「まずいな」
玄旗隊の馬は山中を一日駆けてきた。これ以上の疾駆は馬が潰れかねない。早いところ突破しないと、隊としての動きが取れなくなる。それを見越しているのか、敵は不気味なほど沈黙している。
「隊長さんよ」
一人の隊員がゆっくり馬を寄せ、声をかけてきた。玄旗隊最古参の兵で、名は魏悠(ぎゆう)という。玄旗隊では珍しい、漢族の出身だ。魏悠は胡土児(コトジ)より十は年長で、並外れた巨躯で各地を転戦し、生き残ってきた。身体には無数の斬り傷が刻まれている。他の隊員達の信頼も厚い。
「玄旗隊の犠牲を少なくしたいのは、わかる。だがこの状況で、そんなことも言っておれまい。百騎ずつ、偃月の陣を二段に敷け。一段目の先頭は俺が行く」
偃月は‘人’の字の陣形で、通常、先頭を大将が務める。騎馬で用いると、この上ない勢いがつき敵中を突破できる陣形だが、大将が討たれることも少なくない。
「いや、それでは犠牲が大きすぎる」
「何が犠牲だ。このまま馬が潰れるのを待つか。俺たちは隊長を黄河の向こうへ連れていく。例え玄旗隊が全滅しても、だ」
胡土児は魏悠の目をじっと見つめた。その涼やかな覚悟が、胡土児の胸を打った。二人の間を、風が吹き抜けていく。
「よし、分かった魏悠。お前の命、この胡土児がもらい受ける」
魏悠がにやりと笑った。その顔の刃傷が、別の生き物のように歪んだ。
胡土児が片手を挙げると、玄旗隊がゆっくりと偃月の陣を二段に敷いた。皆、闘志を胸に秘めているのが、はっきりと感じられた。
良かった。この玄旗隊に出会えたことが。
胡土児は後段の先頭へ馬を進めた。その後ろに宋万。宋万の頬が、涙で濡れていた。その涙が、流れるまま顎から落ちていく。
その脇に蕭尤(しょうゆう)と耶律哥(やりつか)。胡土児はゆっくりと、斜律里の剣を抜いた。
二つの偃月の気が整う。
魏悠の馬が一度棹立ちになった。魏悠が雄叫びを上げ、駆け出そうとする。
「待て、魏悠」
胡土児が叫んだ。
「どうした隊長、怖気づいたか」
「いや、東だ」
敵の右翼が乱れている。何事かが起きている。胡土児は玄旗隊の前に出て、東を凝視した。
「何だ、何かが突き破ってくる」
魏悠が叫ぶ。
騎馬隊が敵陣を突破して、こちらに向かって駆けてくる。およそ千騎。凄まじい速さだ。旗は「呼」
まさか。
千騎はまっすぐ西に向かって駆けている。先頭の一騎が駆けながら、玄旗隊に寄せてきた。右手に構えた七星鞭が異様な気を放つ。
間違いない、呼延凌だ。
「胡土児、久しぶりだな。一旦西に抜けるぞ、秦容の後に続け」
呼延凌はそう叫ぶと、千騎に戻っていった。その後ろにさらに千。旗は「秦」先頭に狼牙棍を構える大柄な武将。その狼牙棍を、胡土児に向かって突き出した。
「遅れるなよ、胡土児」
秦容は、狼牙棍を馬上で振り回した。とんでもない身のこなしだ。そして嬉々としている。
「よし、続くぞ」
胡土児は秦容の千騎の後方へ駆けた。
「なんだよ、俺の覚悟を返せ」
魏悠が叫びながら駆け、玄旗隊が各々付いてくる。
「速い」
胡土児は思わず呟いた。前の二千騎は玄旗隊より数段速く駆けている。二隊は大きく蛇行しながら西の魚鱗に突っ込む。魚鱗が、まるで土の塊が水に溶けるかのように崩れていく。
そこを、玄旗隊が駆け抜けた。
「こんな騎馬隊があるのか」
胡土児がまた呟いた。おそらく天から見れば、二匹の龍が、大きなけものの胃袋を食い破っているように見えるだろう。
あっという間に、玄旗隊は地方軍を突き抜けた。