学校に着いたのは7時45分。
白郎が一年A組の教室の扉を開くと、教室の机に一人の少年が腰掛けている。
「よっ」
黒い散切り頭に、耳には校則に反する派手なピアスを身につけている。
事情を知らない生徒が見れば卒倒しかねない、殺伐とした見た目だが、白郎に片手を上げる彼の表情はあまりにもさっぱりしており、多くの者を魅了する人の良さが垣間見えた。
白郎も、彼の姿を見つけると、安心しきったように一息を吐いた。
「岸じゃん、おはよう」
白郎に声を掛けられた、岸と呼ばれた少年、岸辺直矢は腰掛けていた机から離れた。
「ギリ間に合ったな。お前危うく遅刻だぜ?」
岸辺は、不敵な笑みを顔中に広げながら白郎を揶揄する。
「げ、マジ? あっぶな。説教コースギリ回避?」
「知らね。さかもっちゃん厳しいからな」
「そう言うなよ……後で俺のこと庇えよ」
まだ見ぬ担任教師の威光に震えながら、白郎は必死に両手を合わせた。
「検討してやるよ。気が向いたらだけどな」
悪戯っぽく鼻で笑いながら突き放す岸辺に、彼はわざとらしく舌打ちしてみせる。
「ひっでーな、味方くらいしてくれよ」
「まぁ、放課後にラーメン奢るくらいはするっての。カップ麺だけどな」
「へいへい……あー、腹減ったなぁ」
結局朝食を抜いたままであった白郎は、不意に話題になったラーメンの話に、腹の奥にある真空を思い、天を仰ぐ。
陽気に嘆く白郎から、岸辺は僅かな異変を悟ったのか、すぐに彼の顔を覗き込む。
「そういや、お前、またいつにも増して顔色悪りぃぞ」
「え、マジ? ……鏡とか見ねぇからなぁ。よくわかんねぇや」
「四の五の言ってねぇで、保健室行けよ。マジで笑い事じゃねぇ面してんぞ」
茶化すことをやめた岸辺が眉を顰めると、白郎は思わず頬を摩った。
無理もない。先程彼は、自宅から出ることだけでも命懸けであったのだから。
もうじき初夏だというのに、白郎の顔色は蒼白を通り越している。
しかし、彼は自らの不調を見せまいと軽々しく腕を掲げてみせた。
「平気だって。いつものことだし」
平然と振る舞う白郎に、岸辺は「馬鹿言ったんじゃねぇよ」と深刻に吐き捨てた。
「例のポルターガイストだろ? お前、真面目になんとかしねぇとそのうちマジで殺されるぞ」
「心配性だぜ、岸。大丈夫だよ、そのうち霊なんてさ、俺のことに飽きて他の奴の尻でも追っかけるよ」
あっけからんとする白郎。岸辺は、その姿が張り詰めた糸のように思いながらも肩を竦める。
「ったくよ、呑気だよな、お前って」
散切り頭を何度か掻きむしりながら、岸辺は気の抜けた笑みを浮かべる。
白郎は、岸辺が全てを把握して尚、自身の無茶に付き合おうとする彼の世話焼きなところが好きだった。
「岸ってさ、なんか母ちゃんみたいだよな。見た目ヤンキーみたいなのに」
敢えて空気を読まない白郎の指摘に、岸辺は面食らったように目を見開きながら、直ぐに眉を吊り上げる。
「てめぇ、俺の研ぎ澄まされたファッションにケチつけんじゃねぇよ」
「ファッションにしては凶暴すぎない? パッと見たら全員逃げるよ。割烹着とか着てみたら?」
「なぁそれマジでやめろ。俺の属性がややこしくなんだろうが」
「属性過多な自覚あったんだ」と声を上げて笑う白郎に、岸辺は柔らかな表情で睨みつけた。
それにしても、あの重苦しい自宅に居たのはたった数時間であったというのに、呼吸をしたのが久方ぶりのような気がする。
「あ、白郎くんや! ようやっと来たなぁ、遅いで」
「待ってたでぇ、ほんにレアカード持ってきたんやろなぁ!」
吹き荒ぶ風を巻き込みながら、教室内には部活を終えた生徒が次々と湧き出てくる。
