父の屋敷は庶民のそれそのものであった。違いと言えば、客間がやや広いのと、狭い道場があるくらいだ。耶律家は遼の皇族であるが、この住まいを見ると父の性格が良くわかる。
「戻ったか、阿列」
道場に端座していた父が言った。阿列は短く返事をして、向かい合って座した。
「随分鮮やかにやられたようだな」
「梁山泊の呼延凌、そして小梁山の秦容。この二人を同時に相手して、互する自信がありませんでした。恥じております」
「怖れるべきを怖れるは恥ではない。しかし二度、敗れてはならん」
「肝に銘じます」
「あの地獄のような鍛錬の日々を、思い出せ」
道場には小さな灯りが二つ灯っているだけで、薄暗い。父、慎思(しんし)はいつもここに座って物事を思慮する。その見識は驚くほど広く、南宋、日本のみならず南方の岳都、小梁山、果ては蒲甘や西域まで及んでいる。あらゆる書物を読み漁り、軍学も極めている。この学識が耶律家を守り、育んできたといっていい。
今までの父の言で大きく違えたことなど、一度もないのだ。
「父上、胡土児とは何者なのですか?私は陛下直々に密命を受け、胡土児捕縛の任を賜りました。そして確実に捕らえられる所を、梁山泊の二将軍に阻まれたのです」
父は目を閉じた。流石に顔の皴は深く、考える素振りをすると本当に生きているのか分からなくなる程、別の物のように感じられた。
「胡土児は、あの兀朮(ウジュ)総帥の養子じゃ。兀朮が北の地へ巡察した時に立ち寄った邑で養子にしたのだ。その後、胡土児は兀朮が戦死すると間もなく、軍を去ったという」
「なるほど、陛下は近ごろ近親者を多数粛清された。胡土児も命を狙われて当然、というわけですか」
「いや、海陵王は以前より胡土児を疎んじていたきらいがある。兀朮の養子なら皇位を主張しても不思議ではないが、胡土児はただ、去っていった」
「それを陛下が執拗に追っているわけは?」
「これは儂の憶測じゃが、胡土児はあの、幻王楊令の遺児ではないかと思っておる。であれば呼延凌、秦容が胡土児を救出に向かうのも説明がつくであろう」
「何か確証はございますか」
「いや、ない。しかし『胡』という字は元来、外国を指す字じゃ。金ではない土地の子供。わしは胡土児のことを考えれば考えるほど、その結論に至る。そもそも兀朮が一介の村人の若者を養子にすること自体、不自然なことなのじゃ」
「なら、もし胡土児が楊令の遺児であるならば、呼延凌、秦容は胡土児を担いで梁山泊を再興させるつもりなのかもしれません。陛下にとってそれはどうしても防ぎたい事でしょう」
「今までの海陵王の戦績は、目も当てられんものだが、兀朮という重しがなくなり、即位してからは物事を俯瞰して見れるようになった。奴は今、覇道に心を燃やしているじゃろう」
「陛下は兀朮総帥の志を継ぐ、とはっきり仰いました」
「しかしすでに拠る地のない梁山泊が、精強な騎馬隊を投入できること、また鷹羽衆(おううしゅう)の目を欺き原野に集結した事実を鑑みても、何か裏で見えない力が働いておるのは確かじゃ。阿列、心して戦に臨むのじゃ」
父の目が、力強く阿列を見つめた。
「父上、改めて申し上げます。此度の戦、お出まし頂けますか?」
阿列は意を決して言うと、父はしばし瞑目した。
「いいだろう。お前は禁軍総帥の印綬を受けた。ここで儂が断れば、一族にも累が及ぶであろう」
阿列は、胸をなでおろした。
「しかし心せよ。敵は南宋でも梁山泊でもない」
「どういうことですか?」
「此度の戦、討つべきは海陵王の虚栄心だ」
「なんと」
「戦には大義が必要だ。己の欲望に魂を奪われ、多くの命を巻き込めば、必ず天の報いを受けるであろう。かつての遼のように。お前は禁軍総帥として海陵王に付き従い、その虚栄心が海陵王の器から溢れ出た時、海陵王を斬るのだ」
阿列は言葉が出なかった。沈黙が場を制した。
突然、道場の引き戸が勢いよく開いた。陽の光が一気に道場に差し込む。
光の方を見ると、妻が仁王立ちしていた。
「何を大の大人が薄暗い所でこそこそと。せっかく実家に帰ってきたというのに、こうも湿っぽくては、病気になってしまうわ」
そう言うと、妻は道場の戸を全て開けて回った。道場が光に包まれていく。
「困るのう」
父が眉を顰め、ぼそりと呟いた。