夕刻近くになって作業は終わった。胡土児(コトジ)は吹毛剣(すいもうけん)を腰に佩き、納屋に向かった。賊の頭は手足を縛られぐったりしていたが、入ってきた胡土児を見ると慌てて後ずさった。眼は怯え切っている。胡土児は賊の猿轡を解いた。
「助けてくれ」
賊は悲鳴に近い声を上げた。
「おい、お前、なんで賊になった」
「なんでって、そりゃ、税は重いし、今度、は、徴兵だ」
賊は恐怖で言葉がうまく出ないようだ。胡土児は賊の頬を何度かはたいた。それで賊はかえって落ち着いたのか、大きく息を吐いた。
「今までだって食うや食わずだったてのによ、これで戦にまで駆り出されるんだったら、賊になって好き放題やってやろうと思ったんだよ。声を掛けたら仲間だってすぐに集まった」
「そのお前の仲間は、すべて俺が殺した」
「あんたの強さは異常だ、人間じゃねぇ。化け物だ」
化け物、その言葉が胡土児の胸をちくりと刺した。
「弱く無抵抗の者を殺すお前は、人間なのか?」
「賊なんて今の時代どこにでもいるだろう。自分が人間かなんて、考える奴はいねぇ」
「そうか。ならばお前が人間かどうかもわからないまま、お前が嬲り殺した人達の様に、俺が殺してやる」
胡土児はゆっくり吹毛剣を抜くと、賊の喉元に吹毛剣を突き付けた。賊は声も出せず、身悶えしながらさらに後ずさる。
胡土児は吹毛剣を一閃した。すると賊を縛っていた縄が解けた。賊は恐怖のためか気を失った。胡土児は賊の顔に水をぶっかけた。賊は弾かれたように息を吹き返し、何度も呼吸を荒げた。
「これでお前は一度死んだ。新しいお前の命は、俺がもらい受ける。お前は今日から玄旗隊の一員だ。嫌とは言わせんぞ。名前も俺がつけてやる。そうだな、宋万(そうまん)ってのはどうだ。格好いいだろう。俺の名前は胡土児だ」
胡土児はしゃがみ込んで、宋万の顔を覗き込んで笑った。宋万は何が何だかわからない、といった表情で胡土児を見返した。
翌朝、玄旗隊は進発した。もう間道や隘路は行かず、街道を進む。街道と言っても邑むらと邑を繋ぐ細い道だが、騎馬で進むことができるので、進む速度は今までとは比べ物にならない。
「宋万、なかなかうまく馬を乗りこなすではないか」
胡土児は宋万に話しかけた。宋万は憮然とした表情でついてくる。
「俺だって五百の賊を従えていたんだ。馬ぐらい乗れるさ。弓や剣も人並み以上には使える」
「武芸は誰に教わった?」
「親父だ。小さいころから叩き込まれた。強くなりたいと思ったわけじゃねぇが、上達するのは楽しかったし、親父も喜んだ。狩りもよくやった」
「親父殿は?」
「去年死んだ。昼は農作業をして、夜は遅くまで筵を織っていた。年々痩せていくと思っていたら、ある朝、筵に顔を埋め、死んでいた」
胡土児は視線をそらし、うつむいた。
「それはすまないことを聞いた」
「あんた、変なやつだな。昨日は俺を殺そうとしたくせに、今は俺に謝っている」
「ついてくるのが嫌になったら、逃げたっていいんだぞ」
「行くところはねぇ。とりあえずこの軍についていけば、食い物にはありつけそうだからな。この軍は一体どこに向かっている?」
「とりあえず黄河の向こうだ。玄旗隊は今、地方軍に追われている。いつ襲われてもいいように、準備はしておけ。戦闘が始まったらお前のことは忘れる。自分の身は自分で守れ」
胡土児は笑いながら言った。
「なんだと、軍に追われてるって、あんた何やらかしたんだ」
「何も。だが、海陵王はどうしても俺を殺したいらしい」
「海陵王だと、今の帝じゃねえか。あんた一体何者なんだ」
「俺は一介の猟師のつもりなんだがなぁ」
「冗談じゃねぇ。帝に逆らってたら、命がいくつあっても足らねぇ」
「だから逃げてもいいって言ったろう」
宋万が怪訝そうな表情を胡土児に向けた。宋万はしばらく黙り込むと、いきなり大声で笑った。
「いや、面白そうじゃねぇか。帝に喧嘩を売る奴なんて初めて見た。どうせ一度は死んだ命だ。あんたの行く末を見てみたくなったよ」
「いいのか、後悔するかもしれんぞ。黄河の向こうへ渡ったら、お前の調練を始める。ここにいる連中で、お前より弱いやつはいないからな。生き残ったことを後悔するだろうよ」
「馬鹿にしているのか、餓鬼みたいな奴だっているじゃねぇか」
宋万が、最後尾を行く蕭尤(しょうゆう)を指さして言った。蕭尤が苦笑いを返してきた。
「あいつの強さはこの隊でも一、二を争うぞ。お前など瞬時に打ち倒される」
「なに?じゃあ今すぐ立ち会ってやろうじゃないか」
「今は行軍中だ。黙って隊についてこい、宋万」
胡土児は宋万の直情的な性格を、好ましく感じ始めていた。本来、賊に落ちるような人間ではない。楽しいことがあれば笑い、悲しいことがあれば泣く。きっとそんな人間なのだ。