異界渡り、ビカム -伝説のエルフは今日も勝手に深読みされる-   作:鹿紅 順

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第二章 第4話「暴かれた秘密」

「――ふざけるなコーイチロー! お前、幼いリンを置いていく気か!」

 

「コーイチローさん! お願いッ、考え直して!」

 

 数日後、リンは目に涙を貯めながら、今まさにゲートを潜ろうとしている父の背中を見ているしかできなかった。

 武装請負人としての装備に身を固めた父を、祖父とアカネが凄まじい剣幕で必死に引き留めようとしている。

 

「この子には親が必要なんじゃ! リンを一人ぼっちにするつもりか!」

 

「……親父がいるだろう」

 

「ッ……! 本気でそう思っとるんなら、お前は大馬鹿者じゃ!」

 

「……ユノーも一人だ」

 

 ハッと祖父は口を戦慄かせた。

 振り上げた拳は行き場を失い、震えるしかなかった。

 

「ユノーもたった一人眠り続けている。でも、リンにはアンタがいる」

 

「お父さん……」

 

「リン……我慢できるな? 大丈夫、お父さん、すぐ戻るからな。だからそれまでお祖父ちゃんと二人で待っていてくれ。お父さんが必ず、お母さんを助ける方法を見つけてくるから」

 

 暗い光をたたえた父の瞳。

 その双眸に見つめられ――リンは気丈に笑ってみせた。

 もう会えないかもしれない予感に、一筋の涙をこぼしながらも。

 

「うん、私待ってるっ! お父さんが帰ってくるの、お母さんが目を覚ますの、ずっと待ってるよ!」

 

「……、…………強い子だ。お母さんに似たな」

 

 それが父を見た最後だった。

 

 父は母を救うため〝ゲート〟で異世界へと渡った。

 あれから七年。いや、もうすぐ八年が経とうとしている。

 父は帰らず、母は眠り続け、祖父は心残りのまま寿命を終えて亡くなり、アカネは店を引き継いだ。リンは憧れの父の背中を追うように武装請負人となった。

 

 だが、現実は何も変わらない。

 

 父は帰らない。

 母は目覚めない。

 祖父はもういない。

 義姉はもう、何事もなかったように――

 

「リン、諦めろ」

 

 死んだはずのゲンジューローが目の前に立っていた。

 

「お前の父は異世界で死んだ。お前の母も異世界の病でいずれ死ぬ。ワシも息子と会えないまま死んだ。アカネは賢く全てを忘れようとしておる」

 

 ――やめて……。

 

「頑張ることに意味はないんじゃ……この世にはどうすることもできない運命がある。ワシらはたまたまそれに巡り合ってしまったんじゃ。抗うことなど考えるべきじゃない」

 

 ――嫌だ。

 

「諦めは悪ではない。無意味な事を続ける方が余程悪じゃ。ちっぽけな人間一人の人生に何の意味があるのじゃ。コーイチローも、ユノーも、ワシも、アカネも、そしてお前も、ただ生まれてただ死ぬ。人生とは、世界にある悲劇の塵芥(ちりあくた)のような一つに過ぎないのじゃから」

 

 ――聞きたくない!

 

「なあ、リン。お前、本当は父を探すために武装請負人になったんじゃろう? 本当にまだコーイチローが生きていると思うか? とっくに死んでいるとは思わんのか? なあ、リン――」

 

 ――言わないで!

 

 

 

「――お前がサムライになったことに、意味なんて何も無いんじゃ」

 

「――やめてええええええええええ!」

 

 

 

 ――一筋の黄金が、漆黒の闇を切り裂いた。

 

 母の眠る病室も、ブレードを手に出て行った父の背中も、諦めろと囁く祖父の姿も、擦り切れた義姉の笑顔も、切り裂かれた闇から溢れ出た光に呑まれ、消えていく。

 気がつけば、リンはあの森の中にいた。

 片膝を着いたビカムの両腕に抱きかかえられている。間近にビカムの美貌があった。

 レディであれば法悦のあまり失神を禁じえないシチュエーションだが、茫然とする彼女は己の幸運に気づかない。

 

「……お祖父ちゃんは、私のお祖父ちゃんはあんな事言わない。これは夢……」

 

 譫言(うわごと)のように呟くリンから少し離れた位置では、一閃の下に切り伏せられ、黒き塵となって消えゆく絶望水母の死体があった。

 

「(こういう時、なんと言えばよいのだろう)……悪夢は去った」

 

