「いままで散々けものの肉を食ってきたんだ。ここで熊に食われるのも、自然の理といえるのではないか」
宣凱の言葉は、意外と落ち着いていた。
「なら、諦めて食われるか?」
「いや、俺たちにはまだ武器がある。食われまいと戦うのは、けものも同じだ」
宣凱と話していると、不思議と張朔も落ち着いてきた。しかし打つ手は見えない。
不意に、宣凱が張朔の肩に手を置き、張朔を横に退けた。なにやらぶつぶつ呟いている。
「おい」
「どけよ、張朔。お前が邪魔で日本刀が振れない」
「しかし」
「奴は手負いで脚の不自由な俺を狙う。お前は横にいろ。また倒されたら、頼む」
宣凱の眼が、怪しく光っている。その眼に圧倒され、張朔は何も言えず、ゆっくり横に退いた。
自分を、斬る。よく聞こえなかったが、宣凱がそう呟いたような気がした。
宣凱が左脚を前に出し、日本刀を低く構えた。
熊はゆっくり宣凱に近づき、雄叫びを上げ駆け出した。宣凱の構えがさらに低くなった。
宣凱が、左脚を踏み出すと同時に斬り上げた。遠すぎる、と張朔は思った。熊はのけ反って切っ先を躱した。熊と宣凱の動きが、一瞬止まった。
次の瞬間、熊の気が暴れた。
宣凱は左足を引くと同時に、日本刀を斬り下ろした。斬り下ろす、というよりは静かに日本刀を下に下げた、という感じだった。
熊の右肘から下が、すとんと地に落ちた。宣凱が、ゆっくりと退がった。
時の流れが、張朔にはひどくゆっくりになったように感じた。熊が後退あとずさり尻餅をついて、うめき声を上げながらもがいている。
今だ。張朔は飛礫を打とうとした。
「やめろ、張朔」
宣凱の言葉に、張朔ははっとした。とても宣凱が発した声とは思えない、透き通った声だった。それに宣凱の視線が定まっていない。血を失ったのだろうか。
「策が」
「なに?」
「策が、閃いた」
いつもの宣凱の声だった。眼は張朔を見つめ微笑んでいる。熊は三本の脚でよたよたと遠ざかっていく。張朔はただ、茫然とそれを見ていた。
張朔は着物の襟から針と糸を取り出し、鍋の湯で針を煮た。そしてその針で宣凱の頬の傷を縫っていった。梁山泊の兵は大概、襟に針と糸を仕込んでいる。
「お前、戦場にも出たことないのに、傷だらけだな」
張朔は、冗談を言った。
「昔、武松殿も森で虎に出くわし、拳で打ち倒したらしい」
「梁山泊には、いそうにもない男たちが、たくさんいたものだ」
「俺は初めて、命を懸けて戦う武人たちの気持ちが、すこし分かった気がする。頭だけで考えて理解できることなど、本当はあまり多くないのではないかと思う」
「経験は人を変えると、俺も思う」
「呉用殿も、かつて趙仁と名を偽り方臘の軍師として潜伏した。壮絶なその宗教反乱から生還した呉用殿の判断力、思考力は神がかっていた。岳飛殿が秦檜に謀殺されかけたのを救ったのも、呉用殿の一言があったからだ」
「宣凱も、その境地に足を踏み入れたのか。その策とやらも、楽しみにしているよ」
張朔は、その策をあえて訊こうとはしなかった。宣凱の心の中にあればいいことだ。
「それにしても、これ、食ってみるか?」
張朔が宣凱の頬の傷を縫い終えると、宣凱は落ちた熊の腕を指さして言った。張朔が目を丸くした。
「食い方がわかるのか?」
「いや、でも熊の掌は宮廷料理にも出るほど、美味らしいぞ」
張朔は眉をひそめたが、宣凱は構わず熊の腕を拾って皮を剥ぎ、鍋の湯へ放り込んだ。煮立った腕の肉と肉球を捌いて串に刺し、塩を振りかけて焚火の火にかけた。
「匂いは旨そうだ」
匂いを嗅いで、張朔は食ってみる気になった。
「さあ、焼けたぞ」
宣凱が笑顔で張朔に串を渡した。張朔は肉球をしばらく眺め、口に入れた。
「どうだ?」
張朔が、肉球を呑み込んだ。
「うむ、硬くて臭いな」
宣凱は、なに、と呟いて串をとって食った。眉をひそめて何も言わない。
「宣凱、貴重な経験をしたからと言って、なんでも思い通りになるとは思わない方がいいようだな」
宣凱はしばらく肉を嚙んで、ようやく呑み込んだ。