胡土児(コトジ)は、弾かれたように駆けだした。『玄』の旗を掲げた巨骨(ここつ)がぴたりと付いてくる。
驚いた蕭尤(しょうゆう)と耶律哥(やりつか)が、後を追ってきた。
「蕭尤、耶律哥、玄旗隊を二つに分けろ。一隊はお前たちが率いて、梁山泊歩兵の援護」
蕭尤が片手を挙げた。玄旗隊が鮮やかに二手に分かれる。
闇の気、いきなり現れた。
丘の向こうの戦闘の気配は、およそ想像通りだった。勝敗を決するとしたら、慎思の騎馬隊の介入だと踏んだ胡土児は、戦場の外に注意を払っていた。
その闇の気が、戦場の真ん中に突如として現れた。
胡土児は嫌な予感を感じ、その闇の気の方へ一直線に駆けた。
丘を越えて、戦況が見えてきた。
敵の重装兵が、総攻撃をかけ前進している。第一隊はそれに呑まれまいと、小さく固まって徐々に後退していた。すでに半数は討たれているだろうか。
胡土児は闇の気を探った。さらに丘の向こう。胡土児は懸命に駆けた。第二隊はすでに壊滅している様だ。三千ほどの倒れた梁山泊兵が、原野に見えた。
「これほどとは」
胡土児は思わず呟いた。最初に闇の気を感じてから、まだ一刻余りでこの惨状だった。
かつて父の率いる金禁軍と、互角の死闘を繰り広げた梁山泊軍を、こうもあっさり潰走させるとは、胡土児の想像を超えていた。
丘を、越えた。
第三隊が前進している。第一隊の援護に向かうようだ。
慎思と闇の騎馬隊は、その第三隊は無視して、高亮の二千騎に向かって疾駆している。速い。高亮はじっと耐えて動かない。
その後ろを呼延凌の二千騎と、秦容の五百騎が追っている。流石に二人とも戦況を正しく判断している。すべての騎馬隊で、慎思と騎馬隊を撃破すれば、そこで勝敗は決まる。 しかし、できるか。
高亮の騎馬隊が、三つに分かれた。二隊は左右に分かれ疾駆する。
一直線に向かってくる、慎思と闇の騎馬隊を横から分断し、正面の隊で先頭を駆ける慎思に攻撃する。見事な采配だった。動き出す間合いも完璧だ。
しかしその采配が的確であるが故、高亮は命を落とすことになる。胡土児はそう直感した。
分かれた二隊が、左右から勢いをつけて闇の騎馬隊に襲い掛かる。
しかしそれは、激流に小石を投げ入れるかのように、慎思の騎馬隊に呑まれていった。
高亮が剣を抜き払った。その姿を見た胡土児は、高亮が死を覚悟した、と思った。
高亮が駆けだす。慎思が大刀を低く構え、迫る。
その時、高亮の馬の目の前に、矢が突き立った。高亮の馬が棹立ちになる。
慎思の大刀が光る。高亮の馬が頭から両断され、高亮は地に落ちた。慎思が左に進路を変え、駆け抜ける。高亮の騎馬隊は、高亮を守るように周りを固めた。闇の騎馬隊は慎思を追いかけるように、反れて駆けていく。
矢を放ったのは、呼延凌だった。呼延凌は一騎で先行し、率いていた二千騎はやや後方から追いかけている。
呼延凌が二射目を放つ。矢は正確に慎思の背後を襲うが、大刀がひらりと舞うと、矢は力なく地に落ちた。
呼延凌は雄叫びを上げ、慎思を追っていた闇の騎馬隊に単騎で突っ込んでいく。呼延凌の気に気圧されたのか、闇の騎馬隊は乱れ、慎思とやや距離が空いた。呼延凌の二千騎も闇の騎馬隊に突っ込んでいく。
胡土児は内腿に力を込め、馬に意思を伝えた。吹毛剣を抜く。
単騎になった慎思のゆく手に、迂回してきた秦容が迫る。その右手には、托塔剣が煌めいている。
秦容と慎思が馳せ違う。胡土児の眼に、鮮血が映った。
その気のぶつかり合いに弾かれたのか、両者の馬が一度棹立ちになり、一瞬その動きが止まった。その場所に、胡土児は突っ込んだ。慎思。目が合った。
吹毛剣。何も考えなかった。ただ、放った。
頬に、草の感触。
胡土児は跳ね起きた。一瞬気を失っていたようだ。吹毛剣、右手に握っている。
すぐそばで、秦容が馬上でうつぶせになっている。
慎思。馬上から、じっと胡土児を見つめている。顔に深く刻まれた皴と、真っ白な髭。少し青みがかった眼。そして、慎思が右手に持つ大刀が、やたら眩しかった。慎思の馬が興奮しているのか、前足で地面を掻き、首を上下に揺すっている。
慎思はゆっくり馬を返すと、何も言わず、駆け去っていった。