幼い頃、白夜は母の唯一の誇りであった。
頭脳明晰で、柔軟性があり、聡明で人当たりも良い。優秀という括りでは収まらない器が、彼には備わっていた。
父亡き後、彼は大黒柱として家族を必死に支えていたことを記憶している。
心労の絶えない母を労り、トラブルに見舞われてばかりの白郎を先回りして対応しては、鬱屈した顔を一つとしてせずに彼の面倒を見続けていた。
雨足の強い夜のことだった。
白郎が中学生になったばかりの頃、湿気の張り付いた空気に浸され、彼は無性に喉が渇いていた。
水でも飲もうとリビングへ向かう中、廊下に微かな光が差し込んでいた為に、思わず何事かと視線を向ける。
光の源は、白夜の部屋のものであった。
扉が僅かに開いていたのだろう。
常日頃から抜かりない兄にしては珍しいと不思議に思った白郎は、出来心から部屋の中を覗き込んだ。
簡素で整った、兄らしい部屋であった。
部屋の中心に目を凝らすと、そこには白夜の姿があった。
白夜の様子が、胡乱である。
今の彼にはいつものような覇気がなく、まるで糸の切れた人形のように座り込んでいる。
虚ろな背中からは、耳を凝らさねば聞き取れない、けれどもはっきりとした言葉が響いた。
「______あいつが、俺の弟でなければ良かったのに」
その一言は、白郎を暗闇に突き落とすには十分過ぎた。
常に親身であった白夜の深層を覗いてしまった己を、心から呪う。
愚かになり切れない白郎は、そのまま白夜の部屋の前で立ち尽くした。
その後のことを、彼はよく覚えていない。思い出そうとすると、酷く胸の空いた心地になるからだ。
果てのない浮遊感にも似た、白い闇に漂っている、そんな心地に。
*
車両の揺れる音と共に、白郎は目覚めた。
意識が浅いまま、車内に鳴り響くアナウンスに耳を傾けると、烏丸四条駅まであと一駅であるということが分かる。
妙に瞼が重い、数ヶ月振りにまともな睡眠を摂った。
懐かしい記憶を見ていたように思う。
あれだけ衝撃の残る記憶であったというのに、なんの感慨も湧かなかったのは、痛みに鈍くなったからだろうか。
心の痛みに慣れてしまうのは生物として退化しているのだと、遠い記憶で誰かが話していた気がする。
痛みは、生きている者だけが得られる特権だというのか。
「目が覚めてしまった、みたいですね?」
車窓から差し込む赤光に顔を顰めていると、隣から凛と囀る小鳥のような声が耳に入る。
キキの声であった。
白郎は岸辺と別れた後、彼女と逢魔堂に向かう為に電車へと乗り込んだところだったのだ。
「ごめん、寝てましたね」
彼は涎を垂らしていないかと、軽く口元を摩る。
「いいじゃないですか。電車の中って、眠くなりやすいものですよ」
キキは、白郎の様子を微笑ましげに見遣った。
車内には人が疎に座しており、この時間にしては空いている。
不意に辺りを見回すと、先程の白郎のように眠っている者や、音楽を聴いていたり、スマートフォンを眺めている者が多くを占めている。
それにしても、自身のことはまだしも、キキの巫女服にしない袋という奇抜な格好に対し、誰も注視しないというのは中々可笑しな話である。
しかし、その状況を好都合と見た白郎は、彼女の方に視線を向けた。
「あの、ちょっと気になることがあるんですけど」
意を決した白郎に、キキは親しみを込めて「はいはい」と頷く。
「どうかされました?」
「いや、逢魔堂の魔法使いって、どういう人なのかと思いまして……」
白郎の素朴な疑問に、キキはふと灰色の瞳を丸くする。
「岸辺さんから、伺ってないのですか?」
「岸も知らないらしくて。……もしかして、やばい人だったりします?」
恐る恐る口を開いた白郎に、キキは悩まし気にこめかみを押し込み、自身の紡ぐ言葉を慎重に選別し始めた。
「あー……いや、今は別にそうやばい訳じゃないんです、けど……」
数分程度彼女が硬直している間に、電車は到着のアナウンスを車内に響かせる。
「…………ええい、まぁ、なんとかなるでしょう!」
キキが飾らない左手と、季節外れの右手の手袋を合わせると同時に、烏丸四条駅へと続く扉は開かれる。
同じ京都府だというのに、異界の門へと続いているのではないかと錯覚した。
「百聞は一見にしかず、会えば分かりますよ」
扉の内側に佇む彼女は、迷える者を魑魅魍魎の世界へと誘う魔女のようである。
白郎は固唾を飲み込みながら、未知なる場所へと震える一歩を踏み出した。
*
ベルムガンドと呼ばれる魔法使いをご存知だろうか?
始まりの魔法使い、ニールセン・ヴォルヴァ・アレイスターが没し、数百年後のこと。
かつて、世界は魔法の黎明期を迎えたが、魔女と魔法使いとの間には諍いが絶えず、混迷する時代を迎えていた。
彼らは、濃密な
他者を踏み台にすることすら厭わないその常識は、ある男によっては覆される。
彼の名はベルムガンド、後に接骨木の魔法使いと称される。
彼は手始めに、人間であろうとも魔法を手繰ることのできる
何者にも侵されない聖域を、彼は躊躇することなく泥を塗り、その法則を捻じ曲げる。
その後、ベルムガンドは多くの魔法使いを懐柔し、利用し、踊らせ、拐かし、悉くを蹂躙し尽くし、あらゆる手段を用いて、魔法使いの尊厳を徹底的に破壊していく。
ニールセンが、人々に進化を説いたのならば、その進化を真っ向から否定したのがベルムガンドだ。
彼は、全ての魔法使いから怒りを買い、疎まれ、侮蔑され、やがて畏怖の念を持たれるようになった。
誰もがベルムガンドという存在を無視することはない。それを彼らは許さなかった。
世界に波紋と混沌を齎したベルムガンド。
しかし、彼は数十年前、忽然と姿を消すことになる。
多くの者に疑念と畏敬を抱かせた彼の者の行方を、未だ知る者はない。