あるかなきかの気配で、張朔は目を覚ました。
黎明には少し間があるようだ。張朔は静かに剣を腰に佩き、飛礫の袋を腰にぶら下げた。数は三つ。いつもは五つ入れていたが昨日兎をとったときに、二つ使ってしまっていた。
飛礫と言っても、なんでもいいわけではない。拳よりもやや小ぶりで、握りやすいものが一番威力があった。
「宣凱、起きろ」
張朔は声をかけた。宣凱も気配を感じたのか、日本刀に手を掛けた。
「刺客か?」
「いや、気配は一つだ。しかもこちらを窺ってはいるが、気配は隠そうとしていない。けものかもしれない」
焚火は夜通し焚いていたが、今は燠になっている。張朔は咄嗟に薪を足した。そして辺りを見渡す。しかしまだ薄暗く、はっきりと様子はわからない
「宣凱、焚火の後ろへまわれ。けものなら火を恐れるはずだ」
宣凱が退がる。張朔は気配の正体が、けものだと確信していた。しかも禍々しい。
張朔は飛礫を一つ、拳に握った。その途端、額から汗が噴き出してきた。
足した薪が燃え盛り、周りを明るく照らしたが、その先の闇は、一層濃く感じられた。
炎が照らした先の木陰から、黒く丸いものが姿を現した。それは一見愛嬌に満ちたものに見えた。ただ、巨大だった。
それがのそりのそりと張朔に向かってくる。張朔は、静かに焚火の後ろに退がった。宣凱はさらに退がって日本刀を抜いている。構えてはいるが腰が引け、明らかに動揺しているようだ。
「怖がるな、宣凱。なるべく焚火を大きくしている」
幸い薪はまだたっぷり残っている。しかし背後は崖だった。眺望のいい場所に幕を張ったことを、いささか後悔した。
黒く丸いものは、低い唸りを上げながら立ち上がり、吠えた。熊。その背丈は遥か張朔を越え、巨大さは張朔を圧倒した。張朔は奥歯が震え、かたかた音が鳴るのを感じた。
「昨夜焼いた、兎の肉の匂いにつられたか」
張朔は気持ちを落ち着かせるために、あえて大きな声を出していった。そして自分には飛礫も剣もある。そう自分に言い聞かせた。
突然だった。熊が張朔に向かって走り出した。とてつもない速さだ。焚火の火など歯牙にもかけず突進してきた。
張朔は咄嗟に飛礫を打った。それは熊の肩に当たったが、軽く弾かれて地に転がった。すかさず剣を抜くが間に合わない。熊が張朔の身体にぶつかる勢いを利用して、後ろに跳んだ。転がりながら立ち上がり、間合いを取って剣を構える。
熊は、そのまま宣凱に向かって駆けだした。
「まずい」
宣凱の脚では避けられない。張朔は飛礫を握るも、動く熊に狙いが定まらない。宣凱は日本刀を構えている。意外に落ち着いているように見えた。
熊が宣凱に飛びかかる。宣凱は日本刀を斬り上げようとしたが、熊の動きに合わせられずそのまま押し倒された。
熊が興奮気味に暴れ、右手で宣凱の顔を嬲なぶった。鮮血が噴き出すのが、はっきり見えた。熊が口を開けて、宣凱の喉に喰らいつこうとする。
「くそ」
張朔は飛礫を打った。それは熊の側頭部に命中し、少し横にのけぞった。
張朔はすかさず突っ込み、熊の頭めがけて剣を突き出す。剣は肩に突き立ったが、厚い肉に阻まれ、ほとんど傷を負わせていなかった。それでも熊は少し退って宣凱から離れた。
「そら、立て」
張朔は宣凱を引き起こした。頬に傷を負っているが、意識ははっきりしている様だ。宣凱は日本刀を拾って構えた。息は荒く、脚は震えている。
「息を吸え、宣凱」
宣凱は数度、大きく息をした。次第に肩の力が抜けていくのが分かった。熊は低い唸りを上げ、こちらの隙を窺っている。完全に怒らせた、張朔にはそう見えた。
「どうしたものか。あと、飛礫一つ」
当たった飛礫はどれも、人であれば骨が砕けるほどに、力を込めたつもりだった。
渾身の力で打ち、頭部に当たれば、倒せる自信はある。しかし襲ってくる熊の頭部に当てられるだろうか、次で倒せなければ、武器は無くなる。熊の躰がひときわ大きく見えた。
「俺たち、ここで熊に食われるのかな」
張朔は言った。