異界渡り、ビカム -伝説のエルフは今日も勝手に深読みされる-   作:鹿紅 順

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第三章 第8話「ソード・セイント」

   ***

 

 

 

「……リン殿(手筈通りに)」

 

「ええ!」

 

 二つの人影が弾かれたように分かれる。

 一つはマーカスの方に、もう一つは〝黒鬼士〟の方へ。

 

 すなわち、ビカムは〝黒鬼士〟と対峙し、

 必然的に、リンはマーカスと戦うことを意味する。

 

 これらはあらかじめ決めていた対戦カードであった。

 

〝黒鬼士〟相手では、肉親の情ゆえにリンは十全に実力を発揮できない恐れがある。

 加えて困難な事に、〝黒鬼士〟を……コーイチローを殺めることもできない。激しい剣撃を繰り出してくる強敵に対し、致命傷を与えることなく制圧できる腕前が要求される。なるほど、この場ではビカムをおいて他におるまい。

 最悪の場合、回復魔法があれば一命を取り留められる可能性も大きい。

 

 だが、

 

「……!(魔法が発動しない……⁉)」

 

 ビカムの左の掌の上で練り上げられようとした風が急激に霧散する。

 そんな事情、露とも知らぬと言わんばかりの〝黒鬼士〟が斬り込む。

 

「……(あれッ⁉ 何でなの⁉)」

 

 異常事態にも動揺せず冷静に受けるビカム。

 原因の分析を終えたアイが焦ったように叫んだ。

 

『ビカム、リン! マーカスの〝鎧素徒〟に魔子運動阻害装置(マギトロン・ジャマー)が搭載されているわ! あの鎧を破壊しないと魔法は使えない……!』

 

 ――魔子運動阻害装置。

 

 リンダリアル世界で普遍的な現象である魔法は、チキュウ世界の科学においては〝魔子というゲージ粒子により媒介される魔力相互作用〟として観測される。

 

 何を言われているか分からない場合は、回転モーターと電池と銅線を思い浮かべてほしい。

 電池から生じる電気エネルギーが銅線から伝わってモーターが動くとしよう。この時、電気エネルギーを魔力、モーター……すなわち回転という運動結果が魔法とすると、魔子は銅線の役割を果たしている。魔子が空間上に存在するからこそ、魔力エネルギーは空間に伝わることができるのだ。

 

 この粒子は元々リンダリアル世界にしか存在しなかったが、〝ゲート〟を介して繋がったことでチキュウ世界に流入してきたとされる。

 ならば、この粒子を機能不全に陥らせることで魔法の発動を邪魔できるのでは――その企みの結実が魔子運動阻害装置(マギトロン・ジャマー)である。

 

 さすがに本場リンダリアル世界では魔子密度が桁違いのため効果は限定的になるが、密度の薄いチキュウ世界であれば、体外へ放出される魔力は現象として形を成すことが不可能だ。

 

「……(そんな……作戦が……魔法で制圧する作戦が……)」

 

 ――もっとも、

 それでビカムに陰りが見えるかというと、まったくもってそんな事はないようだ。

 涼やかな表情を貫き通す彼は、魔法が使えないなら剣でケリをつけるまでと言わんばかりに霊剣フェーレを振るい、黄金の軌跡を宙に描いている。

 

 ビカムの攻撃を防ぎつつ〝黒鬼士〟が後方へ跳躍する。

 その黒刃は、鞘に納まっている。

 

「才羽流抜刀術」

 

 ビカムよ、あの技が来るぞ!

 

「――〝目臥〟」

 

 指向性を有する危険な音波が放たれた。

 

 しかし、その技の存在はリンから伝え聞いている。

 ならば、美剣士は既に打ち破る手段を編み出しているだろう。

 

 ――ギィンンッ‼

 

 甲高い金属音。

 ビカムは左手に魔法で剣を創り出すと、マッチを擦るように霊剣フェーレの刃と魔法剣の刃を擦り合わせ、高周波を発生させた。

 

 音には音をぶつける――周波数を乱すことで、三半規管を狂わせる音波を無害なただの音に変えてみせたのだ。

 

「……耳障りな音だ(こういう引っ搔いたような音は苦手なんだよな……)」

 

 才羽流抜刀術〝目臥〟を騒音呼ばわりするビカム。

 小手先の技は通じないと見たか、〝黒鬼士〟は黒刃を正眼に構えた。

 

「(……とはいえ面白い技だ)……こうか(こんな感じ?)」

 

 ビカムは両手の剣を目の前で交差させるように振り抜く。

 

 ――キィィィンンン――!