 その悪夢を打ち払ったのは自分だというのに、恩着せがましく感じさせないよう言い述べるビカム。

 その気遣いが、悪夢にうなされた少女の心に染み込んでくる。

 

(今だけ、今少しだけ……)

 

 この瞬間だけリンは、サムライという鎧を脱ぎ捨て、自分を包み込む暖かい体温に身を預けながら静かに涙を流すのだった。

 

「……(動けない……)」

 

 青い左月が木々の合間から月光を降ろしている。ビカムは天を仰いだ。

 きっとそれは、過酷な運命に傷つけられた少女へ祈るためなのだろう。

 

 月よ、せめて今だけは、月光が傷痕を暴くことなかれ……と。

 

 

 

   ***

 

 

 

 ビカム、リン、ビラート、マルティナ、ニチカ、モルデン、テスカ。

 奇しくも運命が巡り合わせた七人。

 

 野営地の傍らには、黒い塵へと崩壊しつつある八頭蛇の亡骸が横たわっている。

 冒険者四人の顔には濃い疲労と満足感が同居していた。各々複雑な思いを抱えてはいるが、もはやビカムやリンに対する不信感は存在しない……ニチカはそれでも口をへの字に曲げてビカムを見ているが。

 

「これは明らかに異常です」

 

 全員の思いを代弁するようにモルデンが言った。

 

「八頭蛇に絶望水母。どちらもこの辺りで目撃された例はない。そもそも本来の生息域を大きく離れている。早急に最寄りのギルド支部に立ち寄り報告すべきです」

 

「ちょいとお待ちよ!」

 

 それに異を唱えたテスカ。

 

「最寄りのギルド支部に立ち寄るだって? 聞き捨てならないねえ! 寝惚けたあまり頼まれた仕事を忘れたと見える。アンタらの本分はアタシと荷馬車を傷一つなく村まで送り届けることさね! その後のことは勝手におし、ギルドでもどこでも行くがいい!」

 

「し、しかしですね」たじろぎながらマルティナが言う。「このまま何も報せず放置すれば、今後ここを通過する隊商や冒険者が危険にさらされます。幸い近くにギルド支部が置かれた街がありますから、半日ほどあれば――」

 

「その半日はッ、この(ばあ)の半日だよ! アンタらが決める権利なんざ微塵もありゃしないよ! 早くアタシを村まで送っておくれ!」

 

 テスカは口角泡を飛ばしながら憤激した。

 鉄火場に生きるビラートたち冒険者ですら、そのあまりの剣幕に二の句を継げず圧倒されるほどだった。

 

「テスカさん……」

 

 リンもまた困惑に包まれた一人だった。

 数十分前は丁寧に……それこそ孫に寝物語を聞かせる祖母のごとく彼女はリンダリアル世界の神話を聞かせてくれた。

 

「アタシに首輪付けて引きずってギルドに行くってんならね、こっちは依頼不履行で罪に訴えてやってもいいんだよ!」

 

 ……それが今は別人のように目を剥いて怒っている。いったいなぜ……?

 

(強力な魔獣に襲われたことは気にしていない……? 村への到着が遅れるから……?)

 

 リンは黙考を続けるも、それ以外の理由を思いつかない。

 その間もビラートたちはなんとか宥めようと必死だ。

 

「だけどよぉ、これじゃあ他にもヤバい魔獣がいるかもしれねえ。そこを無理矢理突っ切っていくのはお勧めしねえな。ギルドに行くってのは一時避難の意味もあるんだぜ、婆さん?」

 

「フン! そりゃアンタらが実力不足だからじゃろうが。見な、あの御仁を!」

 

 テスカが振り向いた人物は、言うまでもないだろう。

 皆が視線を追った先には、唯一人、喧騒とは無縁の沈黙を従えたビカムが佇んでいる。誰の意見にも賛同せず、冷静に運命を見極めようとしているビカムが。

 

「……(私も一度ギルドに寄るべきだと思うが……)」

 

「たった一人で八頭蛇を半死半生に! 絶望水母は一刀両断切り伏せたってんじゃないか! この御方が居れば、なぁにも恐れる必要はないんじゃ。あとちょっとの距離なのさ。いいかい、婆にはもたもたしてる時間はないんだよ!」

 

 うぐ、とビラートたちが息を詰まらせる。

 事実としてテスカの言うとおり、ビカムの実力ならばどんな魔物でもたちどころに屠ってしまうだろう。テスカの望みどおり無傷で早々村へ送り届けてしまうに違いない。

 なまじ手段が取れる分、どちらを優先するべきか逡巡の間が生じてしまう。

 

