玄関を開けた先の自宅の廊下、夕暮れの橙が窓から差し込む。
その光は、○○が違和感を察知するには十分な澱んだ雰囲気を漂わせていた。
──誰かが、いる。
彼の意識がそう結論付けた時、代謝が活発になり汗が毛穴という毛穴から噴き出す。
不法侵入者に対する強いストレスが、○○の体へ危険信号を送っている。
しかし○○はどうにかして落ち着こうと、なるべく音を立てずに、不法侵入者へ帰ってきたことを悟らせないよう静かに台所へと向かう。
自宅である筈の空間が一気に戦場へと様変わりした、そんな緊張感の中台所へと辿り着く。
冷蔵庫を開け500mlの天然水ペットボトルを開栓し、失った分を詰め込むようにその中身を口へ流し込む。
半分より少なめのところで「ぷはぁ」とペットボトルを少し垂直にし、自分の体の様子を分析する。
ストレスによって熱っていた体温が少し下がり、汗も引き、そして視界が広がるのを体感した。
ある程度調子を取り戻した○○は、自宅に充満する誰かの気配を探ろうと台所からつながっているリビングへと足を運ぶ。
リビングには機能性しか求めていない家具や拘りのない、必要最低限の家具の配置。
──そして、ソファにはそんなインテリアから浮いている、道化師を思わせるような帽子の女性が我が物顔で寛いでいた。
「おかえりなさい、愛しの君」
引き締まった脚部に黒のフットカバーを履いた彼女の足は○○を求めるためにソファから立ち上がり、上半身は腕を広げ包み込んであげようという慈愛が表情と相まって、○○の脳内へ危険信号として送られる。
『逃げろ』
そう判断を下したのは、彼女の腕の中に包み込まれてからだった。
彼女の動きは俊敏であり、○○が逃亡しようと体を後ろへと向き走ろうと一歩を踏み出す直前で捉えられてしまう。
自分が捕まったと未だ受け入れきれない○○をよそに、彼女は耳元で囁く。
「ああ、やっと捕まえましたわ。貴方のことを学校で見掛けてから、『愛しのマルグリートよりも先に保護をしてあげないと……』と、ずぅ──っと思ってましたの」
早い話が一目惚れである。
○○にとっての彼女は、美しさのあまりに内面を覗こうとしたら悍ましい怨嗟が聞こえてくるような、薔薇の棘と例えるには鋭利すぎるものを秘めている先輩として少し距離を置いてきた。
だが、それが逆に彼女の独占欲を刺激する結果となり、今日の強硬手段として愛が表面に現れてしまう。
先輩の"愛"は、○○のような一般人が触れることは毒に侵されるのと同義。
愛に精神的にも肉体的にも蝕まれながらも○○は、その愛の主である先輩に対して未だに逃走本能が脳内で警報のように響く。
それを無意識に体へ抵抗という形で出力された時、彼女は慈愛の表情を少し濁らせつつ腕へ力を込め始める。
○○は圧迫感に少し苦しみながらも、彼女は意に介さず更に語り続けた。
「ああ、なんと哀れな○○なんでしょう……悪魔によって自らの意思に関係なく偽りの見滝原へと迷い込み、別の世界という自覚すらもなく今の暮らしを享受しているのですから……」
『悪魔』『偽りの見滝原』。
街が丸々一つ巻き込まれている規模で何かが起こっている、という意味しか汲み取れない、ただの学生である○○は先輩の言葉を聞き更に困惑を深めた。
しかし先輩は疑問を投げかける主導権を譲ることすらせず、言葉を紡ぐ。
「でも、そんな生活はもう終わり。これからは私が、いえ、私達が貴方のことを悪魔からお守りしますわ。勿論、この偽りの見滝原から現実世界へと戻すことも約束しましょう。まず手始めに、○○の家を敷地ごと私達の拠点とさせていただきましょう」
先輩は○○を抱える体勢から水のように切り替えて○○の右腕を掴み、華奢な腕からは想像もつかない程の力を用いてベランダの窓際へ連れる。
そして窓越しのそこには、見滝原中学校の制服を着た見慣れない二人が、視線を○○へ向けながら今か今かと指を動かしながら立っていた。
一人は黄緑色の頭髪で、後ろに髪を纏めた眼鏡の子。眼鏡越しに見える黄金色の瞳は、唯ならぬ覚悟と寂しさを瞳孔の中に閉じ込めている。