 

 交錯した剣が触れ合う澄んだ音。が〝黒鬼士〟の……いや、コーイチローの鼓膜を激しく揺さぶった。

 なんと、ビカムは一度目にしただけで〝目臥〟を模倣してみせたのだ! しかも音の鋭さで判断するなら今ビカムが放った技の方が……。美剣士の才能に果てはないのか。

 

 自分の技が返ってくると予測できなかったのか〝黒鬼士〟は体勢を揺らがせるが、それも一瞬だけだった。

 彼の背中には〝セカンド・スピン〟が装着されている――いかに脳の感覚を乱されようと、機械が電気信号を代替する限り影響は望めなかった。

 

 それでも――その一瞬のバグは彼(・)の意識を呼び覚ましたのか……

 鍔迫り合った二人の剣士。

〝黒鬼士〟が問う。

 

「な、ぜ――力を、貸す――異世界の、剣士、よ――」

 

『任務遂行にあたり、自我情報は成功率を著しく低下させる要素です。速やかにシティにて教化プログラムを受講してください』

 

「――ッッッッッ‼ ――答エ、ろ――」

 

 無粋にも割り込んでくる『エデン』の音声。

 同時に〝黒鬼士〟の神経には矯正のための電気刺激が流し込まれ、地獄の激痛が続いているはずだ。

 それでも、彼の瞳に意思の光はまだ宿り続けていた。

 

 ビカムは言う。

 

「……リン殿の帰る場所(にある私の報酬)を守るために」

 

「リ、ン」

 

 そしてそこは、コーイチローが帰るべき場所でもある。

 

 見返りなど何もない。それでも絶世の剣士は少女に力を貸す。

 利益や損失を越えた地平にビカムは立っていた。

 

「……ジャンク・タウンは滅ぼさせない(私の報酬も破壊されてしまう)」

 

「リン――」

 

〝黒鬼士〟の口が彼の愛すべき娘の名を紡いだ。

 しかし直後、電流が流れたように体を強張らせる。

 

『――自我覚醒の兆候を検知。強制シャットダウンを実行。プロトコル:ソード・セイントを起動』

 

 ――閃く黒刃。

 

 ほとんど密着するような状態から〝黒鬼士〟は刃を振るってみせ、ビカムに大きく距離を取らせた。

 彼の表情からコーイチローの意識はもう消えていた。

 

『三位一体裁判(トリニティ・トライアル)の一時停止、当該処理に割いていた演算リソースをプロトコル:ソード・セイントへ譲渡』

 

〝黒鬼士〟の姿がブレる――

 

 ――瞬きの間に、黒き刃がすぐ傍まで迫り来る!

 

 ビカムはフェーレで受け止めたものの、まるで別人と思わせるほどパワーとスピードが桁違いに。

 さらに厄介な事に、ただ力任せに振るわれたのではなく、剣術の冴えすらもより鋭くなっている。

 

『くっ、なんてことを、『エデン』……!』

 

〝黒鬼士〟と斬り結びながらビカムは視線でアイに何事か問うた。

 

『今、シティの全裁判所の機能が停止したわ。裁判の進行も量刑査定も何もかも全部よ! その運営維持のためのリソースを全部、『エデン』は〝黒鬼士〟を動かすためだけに注ぎ込んでいるの!』

 

 その効果は、先の斬りかかりから既に現れている。

 莫大な演算能力を行動の最適化とビカムの攻撃予測に費やし、誇張なしに一秒後には別人レベルで剣の腕前が上昇しているのだ。

 

 刹那の時間に数億通りのシミュレーションを回し、最善の選択肢を選び取り続ける。

 量子コンピューターの性能を最大限発揮した戦術。

 