 誰もがビカムに注目していた。

 彼の次の発言が、一行の進むべき道を決めてしまう……そんな確信を抱えながら。

 

「(ギルドへの報告を後回しにして依頼遂行を強行した場合、成り行きで加勢した私たちも問われるのだろうか)……罪に……」

 

 つみに――

 

 その言葉が鼓膜を震わせた瞬間、テスカの声にならない動揺の呻きが静かに響いた。

 皆が振り向いた事で自分が動揺した事に気づき、しかし取り繕うも遅きに失したと悟り、年輪のようにシワが刻まれた額に冷や汗が浮かんだ。

 

「つみに……積み荷(・・・)……?」

 

 ニチカが呟く。

 確かめるようにビカムへと振り返る。

 

「……(え……⁉ 今何か変な事言ったか、私……?)」

 

 美貌の剣士は若き魔法使いからわずかに顔を逸らす。

 その視線の先には――テスカの荷馬車が。

 

「――っ‼」

 

 ニチカは彼の示唆するところに気づき、二つの驚愕に包まれた。

 

 この依頼が、老婆と荷馬車を護衛するだけの依頼ではなかったことに。

 そして……たった一人、彼だけが事態の真相を見抜いていたことに。

 

「あの荷馬車にはいったい何が積んであるんです⁉ 答えてください!」

 

 ニチカの糾弾の声に、ビラート、マルティナ、モルデンも最悪の可能性に思い至った。

 

「あ、アンタらには関係ない事で――」

 

「いいや、婆さん、関係は大ありだ。依頼内容は食料と罠猟道具運搬の護衛だったよなぁ? もしまったく違う物をあの馬車に載せてるってんなら、こいつぁ重大な契約違反だぜ」

 

「ええ。我々も看過できません。もし知らぬ間に犯罪の片棒を担がされたとあっては冒険者活動に甚大な影響があります」

 

 ビラートとモルデンが有無を言わさぬ勢いで荷馬車の後ろに回る。

 

「やめんか! アタシの私物じゃぞ! ギルドに訴えて――」

 

「どうせギルドに突き出すつもりなんだろ? だったら構やしねえよ。マルティナ、婆さんを抑えとけ」

 

「やめろッ、やめるんじゃあああああッ!」

 

 羽交い絞めにされたテスカの目の前で、ビラートとモルデンが荷馬車の木戸を開け放った。

 

「まじかよ……!」

 

「やってくれましたね、テスカさん……!」

 

 荷馬車に積まれていたのは――一頭の馬だった。

 

 白く美しい毛並み、白銀のたてがみ。

 何よりも特徴的なのは頭部から伸びた一本の角。

 前脚と後脚を縛られ、(いなな)きが漏れないよう口に布を巻かれ、力なく尻尾が揺れていた。

 

 リンは記憶の中から、昔アーカイブで閲覧した旧時代の人類が描いた空想上の動物の姿を引き出した。

 

「ユニコーン……?」

 

「……リンダリアルでは一角馬(いっかくば)と呼ぶ」リンの呟きにビカムが答える。「……獲ることを禁じられた聖獣だ」

 

 一角馬――深い森の奥に生息する百獣種の一つである。

 

 気性は穏やかで、他の生物と争うことも滅多にない。

 山を熟知した猟師が人生のうち数回出会えるか否かの稀少な馬だ。

 また、人の心を感じ取ることが出来ると言われ、善なる心に寄り添い、邪まな念を忌避するという。

 

「なるほどね、合点がいったわ」

 

「絶望水母も八頭蛇も、一角馬を追って森の浅いところまで来たんですね」

 

 一角馬は確かに大人しい生き物ではあるが――相手が魔獣だった場合は話が別だ。

 嵐のごとく荒ぶり、たとえ生まれたばかりの仔だろうと、それが魔獣であるなら容赦なく殺してしまう。そうあれかしと創世の女神が生み出したのだ。世に蔓延る魔獣を滅ぼしてしまうよう、チキュウ風に言うなら遺伝子レベルで刻み込まれた一角馬の本能なのである。

 その特異な気質に違わず、殺虫剤が特定の虫を駆逐するかのごとく、一角馬は対魔獣に関しては滅法強い。

 

