胡土児(コトジ)は駆歩(かけあし)で隊の先頭に出た。今、玄旗隊は速歩(はやあし)で行軍している。速歩なら馬は小休止を挟みながら一日中駆けられるし、夕刻には百里(五十㎞)先の原野にでられるだろう。うまくいけば、今日中に黄河まで進めるかもしれない。
「耶律哥(やりつか)、身体の調子はどうだ」
「胡土児様、少し傷口は疼きますが、行軍には支障ありません」
耶律哥が左腕をぐるぐる回しながら言った。
「苦労をかける。すまないと思っているよ」
「もう言いっこなしにしましょう。それに吹毛剣は岳飛の右腕や、兀朮(ウジュ)総帥の右脚を斬り飛ばした剣ですよね。そんな剣で斬られたと思えば、むしろ拍がついた気持ちになります。私もそんな二人の将軍の様に、強くなりたいと思うようになりました」
耶律哥が歯を見せて笑った。
「お前ならなれるさ。二人を超える軍人に」
耶律哥の心の芯が燃えている。胡土児にはそう感じられた。
いくつかの邑を過ぎていった。軍勢が邑を通るときは、村人は家屋に閉じこもり、息を潜める。それが国の軍隊だろうが賊だろうが、常に徴発や略奪の危険がある。颶風が過ぎ去るのをじっと耐えるように、家の中で震えているのだ。戦が民にとって、不幸を生み出すものでしかないことは、胡土児にもよくわかっていた。
しかし戦人と呼ばれる将たちは、戦場で生きる意味を見出し、強敵を求め合い、ぶつかり合った。胡土児も軍での暮らしが好きだったし、父に従軍し玄旗隊で戦場を駆け回るのは、喜びに近い感情を抱いていた。梁山泊との戦で、赤騎兵が父に肉薄した時は、父の代わりに死ぬつもりで史進に突撃した。重傷を負いながらでも生き残ったのは、僥倖といっていい。
中華の歴史は、奪い合いの歴史でもある。常に隣国の脅威にさらされながら、軍を整備し、戦ってきた。戦をすることが、国の宿命でもあった。金国は今も蒙古の脅威に晒されている。それでも金は、南宋侵攻を強行するだろう。父は中華全土を支配し、金が中華史上、かつてない程強大な国になることを志していた。海陵王は間違いなく、その父の志を成し遂げようとしている。海陵王にとって民一人の思いなど、塵ひとつの価値もないに違いないのだ。しかしそのような国の在り方を、今の胡土児には、どうしても受け入れる事が出来なかった。
「もう少しだ、駆けるぞ」
胡土児は、山道を駆け下りていった。
それは信じられない光景だった。山道を駆け下り原野にでた時、胡土児が目にしたのは、玄旗隊をぐるりと取り囲む地方軍の大軍だった。およそ二万、といったところか。騎兵一万、歩兵一万。二里ほどの距離のところを、鶴翼に広がり布陣している。一千ずつの歩兵が魚鱗の陣で囲み、そのやや後方に、これも一千ずつの騎兵隊が、歩兵の隙間を埋めるように控えている。
「ほう、これはなかなか壮観な眺めだ。隙が全く見当たらない。たった二百騎に、たいそうな歓迎だな」
胡土児が悠長な口調で言った。見ると宋万が肩を震わせている。
「宋万、さっきの威勢はどうした」
胡土児が笑いながら言った。
「あんな軍勢見たことねぇ。正直恐ろしいよ」
「無理もないな。逃げ場はないぞ。お前は戦おうとしなくていい。俺の後ろを決して離れるなよ」
「戦うったってどうするんだ」
「とりあえず歩兵の魚鱗を崩しながら、駆け回って隙を作る。二万と言ってもこれだけ広がれば、包囲の厚みは薄い。隙を見て突破し、黄河まで駆けに駆けるぞ」
敵はすぐに襲い掛かってくる気はなさそうだった。こちらの出方を伺っている様だ。無言でこちらの降伏を訴えかけている様にも見える。玄旗隊の方を振り返ると、皆、充実した気を放っていた。
胡土児はゆっくり進み始めると、片手を挙げ二列縦隊の指示をだしながら速度を上げ、敵の左翼に向かって駆ける。宋万も胡土児の後ろにぴたりとついてくる。
「蕭尤、耶律哥、宋万の脇に付け」
騎馬が勢いに乗る。歩兵は、ぱらぱらと矢を射る程度の動き。胡土児を捕縛するつもりのようだ。
矢を剣で払いながら、勢いをつけ魚鱗の頭を斜めから崩す。そのまま抜け、隣の魚鱗の側面に襲い掛かる。その歩兵の二隊とさらに向こうの一隊が寄り合って、一つの魚鱗になろうとし、玄旗隊の進む方向を塞ごうと動く。隣の魚鱗との間に大きな間隙が生まれた。
「よし、あそこだ」
胡土児少し迂回し、その間隙をめがけて疾駆した。しかし敵の騎馬隊が幾重にも重なり、玄旗隊のゆく手を阻んでくる。見事な騎馬の動きだった。胡土児は突破を諦め、方向を変えた。こんなに見事に騎馬隊を指揮する指揮官が、金国に残っていたのか。退き際、敵陣の中央を見ると、微動だにしない二千騎。「阿」の旗が靡いている。胡土児には覚えのない旗だった。玄旗隊が退がると、敵も元の陣形に戻っていった。