平手が、私の頬を打つ、乾いた音。
「いい加減にしなさいよ」
振り抜かれたヨシミの手の甲をぼうっと眺めてから。目と耳だけを、ヨシミの方へ向けて。
きっ、と鋭く私を射抜く目つきは、今にも泣き出してしまいそうでもあって。暖色の電灯が写り込んだ瞳は、琥珀色に揺らめいている。
「……ナツは」
自分よりも先に感情を爆発させた人を目の前にすると、自分の方は逆に不気味な程冷静になってしまうのだな、と、思う。
だから、その震える声に滲む、動揺までも読み取れてしまう。溢れる感情のままに手を挙げてしまった事に対してだろうということまでも。
「ナツは。“記憶が無い”のよ」
「……そうだよ、知ってるよ」
叩かれた頬がじんじんと痛んで、熱が集まる。その上から掌を重ねながら。
「だから、何。“もう記憶を無くす前のナツとは違う”って言いたいわけ?」
『前の私とは違うとこもあると、思うけど』──と。そう言ったのは、遊園地帰り。失神する直前の、ナツ本人。
「それって。これまで生きてきて、私達と一緒に過ごしたあいつの事を否定するのと一緒じゃない?」
『前の、って言うのやめな。ナツはナツだよ』──そう返したのは、私。
「それは──“私達の知ってる柚鳥ナツは、死んだ”って。そう言ってるのと、……同じなんじゃ、ないの?」
諦めたくない。その思いは、変わらない。
「──それを“覚えてる”のは私達だけだって言ってんのよ!!」
怒声が。廊下に反響する。深い吐息。荒い息を整えながら。ヨシミが、もう一度口を開く。
「……あんたは今、私とアイリの事を考えてる。だから、こうなってもまだ考えは変わってない。そうでしょうね、ナツが気絶した瞬間に立ち会ったのはどっちもあんただけだもん。ある意味、“当事者”なのは違いないわ」
遊園地で。ヨシミは、私とナツの前に立って。アイリと一緒に変なポーズを取りながら、「ナツの記憶を引きずり起こすため」と言った。
私は先生の言葉を先に聞いたから、二人の意見の相違を「どっちも正しい」で片づけていたけれど。私自身がどちらかを選べと言われれば、私は──ヨシミの方に、賛同していたと思う。
「けどねカズサ。あんたが、私が……“私達”が今一番に考えるべきなのは、“ナツの事“。でしょ?」
アイリは、きっと。最初からそのつもりだったのかもしれないと。「考えを改めた」ヨシミが、言外にそう言っているように感じた。
「不安なのは、一緒よ。思い出してほしいって、そう思うのも一緒。でも……」
「……記憶を取り戻す事が、本当に“今のナツ”の為に、なるって?」
「────っ」
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からららら。慣れた重みをレールに滑らせる。モモトークに既読がつかないから、今日は私が一番乗り──と思った昼下がりの病室を覗くと、見知らぬ人影がひとつ。
「ほ〜ら、リラックスしましょうねぇ。あなたはだんだん、体の力が抜けてく〜る……♡」
見慣れた髪よりも少し濃い桃色。白い病室の中で明らかに浮いてる、胸元が開けた黒ベースの制服。天を衝く荘厳な二本の黒い角。
その人が。ベッドの上であぐらをかくナツを覗き込んで、糸に繋いだ五円玉を揺らしながら。変に艶かしいイントネーションでそんなことを囁きかけている。
以上。私が見たものをありのままに綴ってみた。仮に私の頭の中にあるこの随筆を読む人がいたなら、私の味わった困惑を過不足なく伝えられると思う。
……なにしてんのこいつら?
