胡の地より   作:遼心

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胡土児率いるたった二百騎に翻弄された海陵王。兀朮を失い、その暗澹たる志を止めるものはいない。


第十六話 歪志

 海陵王は執務室の卓を思いきり蹴飛ばした。卓上の椀と地図が散乱する。控えていた侍女が驚いて平伏した。

 何もできなかった。森から出てきた胡土児(コトジ)を補足し、完全に包囲した。胡土児はそれを承知で平然とこちらに向かってきた。おそらく投降するのだろうと思い、逃げられない距離に達した時、一斉に取り囲み捕縛、有無を言わさず吹毛剣けんで処断する。そこまでの光景がはっきり目に浮かんでいた。南宋侵攻の準備はほぼ整っている。あとは心の憂いである胡土児を葬れば殻をひとつ破り、生まれ変わった金国の皇帝として南侵できるはずだったのだ。

 あの蒙古兵と将、今思えば北部軍指令の斜律里(しゃりつり)と玄旗隊に間違いない。蒙古兵に扮していたが、馬の乗りこなしはまさに女真(じょしん)のものだった。

 しかし胡土児との一騎打ちに目を奪われた。兵たちもみなそうであったろう。あの一騎打ちも含め、奇襲だったのだ。兵は固まったまま玄旗隊の突撃で潰走した。

 胡土児は南へ駆け去ったが、もう蒙古へは戻れまい。次に所在が明らかになったら、次こそは逃がさない。斜律里は軍規に照らし合わせ処断が妥当だが、奴にはもうしばらく蒙古の抑えに必要だ。すべてが終わってからゆっくり料理してやる。

 思えば胡土児を始めて見たのは、俺が皇太子の頃、二千の騎兵に厳しい調練を課し、胡土児の二百騎と模擬戦をやった時だった。胡土児の兵を一騎も馬上から落とせぬまま、二千騎は全滅した。あの二千騎は戦を知らない、と言った胡土児の言葉がいつまでも頭にこびりついて離れなかった。あのころから胡土児に対して、言いようのない劣等感を抱くようになった。

 俺は叔父(兀朮ウジュ)と一緒に戦いたかった。しかし従軍は許されず、戦にはいつも胡土児を伴っていた。女真族は戦う民族だ。金を建国し、契丹(きったん)族の遼の圧政を跳ね返し滅ぼし、勢いに乗じて宋の北半分を制圧した。この勢いで南宋を飲み込めば、金は史上かつてないほどの広大な国になるのだ。それは叔父の志でもあったはずだ。

 しかしその夢はいつも梁山泊に阻まれ、ついに叔父は討たれた。叔父が死ぬと胡土児への感情は、はっきりと殺意へと変わっていった。

 胡土児が大戦の前、北へ転属になったのは吹毛剣という剣を梁山泊から受け継いだからだと知った。それは胡土児が梁山泊の前頭領、楊令の遺児であるからだという。叔父がその事実を知って胡土児を養子に迎えたのなら、なおのこと殺さねばならない。胡土児の首とともに吹毛剣も破壊し、梁山泊を歴史から葬り去る。その後南宋を滅ぼし、叔父の志を完遂させるのだ。

 初めに送った五百の刺客は、胡土児をあと一歩のところまで追い詰めたが、思わぬ蒙古兵の介入を受け失敗した。胡土児はいつの間にか蒙古と友誼を結んでいたのだ。その後胡土児は軍を脱柵、蒙古領へ奔っていった。そこで潜伏するのかと思ったが、岩山の頂上に居を構え普通に暮らし始めたのだ。叔父が討たれるや否や軍を捨て出奔。養子とはいえ親が討たれたのだ。仇に燃え、金の軍勢を率いて梁山泊に攻めるならならまだしも、その敵の剣を受け継ぎ隠遁する。その行動も腹立たしかった。

 海陵王は胡土児のことを一端、頭の隅に追いやると、まだ震えて平伏する侍女に目をやった。

「何をしている、早く片付けろ。それと丞相の析律(せきりつ)と兵部尚書の阿列(あれつ)を呼べ」

 侍女が顔を伏せたまま、転がった椀と卓を片付け出ていった。

 

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