雲が、揺れている。
暴れ河で知られる黄河も、今は静かに流れていた。その静かで、黄色い河の水を軽快に切り裂きながら、船は滑るように進んでいた。
梁山泊が建造した高速艇「疾風」である。
目的地は沙門島。張朔と黄河流域の交易について話し合うためだ。決められた刻限には、まだだいぶ余裕がある。黄河を進む疾風のわずかな揺れ、これもまた心地よかった。
忍び家業から足を洗って早五年、まさかこんな穏やかな日々が訪れるなど、想像もしていなかった。昨年大きな戦があった割に物流は安定し、民も安堵あんどの顔を浮かべている。
ただひとつ、気になっていることがあった。
「風玄殿、またあの船です」
部下がそう声をかけてきた。風玄は上体を起こすと、部下が指さした方に目を向けた。
小型船を一回り大きくした輸送船。やはり見たことがない型だ。同じ型の船を、今日だけで四艘、追い抜いてきた。
いまこの中華で、造船の技術を持っているのは、南宋と梁山泊だけで、あとは漁師が使う小さな漁船があるくらいだ。あの規模の船を建造できる技術が、他にあるとも思えない。
「まさか、金国の船でしょうか?」
風玄はその可能性も考えた。だが、今まで金国が船を建造した歴史はない。技術というものは、一朝一夕で発展するものではないのだ。
「しかも喫水から、かなりの重量を積んでいるように見えますね」
風玄は頷いた。この船の目撃例は、半年ほど前からあった。風玄は気になって部下に追跡を命じたが、五丈河を下ったあたりでいつも見失うようだ。時には軍の哨戒の船に遮られたりもする。風玄が今回疾風に乗ったのは、この船を実際に見るためでもあった。
「やはり、金軍が絡からんでいるのか」
風玄は呟つぶやいた。黄河流域の物流で、風玄が把握していない輸送船はない。それは轟交賈に入って五年、黄河流域の物流を徹底的に頭に叩き込んだからだ。
「一応、殿には知らせておくか」
風玄は船尾楼に入り書付を記すと、籠から一羽の鳩を取り出した。そしてその脚に書付を括り付けると、空に放った。鳩は元気に飛び立ち、空へと消えて行った。
この鳩による通信も、梁山泊からもたらされたものだ。わざわざ城郭に戻らなくても通信ができるので重宝している。ただ、猛禽類に襲われる可能性もあるので、風玄は同じ書付をもう二羽分、空に放った。
風玄の今の主、簫炫材は轟交賈を設立、金国の物流に多大な貢献をしていた。だが五年前、丞相の撻懶が病没すると、側近の一人、魯逸が簫炫材を懐柔しようとした。簫炫材がそれを突っぱねると、魯逸は簫炫材を捕縛ほばく、亡き者にしようとした。
そのやり方に憤慨した風玄は、監禁されていた簫炫材を救出、脱出を試みた。風玄は追手の矢を腿に受け、身動きできなくなったところを、梁山泊致死軍の候真に助けられ、ふたりは事なきを得た。その時、魯逸は候真によって討たれた。
その時の矢傷が元で、風玄は忍びを引退することになった。ただ時も経たち、傷も少しずつ癒え、駆けることこそできないが、日常での不自由は、今はなかった。
簫炫材はその後、深思の末、轟交賈の解散を宣言、輸送隊は各地の商人に移譲されることとなった。
しかし、轟交賈がなくなったわけではなかった。風玄をはじめとした轟交賈の主だった者には簫炫材からの指示が届き、各自が独立した商人として活動を始めたのだ。
それ以来、簫炫材には会っていない。それどころか、その名はおろか、轟交賈の名を口にすることも固く禁じられた。
つまり轟交賈は、闇に消えたのだ。
主あるじ、簫炫材が何をしようとしているのかは、わからない。ただ、梁山泊が深くかかわっていることは確かだ。梁山泊は先年の金国との戦の後、解体された。人々は、梁山泊が戦の疲弊から、国を維持できなくなったのだと噂うわさしたが、風玄はそうは思っていなかった。梁山泊の交易路は今も営々と続いている。これが、梁山泊が消えていない何よりの証左だ。
風玄が最も大切にしているのは、信義だった。撻懶には信義があった。しかし今の金国にはそれがない。
そして轟交賈と梁山泊が、強固な信義によって結ばれているのを感じる。風玄はその信義がこれから何をもたらすのかを、この目で見たかった。
また、あの船を一艘、追い抜いた。