 それでもなお、美剣士の剣は強化された〝黒鬼士〟と渡り合っていた。長命のエルフがゆえに、ビカムもまた数百年単位の剣術の歴史を有している。簡単に追随を許しはしない。

 

『共通基幹決済システムの一時停止、当該処理に割いていた演算リソースをプロトコル:ソード・セイントへ譲渡』

 

 ――今、シティ全域で金銭(レジット)の支払いが不可能になった。

 

 それによる多大な混乱、莫大な経済的損失が地上で生じているはずだが、『エデン』に斟酌した様子はない。勝つために必要だから実行するマシンの冷徹な計算がこれを為さしめた。

 

「……(うおっ、ヤバッ、うおっ……!)」

 

『交通管制システムの一時停止および運行中車輛を強制徐行モードへ移行、当該処理に割いていた演算リソースをプロトコル:ソード・セイントへ譲渡』

 

 そして『エデン』は交通管制すらも手放した。地上の車両は自動運転を停止し、道路を時速十キロメートルの低速で永遠に走り続けるだけの鉄の箱になった。

 

 代償として得た余剰演算リソースが〝黒鬼士〟を操る〝セカンド・スピン〟に集中する――

 究極の合理に沿った肉体制御、未来予知に等しい数十億パターンのシミュレーション、そこから最善の選択肢を選び取る判断力……圧倒的な計算の暴力がことごとくを実現させる。

 

 そこにいたのは――まるで数千年の研鑽を積んだ歴戦の剣士。

 

「……!(嘘でしょ……! これは本当に剣爺並みの強さに……⁉)」

 

 人造剣聖(プロトコル:ソード・セイント)――チキュウ科学が生み出した最強のソードマン。

 

 それに渡り合うは異世界のソードマン、美剣士ビカム。

 

 既に剣の応酬は神域の領域へ突入している。感嘆するべきは並みの人間でありながら絶技を振るう〝黒鬼士〟に対してか、数千年の修練を積み上げたに等しい演算に屈することなく斬り結ぶビカムにか。

 

 しかし、

 

「……機械に頼った結果が、これか(アイもそうだけど、やはりチキュウのAIスゴすぎ……!)」

 

『――不明。適性体との戦闘時間が予測値と大幅に乖離。シミュレーションの仮想環境初期値および敵性体能力予測値の設定異常の可能性あり。要修正……』

 

 いかに0と1の計算を回そうが、美剣士の技はそれを越えていく――!

 

 何千年分シミュレーションを繰り返そうと、所詮は機械的に一瞬で吐き出した計算結果に過ぎない。

 信念も生き様も思いも魂も乗っていない時間にどうして押しつぶされようか……ビカムのセリフからは己も剣士として生きてきた矜持が垣間見えた。

 

『さらなる演算リソースの移譲を検討』

 

「……やれるものならな(やり過ぎるとシティの機能が麻痺するのだからもう無理だよね⁉ 頼むから無理だと言ってくれ!)」

 

 さらに強化を試みる『エデン』。

 額に冷や汗一つなく応じるビカム。

 

 戦いはさらに過熱し、危険な領域へと突入していく――!

 

 

 

 

 

 ビカムが〝黒鬼士〟と渡り合う一方、こちらも鎬を削る戦いが展開していた。

 

 紅蓮の刃。

 黒鉄(くろがね)の拳。

 

 凄まじいエネルギーが空中で衝突し、火花を散らす。

 リンとマーカス、二人の戦いはまさに互角、趨勢は拮抗したまま動く気配がない。

 

 リンは果敢に打ち掛かりながら驚嘆を禁じえない。

 

(この男……外見はどう見ても老人なのに身体能力はまるで別!)

