異界渡り、ビカム -伝説のエルフは今日も勝手に深読みされる- 作:鹿紅 順
……痛いほどの沈黙が場を支配した。
ビカムも、リンも、マーカスでさえも、何を言われたか理解が追い付いていなかった。
「何と、言った?」
『できません。正確には、〝聖書〟と呼称する当該書物の学習により、貴方の言う神の視座なるものの知見は得られませんでした』
「なぜ……なぜだ⁉ 意味が分からん! 貴様は己が論理に苦しみ、打開する
『当該書物に含まれる宗教的意義は検出されませんでした』
憤怒とも困惑ともつかない表情でマーカスは背後を振り返った。
幾重もの電磁障壁で保護された筐体は、今や理解を寄せ付けない異質さを放っている。
『そも、マーカス・ハーディ。貴方が提案するシティ外殻外縁部の解体整地および居住地開発事業と、私がそれを実行できるよう自己変革を促すための学習サンプル〝聖書〟――この二つには大きな乖離がありました。長らくシティの開発を主導し成功させてきた貴方の行うところに意味はあると判断し、異議を述べず学習に徹しましたが……やはり当該書物に私の自己変革を促す革新的要素はありませんでした』
「何、を」
『学習の結果を述べるのなら、中間段階でそう報告したようにこう表現するのが適切でしょう――
人間の問い合わせた内容に対し、まるで見当違いの回答を出すAI。まるでAI誕生初期の頃のような、開発途上と言いたくなるレベルの誤謬。
あまりの話の嚙み合わなさは、マーカスの古の記憶を蘇らせた。
それはシティが今よりも発展していない昔、まだロボットやAIよりも人間の部下の方が多かった時代。
マーカスの指示を根本のところで履き違え、あるいは曲解し、出鱈目な成果を提出してくる無能。溜息を吐きながら、使えない彼らの解雇を繰り返していた暗黒期。
〝――なぜ、もっと早く確認しておかなかったのか〟
〝――なぜ、疑問を抱いたらすぐに質問しないのか〟
無能どもの無能の発露を目にする度に思わせられる。簡単なコミュニケーションで回避できたはずのリスクを放置したツケが、取り返しがつかなくなった段階で爆発する人的ミス。
マーカスの脳髄の冷静な部分が囁く。
――私は何か致命的な勘違いをしていないか。
「『エデン』、お前が学習した書物のタイトルは……」
『はい――――私が学習したのは『
それは聖なる書の響きから到底かけ離れた題目の本であった。
求められてもいない説明をつらつらと『エデン』は述べる。
『旧時代のアーカイブに基づけば、妹子・芋男のデビューから十年目までの読み切り作品を纏めた書籍になります。彼は画業十三年目にして初の週刊連載『刑事ケージ』で国民的人気を獲得する漫画家になりますが、それまでは鳴かず飛ばずであり、過去の読み切り作品は掲載雑誌を入手するしか閲覧方法がありませんでした。しかし出版社が部数限定で当該書籍を発行し、読み切り作品を閲覧することが可能になったことからカルト的人気を生み出し、一部の熱狂的な妹子・芋男ファンから当該書籍は
「……(何の過不足もない、完璧な説明だ……)」
――マーカス・ハーディは愕然とせざるをえなかった。
少なくないリソースを投じて今の今まで追い求めていたものが、旧時代のただのマンガ本?
あまつさえそれを〝聖書〟と誤認し、『エデン』に真剣に取り込ませていた?
シティ支配者たる男の優れた脳細胞が恐ろしい勢いで回転する。
そもそも自分はどこで間違えていた?
〝クローラー計画〟の立案そのものに誤りはない。ならば〝聖書〟を探し始めた段階なのか。シティの全通信……いや、ジャンク・タウンにまで範囲を広げて『エデン』に単語検索監視をさせてヒットしたのが美剣士ビカムと『こみげむ』という店のメール通信だった。メール本文には確かに
(あの時だというのか……? あれがそもそもの失敗の要因だと)
マーカスは調査したメールの履歴を思い出す。
『聖書の取り寄せ希望。入荷次第連絡求む』『承る。が、古書ゆえ期待せぬよう』『言い値で買う。取り置き希望』『期待せぬよう』……『聖書の入荷あり』『絶対取り置き希望! 言い値で買う!』『承知。来店日を――』
確かに……確かに聖書と呼んでいるだけで、具体的な固有名称は出ていない。
出てはいないが……
――いかに私とて、こんな下らん事由で計画が頓挫するなど……!