 対して魔獣の側も、一角馬を蛇蝎のごとく嫌っている……いや憎悪しているであろう。なにせ自分たちを滅ぼすために神が遣わした聖獣なのだ。

 魔獣の強い個体は一角馬を殺そうと執拗に戦いを挑む。今回、絶望水母と八頭蛇がありえない場所で出現したのも、テスカが運んでいた一角馬の気配を感じ、誘き寄せられたから以外に考えられない。

 

 しかし、そんな一角馬は不思議な事に、魔獣以外の生物……例えば人間にとっては角の生えた美しい馬程度の脅威しかない。

 捕獲に必要な知識、道具、運の巡り会わせさえあれば捕獲は不可能ではないのである。

 

 そして一角馬にとっては不幸な事に、かつてある言い伝えが存在した――

 

「頼むぅ、見逃しておくんなあ!」

 

 それまでの強気が一転、テスカは地に伏せて懇願を始めた。

 

「孫が、孫が死病に(かか)っちまったんだよ。もう幾ばくも時間がないんじゃ。早く、早く一角馬の角を煎じて飲ませてあげないと……」

 

「じょっ、冗談でしょう……⁉」マルティナが同意を求めるように周囲を見渡す。「一角馬の角に病気を治す効果があるって、どれだけ昔の迷信だと思ってるのよ!」

 

 そう――一角馬の額から伸びる角には病魔を祓う効能があるとされ、古より最高級の薬として時の権力者や富豪が求めてやまなかった。

 

 そのせいで一角馬の乱獲が進むが、近年になり、ようやく角に薬効が無いと証明された頃には個体数が激減していた。

 一角馬を獲りすぎたせいで、それまで適度に間引かれていた魔獣が大繁殖し滅亡した国も存在する。

 ゆえにこの馬は人類の愚かさの象徴であり、どの国でも禁猟指定されているのである。密猟が分かれば中長期の収監は確実だろう。

 

「そんなの試してみなけりゃ分からんじゃろ! どんな薬も効かなかったんじゃ、一角馬の角が効かないとどうしてわかるんじゃッ……⁉ 迷信でも何でもええ、あの子を助けられるならアタシは悪魔にだってなるよ!」

 

 一心に孫を思うテスカに、だがニチカは冷ややかだった。

 

「……信じられません。むしろ一角馬の切り取った角を密売すると言われた方が信じられます。稀少動物を求める好事家には高く売りつけられるでしょう」

 

 あまりな物言いであるが、凪のように在るビカムは勿論、ニチカを咎める者は誰もいなかった。彼女の言も的外れとは言えない、現実的な推測であるからだ。

 テスカの言葉を確かめる術はない。

 孫を助けるために禁忌を犯した憐れな老婆か、己の強欲のために法律を破った業突く張りか。

 決定づける証拠など何も無いのだ。

 果たして誰が裁決を下せようか。

 

 (おの)ずと視線は、たった一人へ導かれるように収束した。

 

「……(だからなんで皆、私を見るんだ……? まさか、どうするか私が決めろと⁉)」

 

 ビカム――このエルフの剣士が、俗世をも超越した視座を持つであろうことを誰もが肌で感じていた。

 人間が裁決を下せないならば、彼にこそ……そんな集合的無意識が圧となってビカムへと向けられたのだ。

 とはいえ、当の本人はそよ風に頬を撫でられたと言わんばかりの佇まいである。

 

「(とりあえず何か喋らなければ)……孫の」

 

 永遠のような刹那の後、ビカムが口を開いた。

 

「……孫の病は、何という?」

 

 問いを受けたテスカは「黒班病じゃ」と忌々しく病名を口にした。

 

「この病に効く薬は見つかっておらん。治せるのは治癒魔法だけ。それも高位の魔法でなければ、孫の体から病魔を取り除くことはできん。じゃというのに、我が家には高名な魔法使いの伝手も、治療の大金を払う財もない……」

 

「……(なんだ、黒班病か。それなら……)」

 

 ビカムはテスカの嘆きには答えず、腰に下げた魔法の収納袋へ手を入れる。

 引き抜かれた手が握っていたのは、透き通った黄金色の液体を並々とたたえた硝子瓶であった。

 美剣士はその正体を告げた。

 

「……『女神の憐憫(れんびん)』だ」

 

「ま、さか……ッ⁉」

 

 モルデン驚愕を露わにする。

 信じがたい存在を目の当たりにした驚きを、この青年は魂から表現していた。

 

