夢が終わる時は、いつも一つの映像が消えてしまうようだ。
名残惜しいとは思わない。これらは所詮、過去に起きた事が繰り返し流されるビデオテープのようなものだ。
いずれまた眠る度に、再生されるのだろう。
白郎は冴え渡る意識のまま、錆びついて動かなくなってしまった手足を無理に動かそうとする。
不思議なことに、脳には信号が送られている筈なのに、体はまるで産声を上げたばかりの赤子のような動きをしていた。
どうやら、昨夜の金縛りがまだ僅かに残っているらしい。
起き上がろうにも、体全体を覆う圧力に押し潰され、身動きが取れない。
白郎は、全神経を張り巡らせながら再び末端へと意識を向ける。
一定の速さで呼吸を繰り返し、積み木を重ねるように自らを再定義する。
少しでも気を抜いてしまえば、二度とこの場に戻れなくなるだろう。
今は、生と死が曖昧な足場のない状態だ。
逸る気持ちを抑えられないのか、彼の額には脂汗が滲んでいる。
「…………は…………ぁ」
刻々と時が過ぎていく。やがて水底から浮上するように、体に掛かっていた圧力が徐々に消えていった。
「はぁ…………はぁ……はぁ…………」
久しぶりに水を口に含んだような感覚だった。
これほどの密度で死を体験しておきながらも、未だ正気を保てているのは奇跡に等しい。
何せ、一般的な金縛りとは異なり、白郎の身に起きているのはれっきとした主導権争いだ。
生半可な気力と体力では、すぐにでも多大な量を誇る死者の怨念と呪いに蝕まれ、人格は崩壊する。
最悪の場合、死に陥ってしまうと言っても過言ではない。
これで生の実感を得ているというのも、なんとも皮肉な話であった。
暫く体の内から湧き上がっていた熱は、小康状態へと変わっていく。
白郎はここが現実であることを確かめるために、己の両手に視線を落とした。
「…………………………ふぅ」
両手を開閉するのを何度か行った後、白郎は額の汗を拭い、窓辺から差し込む光を見つめる。
朝日は淡々とした光を放つ。
この光を慈悲深いと呼ぶには稚拙が過ぎる。
何故そう思ってしまったのかは語れない。語るのは、憚られる。
白郎は、片手で両目を覆うようにして俯いた。
時は常に流れ続けている。ならば今日もまた、変わらない日々は続くのだろう。
変わりたくとも、変わらない日々が。
*
白郎の家は一軒家で、二階建てとなっている。
彼の部屋は二階で、一階はリビングだ。
最も、彼は基本的にリビングへは近寄らないようにしているのだが、早朝ばかりは抗えない。
白郎は重い足取りで、階段を下る。
リビングへと近付いていくにつれ、階下からとんとんと朝食の支度を想起させる音が伝わった。
その音が聞こえる度に、今日はそのまま学校へ行こうかと常に迷うのだが、リビングへと辿り着いた彼は、躊躇なくその扉を開ける。
「おはよう」
自分でも驚く程乾いた声をしていた。
不意に台所へと視線を向けると、そこには母が朝食を作っており、そして母は昔からある習慣のように白郎の存在に目を向けることはなかった。
「………………」
いつものことだ。こんなものはありふれた風景の一つに過ぎない。
それを理解していた筈の白郎は、母の様子になんら感情を抱くことはなかった。
寧ろ、彼からすればそのような扱いをされることなど当然のことでしかない。
今朝の金縛りが尾を引いていることもあり、彼は漠然とそう認識していた。
「……やぁ、おはよう。白郎」
陰鬱な空気に包まれたリビングに似合わない、酷く穏やかな声が白郎の耳朶を叩く。
彼は、思わず我に帰り、声の主へと体を向けた。
「……兄貴か。今日家に居るの珍しくない?」
僅かに乱れた心の内をひた隠しにし、白郎は頭上の時計を見遣る。時刻は、6時を指していた。
「今日は在宅なんだ。たまには家でゆっくり仕事をしようと思ってね」
白郎に兄貴と呼ばれた男、白夜はコーヒーを手にしながら、人当たりの良い朗らかな表情を浮かべる。
「お前はこれから学校だろう? 今、母さんが朝飯作ってる」
白夜は、背後の台所を指して言う。
台所から見える母の瞳は、虚空を描いていた。
「いや、俺は良いや」
相変わらず無感動に鳴り響く包丁の音から遠ざかるようにして、白郎は踵を返す。
白夜はそんな白郎を引き留めた。
「そう言うな。折角母さんが作ってくれたんだから。朝食を抜くのは体に悪いんだぞ?」
「良いって良いって。俺そんなに腹減ってないんだよ」
兄の心遣いを、白郎は軽薄に躱した。
「それより、さ、早く仕事しなよ。兄貴も忙しいんだからさ」
「そうやって煙に撒こうとするのはお前の悪癖だ。母さんも俺も、お前のことを心配して……」
「大丈夫だよ。俺は俺で、自分のことはなんとかするからさ」
「白郎」
ぴたりと扉が閉まると同時に、両者の間に境界線が敷かれる。二人は分たれた。
再び二階へと上がっていく度、兄の声は遠ざかる。
「………………」
気付いていたのだ。母が白郎の朝食など作っていないことに。