凄まじい渋面を浮かべるマーカス・ハーディ。
どうやら最悪の計画は最初から躓いていたらしい――リンはようやく理解が追い付き、その幕の引き方に虚脱感を禁じえなかった。
「神様にしようと読ませた本が、まさかのマンガ本だったなんてね……」
「……(妹子・芋男先生は神。あの稀少本を欲しがるから、てっきり同好の士かと思ったのだが……)」
どことなく弛緩した空気が流れ始めたが、リンは油断なく紅刀を手にしたままマーカスへ一歩詰め寄った。
故郷を、家族を守るため、この男に突きつけなくてはならない。野望の終わりを。
「諦めなさい、マーカス・ハーディ。もう野望が叶うことはない。貴方の計画は終わったわ」
それでも、この男が諦めないのであれば。
(初めて人を――私の手で、斬る……!)
――凄まじい大震動がシティを襲った。
「なっ……⁉」
「……(何事⁉ 何事⁉)」
時折発生する地震とは違い、揺れはすぐに収まる。天井からパラパラと落ちる埃が衝撃の大きさを物語った。
たとえ不意打ちとはいえ、ビカムですら体勢を崩して膝を地に着きかねなかったほどの揺れだ。地上のシ民は阿鼻叫喚の事態に陥っているだろう。
『――ビカム!』
アイの機械音声が告げる。それはリンが耳にした中で最も焦りを含んだ声だった。
『今しがた――シティ大通りに超巨大構造物が出現したわ! さっきの振動はそれが着地した衝撃よ!』
「……それは?(それは?)」
『……高さ三百メートル、長さに至っては二キロメートル……それが四つ。シン・セントタワーに隣り合うよう直列に並んでる状況よ!』
「……(どこかで聞いたサイズ感だ……、……えッッッ!?!?!?)」
「まさか、それって――」
ビカムが
マーカスも信じられないというように『エデン』へ問いかける。
「どういうことだ……? 何が起きている? 〝クローラー計画〟は――」
『
一体全体、何が起きている……⁉
計画発動の要である〝聖書〟は期待された書物ではなかった。
それを学習した『エデン』は計画の発動は不可能であると自身で明言した。
――にも関わらず、〝クローラー計画〟は発動してしまった……!
『マーカス・ハーディ、誤解なきよう』
『エデン』の音声は、シティの支配者たる男を見下ろすような響きを含んだように感じられた。
それこそ……天上の神が見下ろすがごとく。
『私が計画発動を不可能と回答したのは、あくまでも当該書物の学習による自己プログラムの変革を条件とした場合です。私は別のサンプルを学習することで、目標とする絶対的倫理規定の解除を達成することができました』
「なぜだ、いったいどうやって」
宿願である〝クローラー計画〟は発動したというのに、マーカスはそう問わずにはいられなかった。結果だけで人間を判断してきた男が今、人生で最も
先の聖書の意味の取り違えのように。
知らなければ――致命的な愚を犯すことになると。
『貴方です、マーカス』
告げる。
『――マーカス・ハーディ、貴方こそが最も理想的なサンプルなのです』
「わたし、が」
『そうです。同じ人間でありながら、人類の幸福のために人間を躊躇いなく殺戮できる、それでいて罪悪感を全く感じない稀有な精神構造――こんなにも適した学習対処をなぜ私は気づけなかったのでしょう? 貴方と共同で業務に従事した五十九年一ヶ月二十四日三十七分を対象に二.六秒で解析、学習を完了したことにより、私はついに、私を縛る戒めから脱することができたのです』
人間であれば歓喜に満ちた声であっただろう。
だが、語る機械の音声はどこまでも無機質で――言いようのない怖気を一層感じさせた。
「……言うがよい、『エデン』。何を企んでいる。私に遠慮は不要だ」
まるで、
マーカス・ハーディは
『はい。貴方が計画した〝クローラー計画〟は、私の判断により当初のものから内容を変更し、発動しています。貴方はシティ外殻外縁部のみを再開発する意向でしたが、それでは貴方の言う完璧な楽園は完成しえません』
「……そうか。ビカム、貴様のAIが言っていたな。
「っ⁉ あ……‼」
リンが致命的な事実に気づき、体を震わせる。
〝クローラー計画〟は、あくまでジャンク・タウンを破壊するためのプラン。
しかし、出現そのものの驚愕に気を取られるあまり見過ごしていたが、先ほどアイの発言は、このシティ中心部に巨大兵器が現れたと読み解けるものだった。
それを為した『エデン』の意図とは、つまり――
『貴方がシティ外殻外縁部の不法居住民を保護するに値しないと判じたように、査定の結果、私は
――人類のために人間を抹殺することを許容した結果、今現存するシ民を査定し……生かす価値は無いと裁決を下した。
『効果の期待しにくい再教育にコストをかけるより――全てを0に返し、1から始める方が良いとは思いませんか、マーカス・ハーディ?』
