梁山湖の湖面は、連なる篝に照らされ、橙に輝きながら静かに揺らめいていた。風玄は束の間、その景色に見入っていた。篝の灯が届かぬ闇の中で、息を潜める。そここに哨戒の兵の気配が、行き来している。
板の行方を追うと、その先は梁山湖だった。この厳戒態勢を見ても、かつての梁山泊の湖寨を改修し造船、梁山湖で航行訓練をしているとみて間違いないだろう。湖寨は晴れていれば、かすかに対岸が見える。その遥か対岸にも、微かに篝の明かりが見えている。
いつの間にか、この湖岸から一里先の街道までは立ち入り禁止区域になり、兵が巡回している。侵入し捕縛されれば、即処断になるだろう。風玄は幾日も警備体制を観察し、その間隙を縫って、湖岸まで辿り着いた。
以前、金国に捕縛された簫炫材(しょうけんざい)殿を救い出したことがあったが、その時の闘争で腿に受けた矢傷が元で、満足に駆けることはできない。哨戒の兵に見つかれば、そこで終わりだ。しかし闇の者の身のこなしは忘れていない。夜陰に紛れ湖寨に泳ぎ着き、造船所と航行訓練を偵察する。決してできない任務ではない。金国の水軍の規模が分かれば、宣凱も対策が立てやすいだろう。
風玄はこの任務にすべてをかけていた。簫炫材殿はもはや手の届かないところへ沈んで行かれた。物流を以って民を安んずるその志に、風玄は心酔した。民を人とも思わぬ海陵王の野望を阻止することが、今唯一、簫炫材殿の意に叶うことだと、信じて疑わなかった。老境に差し掛かった自分ができることはあまりない。あとは宣凱や候真、胡土児といった次の世代に託すべきだろう。
宣凱にもらった湖寨の地図はすでに頭に入っている。予想される造船施設はここからまっすぐ泳ぎ着いた対岸の真裏。陸からは決して見えない、島の反対側に船を隠し、訓練しているのだろう。対岸を右に回ると比較的標高が低く、軍営などがあるはずだ。対岸を左に回ると急峻な崖に木々が生えている地形で、見張りも少ないと思われる。
風玄は担いでいた荷を下ろし、穴を穿って入れ、葉で丁寧に隠すと湖岸に向かってぬるりと這っていき、音もなく入水した。
波を立てずに泳ぐことは難しくない。が、対岸の警備が分からない以上、うかつに近づけない。かといって、夜が明ければ哨戒の平底船に見つかるだろう。ここからは運頼みだ。
払暁に近いころ、対岸近くに泳ぎ着いた。対岸はすぐに崖になっていて、左に見張り台が見えたが、兵の姿はまだ暗くて確認できない。風玄は見張り台の死角から岸に上がると、岩の陰に身を潜めた。見上げると崖は急峻で、身を隠すような木は生えていない。上まで登り切れば森があるはずだ。湖からは丸見えだが、行くしかない。風玄は一息つくと、祈る気持ちで岩に手をかけた。
崖は急峻だが、登れないことはなかった。もちろん落ちれば死ぬ。明るくなって見張りに見つかっても死ぬ。ひとつひとつ、死を覚悟しながら登っていく。
死ぬ覚悟はとうにできている。しかし死とは何なのか、深く考えることはなかった気がする。どんなに覚悟を決めても、死の実感がなければ、所詮、頭で考えたことでしかない。
今は岩を掴む手の感触、足で身体を支える感触、頬を伝う汗や風の感触、すべてが生の実感としてある。それがなくなった時が、死だ。今、その生の感触を確かめながら登っている。
そんなことを考えている内に、風玄には不思議な感覚があった。この崖はやけに登りやすい。手を伸ばす場所、足をかける岩の出っ張り、どれも決められたかのように自然に手足が伸びる。まるでかつて、ここを何度も登った人間がいたかのように。その気配に導かれながら、風玄は崖を登っていった。
ふと見ると、崖の中ほどまで来ていた。陽はすっかり上り、遠くに哨戒の船も見える。しかし風玄には何故か、発見される不安や、落ちて死ぬ想像が、全く湧かなかった。むしろ風が心地よく、どこまでも登っていたいような感覚があった。生と死。その狭間に立てば、あとは天がどちらかに、ふと背中を押す。風玄は生死が、そんなもののように思えてきた。恐れも不安も、抱く必要はないのだ。
手を伸ばし、岩を掴み、身体を引き寄せた風玄の視線の先には、森があった。気づけば崖を登り切っていた。周りに兵の姿はない。風玄は草地によじ登ると大の字になり、何度も大きく息をついた。