かつて兀朮(ウジュ)と戦をしたときは、確かな高揚感があった。武人として、ここが自分の命を燃やす場所だという想いで、馬腹を蹴っていた。
しかし闇の騎馬隊に突っ込むときは、死の恐怖が呼延凌を襲った。それは戦場で感じる、初めての感情だった。
その恐怖を気迫で押しのけ、力の限り七星鞭を振るった。命は繋いだが、味方の犠牲の上でのものだ。
「呼延凌将軍、ここは一旦退くべきです」
力ない声が背後からかけられた。振り返るとそこにいたのは、板に乗せられた高亮だった。
「高亮、幕舎に戻れ。傷は軽くない」
「いえ、将軍、これだけは伝えるべきだと思い、兵に無理を言いました。あの騎馬隊にまともにぶつかるべきではありません。臆病風に吹かれて言うのではありません。あの軍はどこか、人から外れた気を持っているように感じるのです。俺は」
言いかけた高亮が、苦しそうに顔を歪めた。
「もうよい、休め、高亮」
呼延凌は兵士に行け、というように顎で合図した。兵士が丁寧に板を返し歩いていく。
高亮ほどの勇者が、為すすべなく重傷を負った。この、かつてない事態に自分は冷静になれていないのではないのか。呼延凌はふと、そう思った。
呼延凌は討たれていく、三千の部隊を思い浮かべた。あの地獄のような戦場に、再び味方の軍を巻き込もうとしているのか。
しかし七星鞭を握る手には、闘気がたぎり、今にも駆けだしそうになる自分がいるのも、また確かなことだった。
この七星鞭は父、呼延灼(こえんしゃく)から受け継いだものだ。父は双鞭とあだ名され、二本の鞭を振るい、戦場では無双だった。しかし老いと共に、思うように振るえなくなり、やむなく鑢で削り、軽くしていった。
父は梁山泊に入山した際、母と別れており、呼延凌は母の穆姓を名乗っていたが、父が梁山泊の将軍であるという事を、誇りに思っていた。若き日の穆凌は、洞宮山を旅していたところを李俊に拾われ、そのまま入山した。
李俊に、経歴は偽るな、といわれた穆凌は、素直に呼延灼の息子だと言った。梁山泊はそのことでちょっとした騒動になったが、穆凌はわずかな期間でその力量を認められ、上級将校として史進が率いる遊撃隊に配属になった。
父は穆凌の入山を、決して認めようとはしなかった。それは厳しさからくるものではなく、自分が家族を捨てて入山した身であり、穆凌を息子として扱う資格は無いと思っていたことを、後になって知った。
穆凌は父に認められようと、懸命に戦場を駆けた。
戦は楊令と童貫の決戦の前哨戦で、父はどうしても童貫の腹心、趙安を討たなければならなかった。
穆凌は千載一遇の機会を得、趙安を討ちとることに成功したが、そのために単騎で駆け抜けた穆凌を、五千騎の趙安軍が襲い掛かった。
その五千騎を、たった一騎で食い止めたのが、父だった。穆凌が趙安を追っているのを見て、咄嗟に駆けだしたのだという。
必死で駆ける穆凌が、そのことに気付き、慌てて馬を返した穆凌が見たものは、死域で戦い続け、まさに力尽きようとする父の姿だった。五千騎は、父と、駆け付けた史進の赤騎兵が撃退していた。
父は穆凌に七星鞭を託し、呼延凌と名乗れ、と言い残して、力尽きた。
呼延凌は託された父の双鞭を打ち直して、一本の鞭とした。その鞭には七つの穴が穿うがってあり、振ると冬の木枯らしのような音がした。その音が気に入り、その鞭を七星鞭と名付け、自らのあだ名にもなった。
七星鞭は今もなお、父の気が宿り、輝いている。そして呼延凌は、父が戦死した年齢に差し掛かっていた。
「宣凱からだと?」
駆け寄ってきた一騎が、書簡を呼延凌に差し出した。兵士ではないようだ。
呼延凌は書簡を開いた。
涙を飲み、十里後退されたし。
呼延凌は、その書簡を握り潰すと馬に乗り、陣に向かった。兵士達のところに行こう、そう思った。