「右六、左四」
張朔は、また小声で言った。左右の櫓の数で、船は進む方向が決まる。船がゆっくり左旋回を始めた。霧の中でも船がどれだけ進み、どこで回旋するべきかは、張朔は身体で感じることができる。
今、櫓手の調子を合わせる拍子木は、打つことができない。すべては櫓手同士の阿吽の呼吸に委ねなければならないが、船は張朔が思った通りの動きをした。そして張朔の指示は、各船の艫に立つ水夫が、手信号で後続に伝える。
しばらく旋回すると、船の舳先と、清針の指し示す方向が一致した。
「右六、左六」
船が北に向かって進み始める。船に当たる水の調子も、変わってきた。この先に敵艦が駐留しているはずだ。赤手隊はすでに舷側に身を潜めて、戦闘態勢にはいっている。
やがて霧の中から、ゆっくり船影が浮かび上がってきた。高い。見上げるほどの舷側が張朔の横を通りすぎていく。舷側の頂上は、霧に隠れてよく見えない。
何のため高さなのか、張朔はもう考えなかった。やるべきことはもう、決まっている。
舷側の高さによっては、少し距離を取ることも考えたが、この高さなら見張りが立っていたとしても、こちらの船は見えないだろう。
一艘、二艘、張朔は呟きながら数を数えた。百艘数えた段階で停止、作戦を開始する。船の戦は久しぶりだが、張朔の心は穏やかに澄んでいた。
赤手隊が船を制圧し、火を放ち離脱するのに半刻、赤手隊を回収し沖に出て、陣形を組むまでの光景が、張朔にはくっきり見えていた。
その時、張朔の頬にかすかな熱気が触れ、消えた。気のせいか。敵艦は沈黙している。目を凝らしても、敵艦の舷側以外、見える物は何もない。
張朔の船は、そのままゆっくり進み、ついに百艘目を数えた。赤手隊が鉤縄を掴み、張朔の合図を待っている。
張朔は一瞬、逡巡した。何かがおかしい。静かすぎる。
そこに吹いた一条の風。運ばれてきたものを、手で掴んだ。わずかな灰。張朔の全身に粟が立った。
「全船離脱、急げ」
張朔は、力の限り叫んだ。
その時、敵艦の舷側に無数の穴が開いた。いや、小さな窓が、連なって開かれた。間髪入れず、そこから夥しい数の矢が放たれた。二射、三射、間断がない。眼下で赤手隊が混乱しているのが見えた。
「連弩か」
そう言った張朔の肩と腹に、同時に矢が突き立った。張朔は船尾楼を駆け下り、その陰に身を潜めた。張朔の船が離脱を始める。凌ぎ切れるか。
「第二波、鷗焰(おうえん)」
誰かの叫び声が聞こえた。網。張朔はそう叫ぼうとしたが、うまく声が出ない。それに、今甲板での作業は、高所からの連弩の的になるだけだ。既に船は針鼠のようになっている。鷗焰と同時に、無数の火矢も撃ち込まれてくる。
右舷と甲板から勢いよく炎が噴き出した。後続の百艘もおそらく同じ状況だろう。
「これまでか」
張朔は、近くにあった鉦を打ち鳴らした。櫓手を含めた、すべての人員の退避である。
「みんな、生き残ってくれ」
張朔も左舷に向かって、駆けた。足元がおぼつかない。
左舷、水夫たちが次々と湖に飛び込んでいく。張朔も飛び込もうとした。しかし身体に力が入らず、転がるように湖に落ちた。
すまぬ。狄成、項充。
そう呟いたが、声になったかどうかは、分からなかった。