「もうよいじゃろう、呼延凌。潔くこの場から去ね。今ならまだ間に合う。軍人らしく、軍を率いて儂を破って見せろ」
呼延凌は息を弾ませながら、じっと慎思の眼を見つめている。
「言ったはずだ。これは果たし合いだ。どちらかが死ぬまで続く」
「やれやれ、まるで童じゃな」
呼延凌が地面を蹴ると同時に、七星鞭を地から振り上げた。鋭い。慎思は咄嗟に大刀で七星鞭を受けた。受けた、と思った瞬間、呼延凌が視界から消えた。上。慎思が気を爆発させる。慎思の拳が、上から襲い掛かってきた呼延凌の腹に突き刺さり、呼延凌の身体がくの字に曲がった。
しかし呼延凌は頽れず、慎思の肩を踏み台にして後ろに跳躍し、地面に降り立った。
「やるではないか。戦いながら成長しておる」
呼延凌がけもののような低い唸り声を上げ、眼の色も狂気を帯びている。死域に入っているようだ。
慎思は大刀を、鞘に納めた。
呼延凌が再び地面を蹴った。四方から七星鞭が襲い掛かってくる。慎思はかろうじてそれを捌き、躱す。
「愚か者め、人に戻らぬか」
慎思は呼延凌の腹と顔面に、拳をめり込ませた。呼延凌がよろめきながら少し退がり、腹を押さえてうずくまった。
「俺は」
「呼延凌、これで分かったであろう。いくらけものに身を落としたとしても、儂には勝てぬ」
うずくまっていた呼延凌が、ゆっくりと立ち上がった。息は荒いが眼の狂気は、失せている。
その時、慎思は目を瞠った。呼延凌の身体から、何かが抜け落ちていく。いや、混濁していたものが、ひとつの方向に向かって一斉に流れ出す。
「俺は梁山泊軍総帥、呼延凌だ。人の想いを、人の力を、信じて戦う」
呼延凌が、じっと慎思の眼を見つめてきた。その眼の光に、慎思は憧憬に似た感情を覚えた。契丹族である慎思は、金国での軍人としての道は、閉ざされていたといっていい。呼延凌は今、梁山泊軍総帥という地位を、完全に己のものにした。慎思はそう感じた。
「よかろう」
慎思は、ゆっくりと大刀を構えた。
「お主の覚悟、見届けた。せめて儂の大刀で逝かせてやろう。あの世で呼延灼と語り合え。軍人として天寿を全うするのだ、誇りを持って、逝け」
慎思は呼延凌と向かい合った。先程までの燃えるような闘気は消え、呼延凌の人としてのありようが、澄みわたっている。
よくぞここまで。慎思はそう思った。
二人が同時に地面を蹴り、馳せ違う。
しばらくして倒れたのは、呼延凌だった。呼延凌を頭蓋から両断した。つもりだった。だが実際に断ったのは、その左腕だった。呼延凌が避けたのか、自分の手元が狂ったのかは、分からなかった。
「見事だ。呼延凌」
慎思が呟いた。あたりの空気が、静まっていく。
「そこにおるのであろう。出てこい、秦容」
慎思がそう声を張ると、幕舎の蔭から秦容が姿を見せた。
「篝の火、借りるぜ」
秦容は火のついた薪を一本掴むと、まず呼延凌の左肩を縄できつく縛り、腕の切断面に火を押し付けた。血の沸き立つ音と、肉の焼ける匂いが伝わってきた。
「秦容、お前は儂に挑まぬのか?」
秦容は慎思の方を振り返り、かすかに口元で笑った。そして気を失った呼延凌を朝影に乗せた。
「慎思、お前の部下は、一人も見物に来ないのだな」
「わざわざ見なくても、ここで起きていることは、気で分かる。例え儂が倒れても、部下は淡々と儂の死を受け入れるだけじゃろう。ゆえにお前たちを遮ることも、咎めることもせん。お前たちが部隊を率いてくれば、別じゃがな」
「慎思、礼を言う」
何に対する礼なのかは、秦容は言わなかった。
「お主に礼を言われる様な事は、何もしておらん」
秦容は朝影の轡をとると、闇の中へ消えて行った。