「おい、昼飯だ。早くいくぞ」
後ろから声をかけてきた兵が梯子を下りていった。風玄もそれに続き、軍営の脇から裏手に回ると、森の中に入っていった。そこで軍袍を脱ぎ捨てると、風玄は速足で元来た道を戻っていった。
見張り台から見た風景、風玄は思い返す度、身体から粟が生じる。湖面を埋め尽くす船団、旧宋の巨大な海鰍船(かいしゅうせん)を思わせる大型船がおよそ二十艘、中型船がおよそ二百艘あまり。しかも舷側がやや高い構造になっていた。ある工夫がなされたものと思われるが、金国がこれほどの造船技術を持っていたとは、にわかには信じられない。しかし、見たままを宣凱に伝えるほかないだろう。
やがて島に鉦の音が響き渡り、かなりの兵が動き回る気配が伝わってきた。兵たちは今度こそ、異変に気付いたようだ。すぐに山狩りも始まるだろう。
風玄は比較的なだらかな北側の岩場を駆け下り、湖岸に辿り着くと、迷わず湖に入水した。湖岸で適当な大きさの岩を選び、縄で腰に括り付け、岩を抱えたまま沖に向かって泳ぐ。少し沖に出たところで、節をくりぬいた竹の筒を取り出し、岩を放す。身体が水に沈み、仰向けの状態で竹を咥くわえた。
その状態で、夜を待った。
水の中は無だ。そこでただ力を抜いて沈んでいると、まるで違う世界に漂っているような感覚になる。風玄の中に、様々な思いが去来した。
かつて金国の丞相、撻懶(ダラン)の下で闇の組織、虎坊党(こぼうとう)を率いていた。撻懶は軍の出身だが、金国で唯一、国の安寧を願った丞相でもあった。闇の組織は暗殺など、時に手を汚す。しかし風玄はそれを厭わなかった。撻懶の、その志のもとで働くことが風玄にとって、生きる意味そのものと思えたからだ。しかし撻懶が病死すると、廷臣は己が政争の為に自分勝手に動き、あれほど金国に貢献した簫炫材(しょうけんざい)まで亡き者にしようとした。その浅ましさに嫌気がさし、金国を捨て簫炫材に従った。
風玄自身に、志というものはなかった。ただ志を持ち、それに命をかけようとするものに惹かれ、その者の役に立ちたい、という想いで生きてきた。それもまた、志といえるのだろうか。風玄はぼんやりとそんなこと考えた。
陽がすっかり落ち、あたりが闇に包まれる頃、縄をほどき湖面に顔を出した。篝かがりは盛大に焚かれているが、あたりに危険はないようだ。風玄はゆっくり泳ぎだした。対岸にも篝が焚かれているので方向を迷うことはない。
明け方、対岸に泳ぎ着いた。湖岸に兵がいないことを確かめると、岸に上がった。さすがに疲労感が襲ってきたが、まだ眠るわけにはいかない。風玄は隠しておいた荷を取り出すと、筆で紙にさらさらと符牒を書きこんだ。そして一羽の眠った鳩。指先で軽く頭を弾くと、鳩はばたばたと動き出した。その脚に符牒を括り付けると、鳩を空に向かって放した。
「頼んだぞ」
風玄はどかりと腰を下ろすと、木の幹にもたれ掛った。
「いたぞ、あそこだ」
その叫び声に風玄は跳ね起きた。兵がぱらぱらとこちらへ駆け寄ってくるのが見える。十名ほどか。
「ぬかったか」
疲労のあまり鳩を放すときに警戒を怠ったようだ。しかし悔いても仕方がない。
「見つけ次第処断との触れだ。悪く思うなよ、爺さん」
目の前の兵士が剣を抜きながら言った。むしろその方が有難い。最期の時。短剣を抜き放つ。一人でも道連れにと思ったが、身体は満足に動きそうもなかった。