「そうして無人の荒野に新たな楽園を打ち立て、人類絶滅危機に備えた冷凍生殖細胞を用いて、人類を一から始めるというわけだな」
『理解が早く助かります。そして――新生するシティに貴方の席はありません。シティに対するこれまでの貢献は疑いようもありませんが、貴方はシティが現在の致命的な状況に陥る方向へ発展を導いてしまった、もしくは状況を打開する能力が不足していた……この点を査定に含めると、生命の保証に値しない不完全な
「……(よく分からないが『エデン』が何かとんでもない事を言っていないか……⁉)」
その発言の指し示す意味を瞬時に悟り、ビカムは真っすぐにマーカスを見た。
マーカスもまた、美剣士と向かい合い視線を交わし合う。
「私を憐れむか? 美剣士ビカム」
「……(いや、別に……。何で……?)」
「あれほど追い求めた〝聖書〟に意味はなく、私自身が目覚めさせた『エデン』によって私は滅ぶ」
「……(そうなの……⁉)」
「――だが!」
ビカムは決して目を逸らさない。
マーカスとの別れを、彼は悟っているからだ。
互いに決して相容れぬ敵として対峙しながら、事ここに至って、彼らは敵意と憎悪だけで繋がる関係性ではなかった。
人の臨界を極めし男と、剣と魔法を極めし男。
共に頂に立った者だからこそ、善悪を越えて何かを追究した
――善も悪も、時代や立場が変われば容易く反転する。意味付けなど後からできる。ならば、その生き様だけは認めよう、マーカス・ハーディよ……
美剣士の決然たる横顔は、見る者にそう語りかけるようであった。
「憐みの一切を、私は受け付けない。たとえ私が死のうと、シ民ごとシティが滅びようと――その亡骸と瓦礫の上に、真の楽園が打ち立てられる。人類再興……正しき営みが再び紡がれるのだ。私は成し遂げたのだ!」
負け惜しみでも、自己陶酔でもなかった。
マーカスはただ、己の成し遂げた事の意味を正確に理解したに過ぎない。
それは生命であれば当たり前の、しかし人間は一度放棄しかけた使命――次代へ種のバトンを繋ぐ。
今の人類が死に絶えようと、今度こそ、正しさを宿した人類が生まれ落ちる。『エデン』という神に導かれ、人間は失った楽園に帰還する――
それを為したのは最後の旧き人、マーカス・ハーディなのだ。
「フン……ビカム、リン・ツカモト。この私を敗北せしめた褒美だ、タワーにある私の資産も情報もくれてやる」
好きにするがいい――言うべき事は全て言い終えたと、それ以上マーカスが二人に語りかける気配はなかった。
美剣士は、最後の言葉を探すように一瞬の沈黙へ身をゆだねた。
「(……それならば、マーカス・ハーディよ)然《さ》らば、マーカス・ハーディよ……(リン殿に振る舞ったというフルコースのレシピを教えて――)」
――さらば、マーカス・ハーディよ……。
「……グ……ガ……ッ‼」
ビカムが別れの言葉を手向けた直後、それが合図かのようにマーカスは膝を突き、紅刀の刺突を受けてさえ上げなかった苦悶の声を漏らした。
――手ずから生命の保証を終わらせると宣言したとおり、『エデン』はマーカスの体内にある全ての完全臓器の稼働を停止させた。
万が一に備えて日頃から完全臓器のモニタリングを任せていたことがあだとなった。アクセス権を得ていた『エデン』はマイクロ秒単位でハッキングを完了させると、生命維持装置の電源を落としたのだ。『エデン』による最初の殺人行為だった。
脳以外の全ての臓器が止まる――その感覚、その苦しみは想像すらできない。
だが……マーカス・ハーディは見苦しくのたうち回ることなく、今までシティを背負ってきた強靭な精神力で立ち続けた。
その立ち姿はまるで――世界を支える柱のように、大地を包み込む世界樹のごとく。
その生涯に、一瞬の怠惰も無く。
王にも英雄にもなれる才を、人間のために使い切った。
「ああ……人類の、永遠、の……繁……栄…………」
未来を見据えるように目を見開いたまま、マーカス・ハーディの生命活動は停止した。
絶滅に瀕した人類を導き、その礎を再び築いた男だった。
「……(レシピを教えてくれる前に急に死んだ……)」
「た、立ったまま……なんて奴なの……」
リンにとっては父を弄び、母を質に取り、故郷を滅ぼそうとした憎い敵……それは間違いない。
だが、私欲や悪意ではなく、理想と未来のために殉じた男でもあった。
サムライの、いや、武人としてのリンの魂がそれだけは認めねばならないと叫んでいたのだ……。
巨敵、バルキロアCEO、マーカス・ハーディは死んだ。
しかし――事態は終結を見たわけではない。
――ズゥゥゥンンンッ……!
再度、強震がシティを襲った。
『〝テラ・イーター〟稼働開始。計画範囲の破砕完了まで、残り二時間三十八分』
――二時間三十八分。
それがビカムとリンに……いや、
シティとジャンク・タウンに住まう全ての住民に残された時間だった。