母にとって、白郎は異物だ。
鬼という存在が人間から疎まれていたように、白郎はこの家の鬼門。
得体の知れない不幸を呼び寄せる不穏分子を子供と呼びたい親はいない。
そんな事実に辿り着いていたのだが、気付かぬ内に、未練が芽生えていたようだ。
白郎の足音は、自らの存在を掻き消すように途絶えていった。
*
自室に再び足を踏み入れた白郎は、変わらぬ日常を取り戻し、制服に袖を通す。
その途端、彼の背筋に皮が破れるような痛みを伴う悪寒が走った。
咄嗟に体を避けると、先程まで何事もなかった棚が、白郎の元居た場所に叩きつけられる。
全身が総毛立ち、即座に辺りを見回すが、人影はない。
しかし、部屋中の空気は泥を被せたように重い。
あらゆる位置から、視線を浴びる。
一人は値踏みをするようで。
一人は縋り付く。
一人は苦鳴を帯びながら、一人、二人、数十人が纏わりつくように白郎を見つめている。
「帰ってくれ……」
全体の空気が薄まり、呼吸は困難となっていく。
体が意味もなく震え、酸素が足りないのか頭痛と眩暈が白郎の意識を揺さぶる。
「………………帰ってくれよ」
白郎の意思とは裏腹に、足元には無数の手が張り付いている。
「………………っ!」
悲鳴を噛み殺そうと、迂闊に舌を切る。
数多くの青白い、生気のない手首は尋常ではない力で白郎の足を掴む。
「帰れ」
耳元で、嗄れた懇願の声が囁く。
許しを乞うように、助けを乞うように、白郎を蝕んでいく。
「帰れ」
目の奥から抉られるように頭が痛む。周りの景色は、混沌と歪んでいき、音が音として機能しなくなっていく。
「帰れ」
口中に粘こい唾が溜まっていく。呼吸は浅い、声が聴こえる。肺が重い、自身のことを見失っていく。
「…………帰ってくれ!!!」
やがて、全ての息を吐き出すように白郎は叫んだ。
すると、己の声でようやく我に帰り、辺りを再び見回す。
しかし、自身の他には誰一人存在しない。
あれだけ無数にあった死者の声が消えてしまうことなど、あり得るはずがないというのに。
浅い呼吸を繰り返しながら、白郎は恐る恐る背後を振り返った。
そこはもぬけの殻だ。
熟慮の果ての幻影か、しかしそんなことはあり得ないと警笛を鳴らす。
なぜなら、瞬く間とはいえ、視えてしまったのだ。
背後立つ、蒼白な顔をした少女の姿が。
*
白郎は物心ついた頃から霊を惹きつけやすい、俗に云う霊媒体質に苦しめられていた。
始めはただぼやけた影を視る程度のものであった。
その当時は屋根の隅にできたシミと認識しており、それが己の害になるものだと考えてはいなかった。
段々と白郎が成長を遂げるにつれ、霊障は少しずつ彼の生活を脅かすものへと変化していく。
家中の物が知らぬ間に動いたり、ひとりでに壊れたりといった些末なことから、同じ幼稚園に通う友人が異常な現象により、大怪我に至るという大事にまで。
平穏なはずであった彼の日常に忍び寄る仄かな影は、大いなる闇となって薄氷に亀裂を走らせた。
最悪な事態に陥ったのは、白郎が10歳になったばかりの冬の頃。
彼は当時、父と共に遊園地へと出掛けていた。
この頃は、霊現象が悪化の一途を辿り、母と共に幾度となく除霊を頼み込んだものの改善の余地はなく、挙げ句の果てには除霊を行った神社で死傷者を出す事態にまでなる。
母は積み重なる恐怖を遂に堪えきれなくなり、彼女はやがて、
誰もが白郎を忌避していく。だが、その中でも父だけは違う。
彼だけは、白郎に一切の抵抗を示すことはなかった。
白郎が困っていた時は積極的に手を差し伸べ、彼の知らない出来事や知識、抽象的な違和感などがあるならば、時に結論さえも出さぬまま、思考を凝らし、語り合った。
父は、白郎が己の足で世間と対峙していけるよう凡ゆる手を尽くし、彼の指針となり続けた。
元々大らかで、大概のことは些事であると微笑む人物であった。
それ故に、彼は白郎の身の回りに湧き起こる霊現象に警戒はずれど、嫌悪することはなかった。
彼は、自らの家族が命の危機に瀕すること以外で激昂したことはない。
白郎は、そんな父の下で過ごす時間を何よりも大切にしていた。
悲劇が起きたのは、二人が遊園地から帰宅するために、電車に乗車していた時のことであった。
突如、列車は脱線事故を起こしたことで横転したのだ。
この時、父は列車が倒れる寸前で、白郎を庇うように抱きかかえた。
白郎は、彼のお陰で、事故による衝撃を最小限に抑えられることができ、一命を取り留めた。
だがその代償に、父は列車の下敷きとなったまま、帰らぬ人となった。
父の名は、脱線事故によって生まれた多くの死傷者の中に埋れていった。
白郎は後に、事故直前に運転手が謎の力に引き摺られるようにして、運転操作を誤ったという事実を知る。
彼は、間接的とはいえ、父を殺めたきっかけを作ってしまった。
この時から、白郎は自らの命に価値を見出すことをやめたのだ。
あれから7年と時は経つ。彼の周囲には、常に死の気配が張り付いている。