「で、伝説に謳われる魔効液(ポーション)……あらゆる病に対する特効薬! 創世の女神が地上に落した涙と言われる、人類には絶対に作れない神の遺物! 歴史上、それを欲して教皇が聖軍を動かしたこともある……! なぜ貴方がそんなものを、いや、それよりも――まさか――使う気ですか? 偶然鉢合わせただけの、行きずりの老婆の孫のために……?」

 

「……(いや、実は入手しようと思えばいくらでも……)」

 

 伝説級の薬を今日会ったばかりの他人のために使う。歴史上いかなる偉人聖人であろうと、果たしてビカムの聖性に比肩するや否や。

 

 だがテスカにとって薬の稀少性や逸話など二の次。

 愛する者を救えるか……価値などそれだけでしかない。

 

「それをッ! それを、を、を……ッ!」

 

 わなわなと手を震わせるテスカの沸騰した脳髄を――冷たい視線が貫いた。

 ビカムの、射殺すような冷たい視線が。

 

「……(顔が怖い……貴方にあげるから……)」

 

 ビカムはただ魔法の収納袋から『女神の憐憫』を取り出したるのみ。テスカに与えるとは何も、言質はない。

 運命は、美剣士の胸三寸で決まる。

 

 テスカは、『女神の憐憫』が乗せられた天秤の片方が大きく沈み込む幻影を見た。

 つまり――ビカムは待っているのだ。この高く掲げられたもう片方の皿に、テスカが何を乗せるのか。天秤同士が釣り合うまで何をどれだけ乗せるのかを。

 

 厳しいとは言うまい。

 対価は伝説の薬。最も欲してやまない治療薬。本来なら天秤に乗ることすらない(・・・・・・・・)遺物。

 そんな幸運に臨んで、しかし己にいったい何が差し出せるのか……。

 

「アタシは、何をすりゃあええ? な、何でも言うてくれ!」

 

 ……結局、このちっぽけな老婆に正解など分からなかった。

 唯一出来る事は、相手がまさしく求めていることを教示してくれと、浅ましく(こいねが)うしかなかった。

 

「(何でもと言われても……可哀そうだからとりあえず)……一角馬を解き放て」

 

 ――そう告げられたテスカ、いや、この場にいる面々の驚きたるや……。

 

 まさに背筋へ氷の刃を刺しこまれたかのごとく、体の芯まで凍るような心地であった。

 縛られた一角馬がただ可哀そうだから縄を切れと言ったのでは当然ないのだ。

 この美剣士が、世界をさすらう美身なるエルフが、そんな目に見える表面上の浅い領域で物事を語るなど、ありえるだろうか?

 

(――ビカム、お婆さんに、命を差し出せというの……⁉)

 

 リンもビカムの意図に気づいていた。

 羨望の溜息を吐かせる美の化身の口から、こんな残酷な条件が出たことに、彼女は戸惑いを隠せなかった。

 

 ビカムが求めたのは、犯した罪の清算である。

 本来なら自由に野を駆けていたはずの一角馬。

 それが脚を縄で戒められ、虜囚の苦痛を味わっている。

 解放すれば、どうなるか――一角馬は己の(うち)に煮え滾った怒りをもって、テスカを真っ先に突き殺すことは想像に難くなかった。

 

 しかし一方で彼女は償わねばならない……禁じられた聖獣を自己の都合により捕えた罪を。

 今、一角馬を解き放てば――たくましい一本角を折らなければ――犯行の途中で良心の呵責により改心したと、幾分か情状酌量の余地があるかもしれない。

 だが、たとえ寛大な処置を受けたとしても、待ち受けるのが縛り首から監獄行きに変わるだけだ。

 衛生環境の劣悪な牢獄の中で、余命短い老婆が刑期を全うできるのか。……おそらく出てくるのは死体になっているときだろう。

 

 いや、自分一人の命で済むならまだ温情だ。自分が重罪犯者だと知れ渡れば、残された家族はどうなるか。間違いなく迫害され、村を追い出される。

 代々罠猟で生計を立ててきた家系だ。それ以外に、たつきの道などありはしない。早々に食い詰め、悲惨な最期を迎えるのは間違いなかった。

 

 つまりテスカ(自分)には、ここで一角馬に殺されて死ぬ以外、選択肢など残されていないのだ。

 ……そこまで思い至って、老婆は覚悟を固めることができた。体の震えは止まった。

 

 厳しく残酷と思えたビカムの提案は、もはや慈悲ですらあった。

 自分一人が死ねば全てが丸く収まる。

 孫は助かり、残された家族は生きていける。自分は犯した罪を償える。何の不満があろうか?

