呼延凌には、一体何が起きているのか分からなかった。
呼延凌が選びに選んだ精鋭五百を、秦容の隊へぶっつけた。
山岳地での遭遇戦の調練で、秦容の隊の動きを完璧に読み切り、背後から襲い掛かった。
しかし何かがおかしかった。秦容の隊は不意を突かれたのにも関わらず、何事もないかのように進んでいく。
そして襲い掛かったはずの呼延凌の隊は、次々と倒れ、息にして三つ、ついに立っている者はいなくなった。秦容に襲い掛かった胡土児(コトジ)を除いて。
胡土児と秦容はその後二刻(一時間)以上、向かい合っていた。胡土児の手には吹毛剣が握られている。秦容が持っているのは調練用の棒だ。
両者の額には大粒の汗が吹き出し、顎から滴っている。
しかし傍で見ている呼延凌の方が、立っているのがやっと、という状態だった。何か別の世界で闘っている、そんな気さえしていた。
「よし、やめだ」
秦容が構えを解いた。胡土児が膝を折る。秦容はそのまま背を向け、営舎へと戻っていった。
「胡土児、お前たちの立ち合いは何なのだ。見ているこっちの方が圧倒されている。それに俺の隊の精鋭五百、一体何が起きたのだ。いまだに信じられん光景だった」
呼延凌は、胡土児に水筒を渡した。胡土児はその水を一息で飲み干し、立ち上がろうとするが、なかなか腰が立たないので、呼延凌は手で制し隣に腰かけた。
「呼延凌殿、俺にも何となくですが分かってきましたよ。王進先生の武、というものが」
「王進殿か、俺はお会いできなかったが、子午山で過ごした梁山泊の将は、他の将とどこか違っていた。どこか達観しているというか、老成しているというか。そしてどこまでも強かった。いろんな意味でな」
「俺も、子午山という場所は想像することしかできませんが、王進先生の性格は、何となくわかる気がします」
「不思議な話だな。それで、王進殿の武とはどんなものなんだ?」
「王進先生の武は、勝ちも負けも、生死すらもないもの、俺にはそんな風に思えました」
「ふむ、軍人には到底理解できないものであろうな。事実、史進殿も含め、皆勝つために戦った。命の限りな」
「王進先生の武は志とは無縁なのでしょう。何かのために戦う、というものでは、きっとないのです」
「そうだ、生死すらない武。秦容の部隊はそんな感じだった。まるで軍はもとより、人なのかどうかも分からない気配だった」
「あらゆる私念を拭い去ったのでしょう。並の鍛錬ではなかったはずです」
呼延凌は、少し考える素振りを見せた。
「やはりわからんな。少なくとも戦に向かう兵には見えん。恐ろしく強いのは認めるが、矛盾の監獄に閉じ込められたようにも感じる」
胡土児は、少し困った顔をした。
「いや、いい。胡土児。お前の言う事も、なんとなくわかる気がする。俺はかつて梁山泊軍の総帥をして戦った。その中で一つだけ、後悔していたことがある」
「呼延凌殿が、後悔ですか?」
「ああ、それは志について、深く考えなかったことだ。いや、志とは何か、という事に関して考えることを放棄した、と言った方がいいかな」
胡土児がまた困った顔をした。それを見て、呼延凌が苦笑した。
「俺は軍人だ。いや、軍人だったというべきか。軍人は戦に勝つことが最大の目的だ。なぜ戦うのか、勝った後どうするのか、そういことは、楊令殿や呉用のような聚義庁の連中が考えればいいことだと思っていた。もちろん梁山泊が世を糺す、という目的のために闘うことは理解していたが、その中身を、俺自身が考えてこなかったのだ」
「俺は、軍人はそうあるべきだと思います。父もそうでした。父は政治につては撻懶(ダラン)殿など、他の者に任せていましたし」
「ではなぜ北宋で腐敗が蔓延し世が乱れ、滅んだのか分かるか。軍人や役人が己の事しか考えずに、我先にと不正に奔ったからだ。梁山泊はそんな世の中を改めるために立ち上がったのだ」
「それでも呼延凌殿は、後悔と言われました」
「そうだ、志を頭で理解していても、その志のためにどう行動し、どう実現すべきかを、考えて実行しなければ、志は無いも同じなのだ」
胡土児が、微かに頷いた。
「俺は梁山泊が消滅したとき、自分が何者か分からなくなった。何のために闘ったのか、何万もの敵や味方の兵を殺して、俺に一体何が残ったのか、答えの出ない問いを、何万回と繰り返すうちに、俺が俺でなくなった」
「そんな」
「そして、気が触れた。俺は軍営を抜けて、山や森を、水も食い物もなしで何日もさ迷い歩いた。いっそ、けものに襲われて食われればいいとも思った」
胡土児は、黙って呼延凌を見つめていた。