目が覚めた時、陽は暮れようとしていた。いつの間にか、幕舎の寝台に寝かされていたようだ。幕舎の中に、すでに灯が入れられている。
慎思はゆっくり身体を起こし、寝台に腰かけると、すこし身体を動かした。怪我はしていないようだが、動きがあまりよくない。全身の気が凝り固まって、巡りが悪くなっている。
「大殿、お目覚めですか。入ります」
気配を察した婁薛(ろせつ)が、声をかけて入ってきた。
「梁山泊軍は?」
「十里後退してから今のところ、動きはありません。即応の態勢はとっています」
慎思は微かに頷いた。
「婁薛、湯を頼む」
婁薛は外の兵士に声をかけると、すぐに湯が出された。あらかじめ用意されていたのだろう。慎思は湯を少し飲むと、一息ついた。
「六刻以上も、意識がなかったというのか。儂も老いたようじゃのう」
「驚きましたよ。帰隊された瞬間、意識を失われたので。お怪我はないようでしたし、脈も正常だったので、安心しました」
死域に入っていた。秦容と馳せ違った後、若武者の突撃を受けた。その一撃を弾き返した瞬間にすべてが破れた、という気がする。
一瞬意識を飛ばした若武者がすぐに跳ね起き、慎思を見つめた時、慎思は大刀を持ち上げる事すらできなくなっていた。決して大刀を落とすまいと、馬を返したのだ。
しかしあの若武者、まさか胡土児(コトジ)ではないだろうが、傍に控えていた巨躯が掲げていた旗は『玄』の旗だった。
もしあれが胡土児なら、慎思の知っている胡土児とは、かけ離れた存在だった。
胡土児が、これまで金国の将校として参戦した戦は、すべての記録に目を通してあった。兀朮(ウジュ)の懐刀として、各地を転戦している。
史進の赤騎兵に果敢に突撃するなど、勇敢な面もあるが、その分犠牲も多く出している。騎馬隊の指揮官としての力量は、並より少し上、といったところだろう。
胡土児は兀朮が戦死すると、あっさり軍を抜け、蒙古の地に姿を消したところを見ると、あまり軍というところが合わず、兀朮の後継を狙うという、気概もない男だと思っていた。
どうしても先程の若武者と、胡土児が重ならない。
ただ一つ、気になる噂があった。
胡土児が楊令の遺児として、吹毛剣を受け継いだという。
吹毛剣とは宋建国の雄、楊業(ようぎょう)が使っていたという剣で、刃先にふっと吹きかけた毛が二つに斬れるほどの切れ味だという。吹毛剣に込められた念があまりに大きかったため、吹毛剣を打ち終えた鍛冶は、その場で絶命したという。
その剣を、楊令は生涯佩いていた。
しかしいかなる業物(わざもの)も、使い手の力量が伴わなければ、得物の放つ気に飲まれ、身を滅ぼす。生半可な武術では、吹毛剣はまともに扱えないだろう。
その点、秦容は素晴らしい剣を手に入れたようだ。その剣筋に、ひやりとするものがあった。
慎思は冷めた湯を、一息に飲み干した。
「大殿、梁山泊軍を追撃しましょう。わが軍の士気は、この上なく高まっています。なにせあの梁山泊軍を、後退させたのでしたから」
婁薛が少し興奮気味に言った。
「鷹羽衆(おううしゅう)の報告は?」
「周囲二十里に軍の姿はありません。ただ南西十五里を輜重隊二十輌が北上していました。荷を確認しましたが穀物でしたし、南宋の通行許可証も持っておりました」
「ふむ」
慎思は少し考えた。麾下を重装兵に潜ませる手はもう使えないし、その力量を把握されてもいる。梁山泊が策を講じる前に叩くか、それとも後退させたのを良しとし、一旦寿春に退き様子を見るか。
しかし我々は阿列の後詰で、いつでも動ける状態にしておきたい。梁山泊軍がいる限り動きが取れないのも事実だった。
「よし、明日黎明に進軍開始じゃ」
婁薛が弾かれたように直立して、命令を復唱した。そして立ち去ろうとした時、その動きが止まった。
「誰か、来ます」
慎思もその気配を感じた。慎思はゆっくり立ち上がり、大刀を腰に佩いた。おそらく一人だったので、部下は誰一人、その者の歩みを咎めなかったのだろう。
「大切な客人じゃ、丁重に迎えよう」
慎思は幕舎から出た。身体はもう元に戻っている。