 双眸いっぱいに涙をためながら、それでもテスカはくしゃりと笑った。

 

「分かった。エルフの御仁よ、ロッペル村のダンっちゅう男の子にその薬を飲ませてやってくれ。赤毛の可愛い可愛い男の子じゃ。……冒険者、アンタらもすまなんだの、意地の悪い事を言うて。許しておくれ。依頼票にはもう完了の署名はしておる。この荷馬車も持って行ってもらってええ。売るなり何なりしておくれ。この婆からの詫びじゃ。……もう、思い残すことは、ない。さあ、一角馬を解放してやっておくれ!」

 

「……ああ(だが、なぜ悲愴な顔つきを……?)」

 

 誰も声を出せない中、ビカムだけが平静に霊剣フェーレを振るう。

 黄金の軌跡が走った後、一角馬を戒めていた縄は断ち切られた。

 たちまち、一角馬は勢い良く起き上がり、荒々しく荷馬車から飛び出したかと思うと、口端から泡を飛ばしながらグルグルと旋回する。

 

 雲間に月が隠れた。薄曇りのヴェールが地を覆い隠した。

 まるで、これから起こる悲劇を月光の下にさらさせまいと。しかし、神々の深遠な計らいは、人にとってどれほどの慰めになろうか。

 

 充血した一角馬の瞳が、己に許しがたい仕打ちを行った老婆を捉えた。

 

「すまんかったのお……このとおりじゃ。この婆の命で許しておくれ。吹けば飛ぶような消えかけの火じゃが、もうこれしか差し出せるものがないのでの……」

 

 たとえ生まれ変わって再び同じ状況に置かれても、もう一度同じ事をやるだろう――そんな清々しさが笑顔に纏わりついていた。

 人はそれを開き直りというのだろう。あるいは、愛と。

 

 一角馬の角の切っ先がゆっくりと老婆の胸に迫る。

 マルティナは目を逸らし、ニチカは唇を噛みしめ、モルデンは手向けの印を結んだ。ビラートは拳を握り、この光景を生涯忘れまいと立ち尽くす。

 リンは胸の奥の苦しみに耐えようとして静かに涙をこぼした。

 

 ビカムは――言うまでもなかろう。

 自ら裁決を下した刑の執行に、審判者は揺るがない。

 無慈悲なのではない。真の結末(・・・・)を知るがゆえに。

 

「ああ……」

 

 誰かの感嘆の溜息が漏れた。

 

 裁きを下すはずの角は横を通り過ぎて、

 ――一角馬はテスカの顔へ己が首を擦り付けた。

 

 それは間違いなく、慈愛をもって抱きしめるようになされた許しであった。

 一角馬は人の心を感じ取ることが出来るという。そして善なる心に寄り添うとも。

 一心に孫を想う祖母の愛情を一角馬は読み取り――怒りの感情を霧散させたのだ。

 人と獣、種族違おうとも認めざるをえない慈愛に、聖獣は心を打たれたのだ……!

 

「ゆ、許してくれるのかい……お前に酷い事をしたこの婆を……?」

 

 そうだ、と言うように一角馬は(いなな)く。テスカはおいおいと声を上げて泣いた。

 

「ううっ……良かった……」

 

「なんだマルティナ、泣いてんのか?」

 

「泣いてないし! ぐすっ」

 

 分かり易く顔を逸らした仲間にビラートは苦笑しつつ……気取られぬよう、彼は覗き見た。深山幽谷のごとく佇む美剣士を。

 

(婆さんの心に、わずかでもテメエの命を惜しむ感情があれば、ほぼ間違いなく死んでただろうな。――最初から奴は、こうなることまで見通していたとしたら……)

 

「……フ……(なんでテスカ殿は泣いているんだ? なんで一角馬は急にテスカ殿に懐いたんだ? なんで感動的な空気が流れている? 分からない。何も分からない。いっそ笑えてくるほどに……)」

 

 流れ星よりも貴重な、一瞬の微笑。

 一人目撃したビラートは己の推測が正しかったことを確信した。

 そして、運命をすら見通す彼の(まなこ)をひっそりと畏れた……。

 

 

 

 

 

 彼ら一行がロッペル村に辿り着き、ダン少年の体から死病が取り除かれたのは、チキュウ時間表記で四時間後……朝日が山々の頂から顔を出し始めた頃であった。

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