!』
ワーーーッ!!! と、東京レース場が割れんばかりの、地鳴りのような大歓声に包まれる。
芝の絶対的エリートと、泥を這い上がってきた不敵な一等星。
最先端のスポーツ科学と、泥臭い実戦至上主義。
正反対の道を歩んできた二人の怪物は、三歳ウマ娘の最高峰の舞台で、全く同じ「2分23秒2」のレースレコードを叩き出し、歴史にその名を刻んだのだ。
ゼーゼーと激しく肩で息をしながら、並んで引き揚げてくる二人。
ドゥラメンテは悔しそうに、しかしどこか満足げに隣の青鹿毛を見つめ、スターズシャインはいつも通り不敵に笑ってみせた。
「おめでとうございます。矢萩トレーナー」
「おめでとうございます、出室トレーナー」
地下道へと続く向こう側、特徴的な帽子を目深に被った矢萩が、壁に背を預けて待っていた。
その顔には、最高に誇らしげな、そして不敵な笑みが浮かんでいる。
「今回のことは、いろいろやってきた人間が、ウマ娘の熱意に負けたというところですかね」
「結局、主役は彼女たちですね」
かつて地方上がりのトレーナーとして熱意を失いかけ、かつて故郷の星になると誓ったウマ娘。
二人の常識破りな逆襲劇は、これ以上ない最高の形で、世界の真ん中へと到達した。