胡の地より   作:遼心

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慎思は来訪を感じ取った。そして幕舎を出ると、見事な気を放つ男が一人、篝の日に照らされ浮かび上がってきた。


第百四十一話 一人の男として

 見事な汗血馬に乗ったその男は、幕舎から出てきた慎思を認めると、ゆっくりと馬から降りた。全身から迸る、見事な気を放っている。

 陽が、暮れた。部下が篝を置き、何も言わず去っていく。篝の炎に照らされた男の顔が、一層濃く浮かび上がってきた。

「単騎での来訪、歓迎する。呼延凌将軍」

 呼延凌はじっと、慎思を見据えてきた。

「黙っとらんと、要件を言ったらどうじゃ」

「耶律慎思殿。手合わせを、願いたい」

 その声は低く、重みがあった。

「ふむ、儂の武術指南をご所望かな。儂もこの通り老いぼれだが、一応軍の責任者じゃ。万一怪我をしてしまえば、指揮に障るのじゃが」

 慎思が、真っ白になった顎髭を撫でながら言った。

「武術指南ではない。果たし合いだ。今この場でどちらかが、死ぬ」

 呼延凌の眼が、燃えている。

「呼延凌将軍、お主程の男なら、戦の作法くらいわきまえておるじゃろう。戦の勝敗は、軍の指揮をもって決すべきではないのかな」

「俺は軍を抜けてきた。そう思ってもらって構わない」

「つまり、将軍としてではなく一人の男としてここに来た、というわけじゃな」

 呼延凌が、微かに頷いた。

「よかろう。では儂も一人の男として、お前と向き合おう」

 慎思が、大刀に手を掛けた。

「その前に、ひとつだけ訊きたいことがある」

「なんじゃ」

「あの騎馬隊の強さは、一体何なのだ」

「儂の麾下の事かのう?それを、軍を抜けたお主に話してなんになる」

「俺のために、何人もの部下が身代わりになって死んだ。そいつらのために、知りたいと思っている」

 篝の灯が、何度も爆ぜて音を立てた。

「戦場で死んだ者に想いを馳せる。軍を率いる者なら、もっと気丈にならねばならんと思うがのう」

「俺はあれが戦場だったと、どうしても思えない」

「なんじゃと?」

「俺の部下達は、第二隊の歩兵が倒されたのを見て、心が燃えたのだ。しかしお前の麾下は、仲間が討たれても顔色一つ変えず、淡々と槍を繰り出してきた。それが信じられなかった。本当に人なのか、と思ったくらいだ」

 呼延凌の言葉に、慎思が眉をひそめた。

「呼延凌ともあろう男が、兵のあるべき姿が解らぬわけはあるまい。戦で勝つために、感情を抑えられなければ、死ぬしかあるまい」

「梁山泊は、志の元に集った戦う集団だ。死は恐れぬ、しかし、死は忘れぬ」

 呼延凌はゆっくり七星鞭を構えた。慎思は呼延凌の眼を見つめた。その奥にある炎は、燃え続けている。

「よかろう。ならば教えてやる。儂の麾下の強さの秘密を。そしてお主の弱さの理由を」

 慎思の手がわずかに動いた。次の瞬間、呼延凌の具足が二つに割れ、地に落ちた。慎思を見る呼延凌の眼が、見開いている。

「呼延凌、お主は見事な軍人じゃ。戦場で、お主のその凄まじい闘気に触れれば、並みの兵では身動き一つできんじゃろう。ましてやその七星鞭の一撃を躱せるものは、万に一人もいまい」

 さらに慎思の手が動いた。呼延凌の右の太ももと、左肩から鮮血が噴き出した。呼延凌が少しよろめいた。

「お主は若くして梁山泊軍の総帥となり、数多の戦場を駆けることで、その闘気を身に纏ったのじゃ」

 呼延凌は踏みとどまり、七星鞭を構え直した。

「しかし、人の闘気、力には限りがある」

 慎思は、ゆっくりと呼延凌に歩み寄った。

「儂は、激流の中で、人の力の無力さを悟ったのじゃ。自然と一つになることで、初めて人の力は活かされる」

 呼延凌の頬からも、血が噴き出す。

「今も儂は大地の力を借り、刀を振るっておるのじゃ。人の膂力に頼り切ったお主の武では、儂の刀を見切ることはおろか、避けることもできはせん」

 呼延凌が七星鞭を繰り出してきた。避けるともなく、呼延凌と身体の位置が入れ替わっただけだった。

「だから、儂の身体はこの通り老いておっても、まだ武の力量は衰えてはおらんのじゃ」

 呼延凌が身を翻し、七星鞭を横に薙いだ。

紙一重で躱した慎思の脇に、回し蹴りが飛んできた。慎思は少し屈むと、その蹴り脚を掬い上げる。呼延凌の躰が宙で一回転して、地に落ちた。

「儂はこの真理を、長年かけて麾下の身体に叩き込んできた。それは決して厳しいだけの鍛錬ではない。理を理解することが、重要なのじゃ」

 呼延凌が、ゆっくりと起き上がった。

 

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