胡の地より   作:遼心

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慎思と呼延凌の力の差は歴然としていた。しかし、呼延凌の目の光は、いささかも曇ることはなかった。呼延凌が、再び地を蹴る。


第百四十二話 人のありよう

「もうよいじゃろう、呼延凌。潔くこの場から去ね。今ならまだ間に合う。軍人らしく、軍を率いて儂を破って見せろ」

 呼延凌は息を弾ませながら、じっと慎思の眼を見つめている。

「言ったはずだ。これは果たし合いだ。どちらかが死ぬまで続く」

「やれやれ、まるで童じゃな」

 呼延凌が地面を蹴ると同時に、七星鞭を地から振り上げた。鋭い。慎思は咄嗟に大刀で七星鞭を受けた。受けた、と思った瞬間、呼延凌が視界から消えた。上。慎思が気を爆発させる。慎思の拳が、上から襲い掛かってきた呼延凌の腹に突き刺さり、呼延凌の身体がくの字に曲がった。

 しかし呼延凌は頽れず、慎思の肩を踏み台にして後ろに跳躍し、地面に降り立った。

「やるではないか。戦いながら成長しておる」

 呼延凌がけもののような低い唸り声を上げ、眼の色も狂気を帯びている。死域に入っているようだ。

 慎思は大刀を、鞘に納めた。

 呼延凌が再び地面を蹴った。四方から七星鞭が襲い掛かってくる。慎思はかろうじてそれを捌き、躱す。

「愚か者め、人に戻らぬか」

 慎思は呼延凌の腹と顔面に、拳をめり込ませた。呼延凌がよろめきながら少し退がり、腹を押さえてうずくまった。 

「俺は」

「呼延凌、これで分かったであろう。いくらけものに身を落としたとしても、儂には勝てぬ」

 うずくまっていた呼延凌が、ゆっくりと立ち上がった。息は荒いが眼の狂気は、失せている。

 その時、慎思は目を瞠った。呼延凌の身体から、何かが抜け落ちていく。いや、混濁していたものが、ひとつの方向に向かって一斉に流れ出す。

「俺は梁山泊軍総帥、呼延凌だ。人の想いを、人の力を、信じて戦う」

 呼延凌が、じっと慎思の眼を見つめてきた。その眼の光に、慎思は憧憬に似た感情を覚えた。契丹族である慎思は、金国での軍人としての道は、閉ざされていたといっていい。呼延凌は今、梁山泊軍総帥という地位を、完全に己のものにした。慎思はそう感じた。

「よかろう」

 慎思は、ゆっくりと大刀を構えた。

「お主の覚悟、見届けた。せめて儂の大刀で逝かせてやろう。あの世で呼延灼と語り合え。軍人として天寿を全うするのだ、誇りを持って、逝け」

 慎思は呼延凌と向かい合った。先程までの燃えるような闘気は消え、呼延凌の人としてのありようが、澄みわたっている。

 よくぞここまで。慎思はそう思った。

 二人が同時に地面を蹴り、馳せ違う。

 しばらくして倒れたのは、呼延凌だった。呼延凌を頭蓋から両断した。つもりだった。だが実際に断ったのは、その左腕だった。呼延凌が避けたのか、自分の手元が狂ったのかは、分からなかった。

「見事だ。呼延凌」

 慎思が呟いた。あたりの空気が、静まっていく。

「そこにおるのであろう。出てこい、秦容」

 慎思がそう声を張ると、幕舎の蔭から秦容が姿を見せた。

「篝の火、借りるぜ」

 秦容は火のついた薪を一本掴むと、まず呼延凌の左肩を縄できつく縛り、腕の切断面に火を押し付けた。血の沸き立つ音と、肉の焼ける匂いが伝わってきた。

「秦容、お前は儂に挑まぬのか?」

 秦容は慎思の方を振り返り、かすかに口元で笑った。そして気を失った呼延凌を朝影に乗せた。

「慎思、お前の部下は、一人も見物に来ないのだな」

「わざわざ見なくても、ここで起きていることは、気で分かる。例え儂が倒れても、部下は淡々と儂の死を受け入れるだけじゃろう。ゆえにお前たちを遮ることも、咎めることもせん。お前たちが部隊を率いてくれば、別じゃがな」

「慎思、礼を言う」

 何に対する礼なのかは、秦容は言わなかった。

「お主に礼を言われる様な事は、何もしておらん」

 秦容は朝影の轡をとると、闇の中へ消えて行った。

 

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