皆、白郎を心待ちにしていたようで、彼の周りには人が溢れかえった。
友人等に囲まれながら、白郎は限りある平穏を噛み締めるのであった。
*
HRが終わり、一限の数学から四限の社会までと着実に脳の疲労が溜まっていった頃のことだ。
昼休みである。
白郎は、岸辺と共に購買で手に入れた焼きそばパンを頬張りながら屋上で駄弁っていた。
「それで、話って?」
首を傾げる白郎に、岸辺は自身で作ったという握り飯を口にしながら首肯する。
「あぁ。お前のポルターガイストなんだけどな……どうにかできる奴がいるみてぇだぞ」
白郎の焼きそばパンを食べる手が止まる。
しかし、彼はか細い希望を払うような静けさで、ゆっくりと首を振った。
「無理だ、岸。昔も除霊を頼んだことはあったけど、何も変わらなかった」
白郎の脳裏を掠めたのは、かつて除霊を依頼した寺の僧侶や、除霊師全員が無惨に殺されたことだ。
彼らは、驚異的な腕を持つ除霊師であったが、その者たちでさえ、白郎を取り巻く業を振り払うことを成し得なかったのだ。
その時母が、心底から絶望したときの表情は、今でも忘却に押しやることはできない。
「全員、一人の例外もなく、死んだ。テレビや雑誌とかで取り上げられるくらい凄い人達だったんだ。でも、そんな人達でさえ、俺に取り憑いているものは手に負えない。……誰かに助けられる状態でも、状況でもないんだ」
白郎は再び、己の無力さを思い知る。
ただ霊が視える程度ならば良かった。
視えるだけならば、そこから逃げればいい。回避すればいい。
例え恐怖に苛まれることがあったにせよ、他の誰かを失ったり、大切な人の人生を壊してしまうこともなかった。
いくらでもやりようはあったのだ。
霊現象は、破滅を招く災厄だ。
己だけの被害に留まらず、見知らぬ他人にまで襲いかかる呪いだ。
白郎の心は既に摩耗しきっている。
希望に飢える心すら、彼は手放さざるを得なかった。
「もう、良いんだ。これはきっと、他の誰かに背負わせるには重過ぎる。……だったら、この現象も、呪縛も、全部俺が背負っていく。俺が死ぬ、そのたった一瞬まで、俺が負債を払い続ける」
乾いた空気が肺を劈く。か細い息を吐きながら、白郎は重苦しい唇を開いた。
「俺は岸に、友達に、危険な目に遭ってほしくない。……この件は俺がなんとかするから、お前は______」
「白郎、黙って聞け」
鋭く切り込んだ岸辺の言葉に、狭まっていた視界が開ける。
「まだ話は終わっちゃいねぇ」
眼前に映るのは、常に飄々とした友人からは程遠い、真摯な瞳であった。
「俺は、お前とは中学の時からの付き合いだ。だからお前がそのポルターガイストでどれだけ苦しんで、どれだけのものを失ったのかも少しは知ってる……つもりだ」
全部じゃねぇから、分からねぇこともあるけどよ、と岸辺は手にしていた蕎麦茶を苦々しく飲み込む。
「お前が背負うって覚悟を決めてんなら、俺はそれを止めねぇよ。そいつはお前が死ぬ気で考え抜いたことなんだろ? ……だけどな、いくらなんでもこれはお前一人で抱えきれるもんじゃねぇだろ」
岸辺は左の掌に、拳を合わせる。ばんっという音が屋上に木霊する。
「お前が抱えたいものの半分でも良い。少しは俺にも預けろ。……心配しなくとも俺は、そんじょそこらの奴ほど簡単に死なねぇよ」
死なない、という言葉から、岸辺が尋常でない覚悟を決めていることが伝わる。
白郎は、体の奥底から込み上げてくる熱を抑えるように俯いた。
「………………悪い、恩に着る」
「気にすんな。俺が勝手にやってるだけだ」
下を向いたまま、動けずにいる白郎の背を、岸辺は照れ臭そうに静かに叩いた。