陰山の北、険しい山中を玄旗隊二百騎が進んでいた。騎乗できない程の細いけもの道を進むこともあった。多少遠回りではあるが、金軍と遭遇することを避けた。このまま南下し、河水(黄河)を渡ればすぐに沙谷津(さこつしん)である。
胡土児(コトジ)は海陵王の軍勢を蹴散らし、そのまま南に抜け、斜律里の軍営に駆け込んだ。
胡土児が陣に入ると兵は歓声をあげ、斜律里が満面の笑みを持って玄旗隊を迎え入れた。その歓待が胡土児には意外だった。その夜、斜律里と一晩飲み明かし、この半年間起こったことなどを語り合った。海陵王の独裁、蒙古の侵攻の激化、民の疲弊。胡土児が軍を抜けてからも、世の中は動き続けていた。
斜律里は候真が訪れたとき、二日間、寝る間も惜しんで語り合ったそうだ。それで物事の考え方が、がらりと変わったという。視野が広がったというか、軍人として金国に忠誠を尽くすことだけを信条としていたが、国の成り立ち、梁山泊の志や好漢達の生き様を聞くうちに、明らかに海陵王に対する疑心が芽生えたという。候真も、斜律里の叛意を煽るために語ったわけではないだろうが、世の中の何が正しくて、何が歪んでいるのか。見定める視野の広さを持て、と語ったのだった。
斜律里はすぐにでも軍を抜け、胡土児に合流することを望んだが、候真にたしなめられた。蒙古の侵攻を防ぎ、金国の民を守ることも正義なのだと。正義を放棄した人間に天が役割を与えるわけがない。斜律里がいま北部方面の総帥として、蒙古に睨みを利かせていることの重大さを忘れるな。と言われたのだった。
人は誰しも、思うさまに生きられるわけではない、斜律里はそう思い定めてきたという。そして生涯の友である胡土児には、己の定めを見極め、全うし、使命を果たせ、と涙ながらに語ったのだった。そして俺の代わりにその剣を持っていけ、と。
斜律里の軍営を後にした胡土児の行軍は、ありえないことの連続だった。道が険しい、という事ではない。どんなに険しい山中の小径でも、三日に一度は、必ず轟交賈(ごうこうこ)からの補給が届くのだ。それは感嘆に値した。軍勢の移動には当然兵糧が必要になる。兵糧の支給が間に合わない緊急の戦の時には、街道沿いの民家から徴発することも珍しくなく、敵地においては邑で兵糧を略奪することも当たり前なのだ。一回の戦で邑が一つ二つ、滅びることもある。
当初は玄旗隊二百騎の兵糧の当てがなかったため、沙谷津には蕭尤(しょうゆう)、耶律哥(やりつか)の三人で行くつもりだったが、斜律里と語らい、玄旗隊を伴う決心をした。兵糧は候真を通じ轟交賈が支給する手はずを、すでに候真としていたのだ。
他人の力を借りることに、胡土児はいささか抵抗を感じていたが、己ひとりで生きていこうとしていた時とは違い、胡土児自身と、今その周囲で起きていることの顛末を見てみたいという想いから、しばらくは時世に流されてみよう、という気になった。何より男として、海陵王とは決着をつけねばならない、という想いも芽生えている。以前なら兵糧の支給など固辞して、玄旗隊を置いて飛び出していただろう。
それに提示される経路が常に安全であったこと。おそらく胡土児の存在は海陵王によって既に全国に手配されていることだろう。万一玄旗隊が補足されれば、たちまち数万の地方軍に包囲される。轟交賈はまるで空から見ているかのように、地方軍の所在を把握しているのか、今まで一度も軍に出くわすことなく、ここまで来ることができた。この事も胡土児にとっては驚きだった。何度か軍と出くわし、小競り合いを繰り返しながら、森に潜むように進軍するものと考えていたのだ。
轟交賈とは一体何なのか、胡土児にはいくら考えても分からなかった。
行軍中も鍛錬は欠かさなかった。少し開けた場所を見つけては、日に二刻から三刻は行軍を止め鍛錬した。その時ばかりは、玄旗隊の皆の目が輝いている。
組打ち、崖の上り下り、坂道の駆け足。どれもみな半年前とは比べ物にならない程成長していた。胡土児自身も十人同時に打ちかからせ、全員組み伏せることを、日に十度は行った。皆腕を上げているので、組み伏せるのに随分苦労するようになった。
蕭尤と耶律哥には、それぞれ一対一で向かい合った。すでに将校としても十分な実力を備えている。玄旗隊では最年少だが、兵とも互角以上に戦える。玄旗隊の誰もが、その実力を認めていた。そして夜は火を興し、玄旗隊ひとりひとりと語らった。