胡の地より   作:遼心

106 / 113
軍議も終え、食事を済ませた張朔と宣凱は、幕の中で眠りについていた。夜明けまではまだ間があったが、張朔はかすかな気配を感じ、目を覚ました。


第百五話 黒きけもの

 あるかなきかの気配で、張朔は目を覚ました。

 黎明には少し間があるようだ。張朔は静かに剣を腰に佩き、飛礫の袋を腰にぶら下げた。数は三つ。いつもは五つ入れていたが昨日兎をとったときに、二つ使ってしまっていた。

 飛礫と言っても、なんでもいいわけではない。拳よりもやや小ぶりで、握りやすいものが一番威力があった。

「宣凱、起きろ」

 張朔は声をかけた。宣凱も気配を感じたのか、日本刀に手を掛けた。

「刺客か?」

「いや、気配は一つだ。しかもこちらを窺ってはいるが、気配は隠そうとしていない。けものかもしれない」

 焚火は夜通し焚いていたが、今は燠になっている。張朔は咄嗟に薪を足した。そして辺りを見渡す。しかしまだ薄暗く、はっきりと様子はわからない

「宣凱、焚火の後ろへまわれ。けものなら火を恐れるはずだ」

 宣凱が退がる。張朔は気配の正体が、けものだと確信していた。しかも禍々しい。

 張朔は飛礫を一つ、拳に握った。その途端、額から汗が噴き出してきた。

 足した薪が燃え盛り、周りを明るく照らしたが、その先の闇は、一層濃く感じられた。

 炎が照らした先の木陰から、黒く丸いものが姿を現した。それは一見愛嬌に満ちたものに見えた。ただ、巨大だった。

 それがのそりのそりと張朔に向かってくる。張朔は、静かに焚火の後ろに退がった。宣凱はさらに退がって日本刀を抜いている。構えてはいるが腰が引け、明らかに動揺しているようだ。

「怖がるな、宣凱。なるべく焚火を大きくしている」

 幸い薪はまだたっぷり残っている。しかし背後は崖だった。眺望のいい場所に幕を張ったことを、いささか後悔した。

 黒く丸いものは、低い唸りを上げながら立ち上がり、吠えた。熊。その背丈は遥か張朔を越え、巨大さは張朔を圧倒した。張朔は奥歯が震え、かたかた音が鳴るのを感じた。

「昨夜焼いた、兎の肉の匂いにつられたか」

 張朔は気持ちを落ち着かせるために、あえて大きな声を出していった。そして自分には飛礫も剣もある。そう自分に言い聞かせた。

 突然だった。熊が張朔に向かって走り出した。とてつもない速さだ。焚火の火など歯牙にもかけず突進してきた。

 張朔は咄嗟に飛礫を打った。それは熊の肩に当たったが、軽く弾かれて地に転がった。すかさず剣を抜くが間に合わない。熊が張朔の身体にぶつかる勢いを利用して、後ろに跳んだ。転がりながら立ち上がり、間合いを取って剣を構える。

 熊は、そのまま宣凱に向かって駆けだした。

「まずい」

 宣凱の脚では避けられない。張朔は飛礫を握るも、動く熊に狙いが定まらない。宣凱は日本刀を構えている。意外に落ち着いているように見えた。

 熊が宣凱に飛びかかる。宣凱は日本刀を斬り上げようとしたが、熊の動きに合わせられずそのまま押し倒された。

 熊が興奮気味に暴れ、右手で宣凱の顔を嬲なぶった。鮮血が噴き出すのが、はっきり見えた。熊が口を開けて、宣凱の喉に喰らいつこうとする。

「くそ」

 張朔は飛礫を打った。それは熊の側頭部に命中し、少し横にのけぞった。

 張朔はすかさず突っ込み、熊の頭めがけて剣を突き出す。剣は肩に突き立ったが、厚い肉に阻まれ、ほとんど傷を負わせていなかった。それでも熊は少し退って宣凱から離れた。

「そら、立て」

 張朔は宣凱を引き起こした。頬に傷を負っているが、意識ははっきりしている様だ。宣凱は日本刀を拾って構えた。息は荒く、脚は震えている。

「息を吸え、宣凱」

 宣凱は数度、大きく息をした。次第に肩の力が抜けていくのが分かった。熊は低い唸りを上げ、こちらの隙を窺っている。完全に怒らせた、張朔にはそう見えた。

「どうしたものか。あと、飛礫一つ」

 当たった飛礫はどれも、人であれば骨が砕けるほどに、力を込めたつもりだった。

 渾身の力で打ち、頭部に当たれば、倒せる自信はある。しかし襲ってくる熊の頭部に当てられるだろうか、次で倒せなければ、武器は無くなる。熊の躰がひときわ大きく見えた。

「俺たち、ここで熊に食われるのかな」

 張朔は言った。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。