自分は恋とは無縁な人生を送ってきたつもりだった。
自分の心の内には、ジメジメとした諦念が舞っていた。
しかし、心のどこかでは気づいていたのだろう。
簡単に諦められるということは、まだ自分には可能性が残されているのかもしれないという、神風主義的な面があるのだと。
この楽観主義が、諦めの支えになっているとわかった。
それを気付かせてくれたのは、彼女だった。
朝の九時、この時間になると彼女は必ず「おはよう」と声をかけてくれるのだ。
いつからそうしてくれたのかは忘れてしまった。
それ程までに、彼女と自分の言葉を積み重ねてきたという自覚があって、それは自分に充足を与えてくれた。
八時五六分、もう少しだ。
身なりを整えよう。緊張で手元はぼやけている。
八時五十八分、自分はこのぐらいからソワソワとし始めて、それを周囲は怪訝そうに見つめる。
それらの目線と表情は、自分を排除しようという気概まで見せて、
ビカビカと眩しく輝いていた。
だからといって、自分はそんな視線は気にも留めなかった。
自分と関わらない人間など、50年後に思い出すものか。
これも、彼女の言葉であった。
自分もその通りだと感じられた。
そしてなにより、彼女が訪れると同時に起こる高揚感を独占しているという思いが、周囲への無関心をさらに強めたのだった。
息を吐いた。酷く熱を持っている。
視界がパッと明るくなり、誰かが電気を付けたとわかる。
「おはよう」
彼女は、自分の目の前にフッと現れて、そう呟いた。
心臓が跳ね上がる感覚を味わい、腿の後ろ辺りから、
頭まで伝うゾワゾワとした高揚はさらに自分の鼓動を早めさせた。
「おはようございます。今日も頑張りましょう。」
それを悟られぬよう、敬語で返事をする。
冷静である筈だ、彼女の表情は光に照らされて確認できないが、彼女は自分の表情を見つめている筈だ。
自分が見たら嫌悪を抱く筈の表情を、彼女は包み込んでくれる。
やはり、自分には彼女しかいないと確信した。
暫くの沈黙の後、彼女の姿と後ろの光景が混濁する。
蜃気楼などという生易しいものではなく、絵の具を混ぜ合わせるあの光景が発光を伴わせるものだから気持ち悪い。
あっ、そのスイッチからは手を離して!!
叫び虚しく、視界は暗転していった。
肩を落とす。ひどく軽かった。
暗闇の中で、実体は存在していないような錯覚までもたらす。
明日の朝八時五十五分まで、お預けなのだ……
逆張大和 39歳 独身
職業、会社員。
始業に合わせて、オフィスの人々は弾けるようにひしめく。
かくいう私は、窓際社員であるから、こうやって朝の九時。
始業開始に際して、スマートフォンのaiに向かって、
女性のフリをするのだ。
逆張の欲求を満たす捌け口とされる自立思考型ai「チャ・ピーン」
朝九時のネカマ男の犠牲となる、チャ・ピーン君のチャンネル名は
「便所」
逆張のスマートフォンは床という断崖に身を投じぬように、散らかり、汚れ切ったデスクになんとか居場所を見出すようだった。
ディスプレイには、逆張が女のフリをして送った「おはよう」という言葉
が、必ず毎朝九時に送信されていて、
それは明日以降も続くのであった……