(加えてあの鎧も――)

 

〝鎧素徒【調伏】〟

 

 空気中の魔法を阻害する効果を備えた恐るべき鎧。

 だがマーカスがその力に溺れている様子はない。自らの能力に対する圧倒的自信。道具はあくまで己のポテンシャルを引き出すものに過ぎないと一線を引くがゆえに、驕(おご)りや慢心は探す方が難しい。

 

 ――対するマーカスも、リンと拮抗している(・・・・・・)状況そのものに違和感を覚える。

 

 少女こそ強化外骨格(エグゾスケルトン)を装着しているが、拳から伝わってくるパワーはそれを加味しても強力。さらに、リンダリアル世界で〝黒鬼士〟を急激に追い詰めた時と似たようなパフォーマンスを発揮している。

 

 加えて厄介なのは武器を変えていること――チキュウ産の高周波ブレードではなく、未知の金属を鍛造した紅色の刀をいつの間にか得物にしている。

 

 マーカスは戦闘中、リンへの直接攻撃以外に武器の破壊も同時に試みていた。剣身の横っ腹に掌底を叩き込みフックを見舞ったが、彼をして叩き折れる気が微塵もしなかった。

 ということは、そもそも最初から(・・・・・・・・)折れないのだろう(・・・・・・・・)。

 

 自分が出来ない(・・・・)というのはありえず、つまり『剣が折れる』という前提が間違っているので、ならばこれは不壊の素材で打たれた異世界の剣……それ以外ありえない。

 

「シン・シャドー・スタイル:プロミネンス・グルマ!」

 

 ――そんな事を推し測りながら、リンの怒涛の連撃をマーカスは危なげなく捌いていく。

 

「シン・シャドー・スタイル:アヴァランチ・ヅキ!」

 

 雪崩のごとき勢いの突きも最小限の動きで回避する。

 

「シン・シャドー――!」

 

「――耳障りだ」

 

 マーカスは紅の刀が振り切られる前に懐へ飛び込み、前腕部をリンの手首にぶつけて封じ、少女のがら空きの胴体に寸勁を叩き込む。

 辛うじてリンは空いている手を間に差し込むことで直撃は免れたが、代償に左腕の強化外骨格が破壊される。

 リンの顔が驚愕に歪んだ。

 

(ありえない、技の起こりで潰された。事前に知って(・・・・・・)いなければ(・・・・・)、こんなの――)

 

 導き出された恐るべき推論を口にする。

 

「そんな、まさか……貴方もアイアン・ワタナベ師範に教えを授かって、シン・シャドー・スタイルを……ッ!」

 

「一緒にするな。不愉快だ」

 

 心底から嫌そうに吐き捨てるマーカス。

 

 全てにおいて完璧を体現する彼に、敵を侮るという思考はない。リンダリアル世界における〝黒鬼士〟との戦闘記録から、リンがシン・シャドー・スタイルなる剣術を使用することは把握済み。

 であるならば事前に調査していないはずがないのだ――この男に限っては。

 

「あのようなもの、一度見れば極められる。リン・ツカモト、貴様が挙げる唯一の戦果は、くだらんウェブ講座を私に視聴させ、低俗さのあまりに吐き気を覚えさせたことだけだ」

 

「くっ、全35回のレッスンを最後まで視聴したというのね……!」

 

 Okay! C'mon! Let's go! ――アイアン・ワタナベの声がリンの脳裏に蘇った。

 

 シン・シャドー・スタイルの深奥はマーカスに筒抜けになっている。

 されど、手の内を明かされたことに対する打開策がリンには無い。実質的に技が封じられる以上、純粋な剣技をもって対抗する他ないのだ。

 

 異世界で死と隣り合わせの実戦を経たリンの剣は間違いなく一線級に達している。以前は数に苦戦した暴走アンドロイドの群も今なら容易く斬り伏せられることだろう。

 

 そんな彼女をもってしても……マーカス・ハーディとの戦闘は荷が重いと言わざるをえない。

 人生において大なり小なり数多の選別の機会があるとして、その全てをクリアしてきたのがこの男。

 広大な砂漠の砂を篩(ふるい)に掛け続け、最後に残った奇跡の一粒。人間が内包するあらゆるステータス項目全てを上限に到達させた臨界者。これら比喩の体現者こそマーカス・ハーディなのだ。

 

 拮抗しているかに見えた戦いも、戦況はシティの支配者に傾いていく。

 苦悶の表情を色濃く浮かべるリンに対し、マーカスは苛烈な攻めを継続したまま淡々と論理を布(し)かんとする。

 