「おお」
おおじゃないが。
「段々と、意識が遠くなって来たでしょぉ?そのままゆっくり、波間に身を委ねるように……♡」
「おお……」
……催眠療法というには、あまりにも古典的。絶対効いてない。効いてないというか、あいつそもそも五円玉を目で追ってすらいないな。
「あの、うちのナツの教育に悪いんで、止めてもらっていいですか?」
じゃあ目をきらきらさせて何を感嘆の吐息を漏らしてる物かと思ったら、めちゃくちゃお姉さんのおっぱい見つめてた。
秒で二歩詰めて手首を掴み、ナツからその人を引き剥がす。
視界の端で先生が「"あはは……"」と苦笑い。いたんだ。
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「だって私催眠療法なんてやったことないものぉぉ……!!」
とか言ってべそかきながら戦車に乗せられて帰って行ったゲヘナの人を、先生と一緒に見送ってから。何だったんだろうアレ。
「や。調子はどう、ナツ」
ナツの前に、キャスターのついた丸椅子を引っ張って来て、座る。こっちを向いた彼女がぱたん、と閉じたのは漢字ノート。
「まだちょっと、ぼんやりしてるかな」
寝ぐせでぼっさぼさの髪を揺らしながら困ったような顔でそう語るナツは、私の顔を見つめたまま左右に体を揺らしている。あっちから見て、こっちから見て。
「そっか。……私の名前、覚えれた?」
「うん。……カズ、サ」
綺麗な一輪の花の写真が印刷されたノートの表紙に目を落としながら、私の名前を呼ぶ。詰まったのは、「思い出す」一工程によるものか、それとも。
……二度目の記憶喪失は。
二本の木を並べて見た時、どちらも「木」であるという事は分かっても。どちらが「針葉樹」で「広葉樹」か。単語として知識にある物を、具体物に当てはめる事が難しい。そういう状態で。
一度目の記憶喪失の時は出来ていた「脳内にある知識を現実のものと対応させる」力までもが弱まってしまった、上に──「脳内にある知識」そのものも、一部欠落が見られるようで。
私とアイリと、ヨシミ。先生の事も。目覚めたナツは「何と呼べば良いのか分からない」と言って、動揺していたという。
それだけなら、と言って片付けられるほど強かならもっと楽なんだろうけど。それよりも、尚。現状の深刻さを如実に表す症状がある。
今のナツは────文字が、読めない。
平仮名片仮名は半数近くダメ。少しだけカタカナの方が読みやすい、というのは本人談だが、形の似ている「ソ」と「ン」の区別なんかは出来ない。漢字も殆どダメ。英語なんかもっとだった。スイーツ部の中で比べたら英語は得意な方っぽかったけど。
目で見た文字と音や意味を結び付けられないのに加え、「おととい」とか「ココア」とか、「言語」とか「Book」みたいな。同じ形の文字が並んでいたりする単語を読もうとすると、混乱してしまうとかで。
同じ理由で数字もダメ。というか、そこが一番苦しそうだ。
突発的な失神の恐れがあるからとして入院生活を送る事になったナツは、毎日の様に漢字ノートで文字の読み書きの練習をしている。
……扉の傍に立ってる先生を一瞥。普段よりも少しだけ険しい顔の先生が、小さくこくんと頷いたのを見てから。もう一度、ナツの方に向き直る。
「……あのさ。話が、あって」
ぎっ。椅子が回る音。両手を重ねて脚の間に着いた状態で。本来なら、真っ直ぐ相手の目を見据えて言うべき事、なんだろうけど。
「……記憶が無いなら、自覚症状もあんまり無いと思うけど。今のところのナツの症状に、かなり似てる内容が書かれた、百鬼夜行だかの文献が見つかったの。図書委員会が、手伝ってくれてさ」
先生に無理を通して、私も一緒に古書館に足を運ばせてもらった。委員長さんには嫌そうな顔をされたけど、タメの子がかなり協力的だったお陰で。4日目にして、早くも──百鬼夜行由来の「都市伝説」に、似た内容がいくつも見つかった。
罰当たりな事をすると、とか。悪い神様に魅入られたら、とか。枕詞はどれも違くて、信憑性に欠ける物だけど──“経過“と”末路“は、どれも共通していて。
曰く。『気絶と忘却を繰り返した果てに自己の“在り方”すらも忘れ去って──形を保てなくなる』──なんて。ふざけた、事が。
『……記憶を取り戻す事が、本当に“今のナツ”の為に、なるって?』
『ナツに必要なのは、あるかどうかも分からない記憶の戻し方じゃなくて……私達が、一緒にいる事。先生も、言ってたでしょ?』
“結論”を聞いたヨシミは、怒って私の頬を張って。声を震わせながら、そうやって説得してくれた。
────大事なのは、皆が一緒にいる事だと思うよ。
────出来れば、三人一緒で迎えてあげて。
そう。先生も、同じ事を言っていた。初めから。部の、他の二人を交えず、先生と二人で最初に“結論”を出した時から。……先生だって最後まで全面的な賛同はしてくれなかったから、「二人で」というのは違うかもしれない。
『……わかってるよ』
これは。私の、独断。
『だから。“そっち”は、二人に任せるっつったの』
『……カズサ』
私の。我儘。
『私は……私は、探す。欠片でも、ナツの記憶が元に戻る希望が、あるなら』
「私も、百鬼夜行に行ってくる。──ナツの記憶を戻す、手掛かりを探しに行くために」
そうやって。ヨシミに言ったのとおんなじ宣言を、ナツに向けて言い放った。