もう一人はガーディガンを着込んだ、赤みがかった金髪で受話器のような形のツインテール。一見朗らかな子だが、しかし彼女の落ち着きがない所作を観察すると、仄暗い本心が針の先のように彼の肌を滑るように撫でる。
「ごめんなさい二人共、いま鍵を開けますから」
しかし、ツインテールの子が両手を高速で振った大丈夫のジェスチャーで先輩へ意思を伝える。
「セルマが開けるのー!」
セルマと名乗った彼女は、窓の隙間から裁縫の糸のような物を自在に操り、施錠されていた窓の鍵を開けた瞬間に窓を勢いよく音を立てながら開け、スキップで○○の家の床に着地をする。
「あたしセルマ! セルマ・テレーゼ! ○○を守る為に今日から頑張るんだよー!」
活発な挨拶と○○への好意のジェスチャーをするセルマとは対照的に、黄緑色の髪の子はセルマのも含めたローファーを窓先で揃えた後に○○のリビングへと踏みしめる。その時の彼女の表情は少し恍惚としており、足裏全体で彼の生きた痕跡を貪ろうとしていたのを○○は見逃さなかった。
その視線に気がついた彼女は我に帰り、咳払いをしてから何事もなかったかのようにセルマへと行儀の悪さの指摘と自己紹介を始める。
「セルマ、私たちは○○と会うのは始めてなんだよ? 礼儀ってのを示さないといけないと思うんだけど……ああ、ごめんね? 私は紫丁香。セルマとその女と一緒に悪魔から本当の見滝原を取り戻す活動をしているんだ」
丁香の言う通り、行儀悪くカーテンにくるまって遊んでいたセルマは丁香の発言の嘘を暴露した。
「丁香ちゃんのウソつきー、本当はセルマから隠れつつもセルマと一緒に○○のことをずっと見てたの、分かってたんだからね?」
二重尾行がバラされた丁香は赤面してセルマへ声を荒げるも、セルマは聞く耳を持たずにして○○へ駆け寄り好意を向け始める。
「あたしね! 守るだけじゃなくて、○○の役に立つことをい──っぱいしたいの! だから、『何かが欲しい!』とか、『セルマと遊びたいー!』ってなったら、遠慮なくセルマに頼んでね?」
話を聞かないセルマにため息をつきながらも、丁香は○○に近づき誓いをする。
「……まあ、セルマの言う通り、私たちは悪魔退治を兼ねて○○を守ることに決めたんだ。勝手で悪いんだけどさ……でも、こうでもしないと○○は私たちの前から消えてなくなる、って思うと……」
丁香の目が少し潤む。○○は彼女の仄暗い言動から何か対人関係で苦労をしてきたのだろうと察し、どう返答していいのか分からずに俯いた。
突如として先輩が今まで掴んだ○○の腕を離し、丁香やセルマに合図をして彼の前へと移動。
蒸発しそうな視線を○○へ送りつつ一斉に口火を切る。
「そういうことなので、○○は私たちの愛を一身にして受け止めてくださいな?」
「もうセルマ達からは逃げられないんだからね!」
「観念してくれる?」
○○は腰をひきながらも、四つん這いの姿勢で哀れにも逃亡を図ろうとする。
しかしセルマが針を生成し、○○の影へと刺す。
すると○○の動きが止まり、力が抜け地面に伏す。
そして先輩は懐から半分以上折れた剣を取り出して天に掲げると、○○の家を囲んでいるビルが漆黒の塊へと変化し、更にその塊が幾何学的な変化をしながら家周辺を囲んでいく。
外からの明かりが全く入ってこなくなり、家の自動照明が部屋中を照らした。
いきなり明るくなったため反射的に○○は目を閉じつつも、地面に伏いつくばった顔の向きは先輩達に向けられている。
対して彼女達の表情は、玩具を得たかのような好奇心と愛らしい動物へ向けるような庇護心が同時に現れていつつ、瞳にはただ○○という唯一の存在を写していた。
「外では今、私が○○の家を孤立させようと色々仕込んでおきました。ああ……っ! これで私たちだけが○○を守れるのですね……!」
「これからセルマ達が家のことずぇ──んぶ、全部やってあげるから! だから……○○はセルマ達以外の女の子は考えなくていいんだよ?」
「○○はただ、私たちのそばにいてくれればいい。もし離れようとしたら……どうなるか分からないよ?」
三者三様の狂気の愛。
今宵の魔女の宴は、始まったばかりである。