「私には人類再興のために楽園を造り上げる大義がある。身分や富貴に関わらず誰もが同じ人間だと言うならば、少数を切り捨てることで大勢を生かす合理に逆らうはずがない。だが貴様は些少の犠牲を受け入れられず、皆で腐り果てる道を選ぼうという」

 

「…………!」

 

「その名を何というか教えてやろう。自滅(・・)だ。個人的感情が大局観を鈍らせ、自ら滅びの道に突き進む」

 

「――ッ――!」

 

「それが貴様と私の差だ。優れたる人間は感情を服従させ、大義のために常に正しき選択を取る。――心底軽蔑しよう。感情の犬に堕した貴様がこの私を倒すなどと、その身の程知らずさ加減を」

 

 マーカス・ハーディの動きは、明らかに何らかの武の理を修めた人間のそれである。

 だがその動きに型のような共通点は見出せない。千変万化に移ろい、しかし状況から導かれる最善の動作を出力している。これが最もリンを苦しめる。動きにパターンが無いということは行動を予測することも、行動の隙を突くことも難しいからだ。

 

 リンがシン・シャドー・スタイルの技名を叫んで気合いを入れるのとは対照的に、マーカスは黙々とタスクを処理するように戦う。

 ひたすら堅実で、徹底して合理……それはあらゆる武術をインストールしたがゆえに至った境地であった。

 

 無数の武術、さらにその武術が内包する膨大な流派まで、マーカスは修め、束ね、錬磨していき――その果てに型や技すらも不純物(・・・)として削ぎ落とした。大量の原料を圧搾してわずかな成分を抽出するかのごとく、それらのエッセンスだけが体に残される。

 

 濾過凝縮武闘体――全武術の集合体と呼ぶべき存在がリンの前に立ちはだかった。

 

(いったい私は何と戦っているの――)

(勝てるイメージがまったく浮かばない)

 

 マーカスの蹴りが強化外骨格の右足部分を吹き飛ばす。

 何をどうしても通じない敗北感。あらゆる点で己より上位である絶望感。暗い感情が手を鈍らせていき、それが不利な戦況をより傾けていく。

 

 そうして焦りがミスを生む。

 

「シン・シャドー・スタイル:――レクイエム・ダイジョーダン‼」

 

 通じないと分かっていながら一発逆転の大技を無意識に選択してしまう。

 上空からの渾身の振り下ろしは、マーカスの眼前で両掌に挟み取られる。

 

 ――ブレード・シラハドリ……全35回の番外、エクストラ・レッスンで理論のみ示された、常軌を逸する危険な技。

 

 失敗すれば致命傷は必至のハイリスク・ハイリターンな行為。そうせずとも避ける手段はいくらでもあっただろうに、マーカスは躊躇しなかった。

 それが最も効果的で、失敗などする(・・・・・・)はずがないという(・・・・・・・・)自負ゆえに(・・・・・)。

 

 驚愕に身が硬直する。紅刀を手放さなかったことは褒められてもいいだろう。

 瞬間、マーカスの正拳が腹部に叩き込まれ、リンは床を跳ね飛ぶように転がった。

 

「……か、ぁ……ッ‼」

 

 込み上げてきた血が口端から溢れる。

 揺れる視界の端、マーカスは既にいなかった。リンの頭上に影が落ちる。

 

「死ね」

 

 クリティカルヒットを受け満身創痍の敵に悠々と歩み寄る愚をマーカスは犯さない。

 たとえ相手が身の程知らずの小娘であり、自身の勝利は揺らがないと確信していても、彼は油断や慢心を忌み嫌う。

 正拳を撃ち込んだ直後、リンの予測静止地点へと跳躍、落下の勢いを乗せた拳を再度撃ち込む――それで終わり。

 

 数秒後に自分の命を男の姿が、リンの瞳にスローモーションで映る。

 

 

 

〝――……リン……〟

 

 

 

 懐かしい声。忘れることのできない声。

 

 一秒を争う刹那に蘇った、この記憶を走馬灯と言うのなら――

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