胡の地より   作:遼心

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秦容と呼延凌は宣凱の書簡を受け、中華に行く決意をする。しかし小梁山の守備をどうするか、主だったものを説得する必要があった。その会議を決定付けたのは、秦容の妻、公礼の意外な言葉だった。


第二十ニ話 何倍もの命

 宣示庁には秦容と呼延凌、于姜、朱利、妻の公礼、そして交易の要件で小梁山にいた岳都の頭、姚平(ようへい)が着席した。宣示庁の壁には、先ほど秦容放った狼牙棍が突き破った大穴が開いていて、狼牙棍がその穴に引っ掛かり、ぶら下がっている。

「なにか居心地が悪いな。お前、早く于姜殿を説得してくれよ」

 呼延凌がまた呟いた。

「おい、言いたいことがあるなら、于姜殿にはっきり言え」

 秦容が、呼延凌を肘で小突いた。

「で、この宣凱の書簡を見て、どちらが北に行く総大将かを、決めるためだったってのかい。くだらない」

 于姜が宣凱からの書簡を読んで言った。

「くだらなくはない。もし金が南宋を制圧したら、次は豊かな物産があるこの小梁山を狙うに決まっている。岳都の貴石も狙われるだろう」

 秦容が語気を荒げた。

「それにしたって二人だけで行って、どうにかなるものでもないだろう。蒲甘だっていつ大軍を送り込んでくるかわかりゃしないのに」

「蒲甘の軍は藩寛の軍で十分だ」

「それが油断だっていうのさ。蒲甘の兵が小梁山になだれ込んでくるところを、想像してごらんよ」

 しばらく場が、沈黙した。

「なら、岳都の兵を守備にまわすのはどうかな」

 姚平が言った。

「岳家軍は大戦の後、半数は盡忠報国の志を求め、南宋に行った。もう半数は岳飛の作った岳都を離れられずに、今も岳都に残っている。粘り強いやつばかりなので、守りには適しているぞ。今、南宋は同盟国みたいなものだからな。北を心配する必要はない」

「それはありがたい」

 秦容が思わず立ち上がった。が、于姜に睨まれて静かに座った。

「で、指揮は誰が執るのかい」

「旬浩しかおるまい。藩寛と組んで、許礼率いる南宋軍五万を打ち破った話は、今や語り草になっている」

 呼延凌が周知の事実を、偉そうに言った。

「藩寛殿だってこっちで岳飛殿が育てた将だろ。小梁山の守りを、土地の人や岳都の兵にやってもらうなんて、なんとも情けない話だねえ」

「岳都と小梁山、土地の人々はもはや運命共同体。誰しも納得のするところでしょう」

 朱利が言った。于姜はしばらく考える仕草をした。

「于姜殿、いいかな」

 姚平が静かに言った。

「俺は昔、岳家軍を脱走した。戦で大怪我を負い、板で運ばれている途中に意識が戻り、自分で歩けることがわかると、急に戦が怖くなって逃げだしたんだ。脱走してひとりになってみると、今度は生きることが怖くなった。脱走した、という負い目を一生背負って生きていくことに。脱走して初めて気づいたんだ。岳家軍が自分の全てだった、てことに」

「簡潔に」

 于姜が拳で卓を叩くと、姚平が肩をすくめ腰を少し浮かせた。

「よ、要するに二人に行かせてやってくれよって事さ。男にはな、時には理屈なんてなくても、やらなきゃならない時があるんだよ」

「姚平殿、お気持ち痛み入る。なにやら名言も飛び出したしな」

 秦容が腕を組んで、頷きながら言った。

「公礼はどう思っているんだい。秦輝もまだ小さいだろう」

 皆が公礼の方に向いた。公礼はずっと言いたいことを我慢していたのか、肩を震わせている。

「私は」

 ようやく出た言葉には、胆力がこもっていた。顔が紅潮している。

「私は、毎日だらだら椰子の汁を啜っている夫を、これ以上見たくありません。北でも何でも行って、男とやらを磨いて来ればよいのです」

 おお、という声がどこからか漏れた。公礼は言い終わると、外へ飛び出していった。

 于姜が椅子に深く座り直し、一息ついた。表情が少し和らいだ気がする。

「こうなったら仕方がないね。二人で北へ行ってきな。総大将は呼延凌。理由はそこにぶら下がっている狼牙棍だ。いいね」

 呼延凌が卓の下で拳を握った。秦容は何か言いかけたが、諦めて横を向いた。

「何をしているんだい、秦容。早く行きな」

 秦容は何を言われているのか、一瞬分からなかったが、皆の視線を感じ、公礼のことだと悟って弾かれたように腰を上げた。

「折角だ。今夜は宴といこう。秦容殿、早く公礼を追いかけて」

 朱利が急に元気になって言った。

「蒼翼は連れていくからな」

 秦容はそう言って宣示庁を飛び出すと、練兵場の広場でうつむいている公礼を見つけた。こういう感じになった女の扱いを、秦容は知らなかったので、木の影で隠れていた。

 宴は深夜まで続いた。南はとにかく食べ物が豊富にある。房芋(バナナ)は森に入ればいくらでも採れるし、椰子の実は作業時の水分補給にもってこいだ。答満林度(たまりんど)の実は酸味があり、熟せば香辛料にもなる。河に行けば水牛も狩れるし、その皮から作った牛棒は、炙って酒の肴になる。甘蔗の搾り滓から造った甘蔗酒は度数も強く、交易品として北で重宝されている。だから南の宴はとにかく色鮮やかだ。中華と違って南の人々の表情は、いつも明るい。

 秦容は宴の喧騒を避け、風通しの良い突き出しで、甘蔗酒を生でちびちびやっていた。 

 今日はやけに月が輝いて見えた。

 ふと見ると公礼がひとりで夜風に当たっているのが見え、秦容は腰を上げた。公礼がこちらに気づいて微笑んだ。

「また留守にしてすまない。公礼」

「いいのです。あなたはもう、人の何倍も命を燃やして生きてきたのです。これからもそうやって生きていくのでしょう」

「秦輝を頼む」

「無理だけは、なさらないで」

 別れの言葉としては、あまりに少ない。しかし、お互いそれで充分だった。秦容は公礼をそっと抱き寄せ、軽く唇を重ねた。 

 

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