頬を打つ風はとにかく優しく、水面は穏やかだ。沙門島(さもんとう)は今、平和そのものだった。
張朔(ちょうさく)は港の桟橋に立ち、海面を見つめていた。右手には飛礫が握られている。風と水、身体を一つにして気を整える。
張朔はおもむろに飛礫を打った。飛礫が海に吸い込まれ、小さな飛沫を上げる。飛沫が消えたところに、沙丁魚(イワシ)が浮かんでいた。張朔はそれを網で掬うと篭に入れた。 これで篭には五匹の沙丁魚が入っている。張朔は篭を担ぐと、浜の方へ歩いていった。
「高威、魚が捕れたぞ。久しぶりにあれをやろう」
高威はにこりと微笑むと、焚火の準備を始めた。高威は梁山泊水軍の上級将校だった男だ。操船術と指揮が卓越していて、入隊後すぐに頭角を現し、将校として各地を転戦した。しかし高威は戦よりも交易が合っているようで、今は轟交賈の日本方面の交易を一手に担っている。
日本の北の地域でとれる昆布と金を沙門島へ運び、ここから昆布は長江流域に、金は西域に運ぶ。昆布は薬として高値で取引され、西域へは中華の薬や陶磁器、美術品などと共に運び、西域の胡椒や馬、銀等が中華に輸入される。
秦容が拓いた、南方の交易品である甘蔗糖は、もう一人、卜統(ぼくとう)という将校に任せてある。これらの交易による利だけで、国家予算に相当する額になり、かつての梁山泊の糧道となった。
昨年の大戦以前はこの交易路を奪おうと、常に南宋の宰相、秦檜に狙われ続け、梁山泊水軍はその防衛のため戦い続けた。しかし南宋水軍が壊滅し、南宋が盡忠報国(じんちゅうほうこく)の旗を掲げる国になると、水上の敵はいなくなり交易は轟交賈の独壇場となった。
張朔は沙丁魚の鱗と腸を、丁寧に取り除くと海水で洗い、腹に香料を入れ、酒をまぶし竹の葉でくるんだ。焚火の下の砂を板で掘り起こし、そこに魚を並べ再び砂を被せて埋め、その上に焚火を乗せる。
「これでよし」
「もうこれは、張朔殿の得意料理ですね」
高威が、胸の高鳴りを押さえきれない様子で言った。
「このやり方は狄成(てきせい)と項充(こうじゅう)に教わったんだ。二人を偲ぶ意味でも、俺はよくこの料理をするようになったよ」
狄成は赤手隊という、敵の船に乗り移って白兵戦を仕掛ける部隊を率いていた。船の戦では甲冑は身に付けない。代わりに赤い手甲を身に付けていた事から、赤手隊の名がついた。項充は水陸両用部隊を指揮し、平底船による奇襲を得意としていた。
二人はこの沙門島が南宋軍に攻め込まれた時、兵を満載した海鰍船(かいしゅうせん)が上陸するのを阻止するため、二人で海鰍船に忍び込み船底に火を放ち、敵兵もろとも燃え尽きた。もともと南宋の造船所を焼き払う、といった無謀な任務を好むところもあり、長年兄貴分だった李俊が日本で息を引き取ると、口には出さないが、しきりに死にたがった。戦場での同志の死は、生き残った者に大きな翳を落とす。それは死ぬまで、何をもってしても拭い去ることのできないものなのだ。
よく梁山泊水軍は無敗の艦隊だ、と言われるが、その言葉は張朔にとって虚しい響きにしか聞こえない。一つの勝利の度、多くの同志が死んでいったからだ。
特に狄成には幼いころから剣を教わった。剣の鍛錬の時、狄成は竹の棒で容赦なく張朔を打ち据えた。それは何も張朔を虐めていたのではなく、例え打たれても、何度でも立ち上がる男になれ、狄成がそう言っているような気がして、張朔は何度も起き上がっては、狄成に打ち込んでいった。狄成は張朔を子ども扱いせず、一人の男として扱ったのだ。その気持ちが張朔には嬉しかった。
飛礫を教えてくれたのは父だった。父張清は梁山泊の将軍として歩兵を率いて、童貫との決戦に臨んだ。父の飛礫は暗器として、童貫の肩の骨を砕くなど多くの武功を上げた。後に父は童貫に討たれたが、父の飛礫は張朔の誇りとして心に刻まれ、その鍛錬は欠かさなかった。
日本との交易の道を拓いていた母、瓊英(けいえい)は父の死を、幼い張朔を無言で抱きしめることで受け止め、この沙門島の浜で一緒に飛礫を打ってくれた。その母も、去年日本の十三湊で、蝋燭の火が燃え尽きるように、ひっそりと息を引き取った。
張朔が家族と共に過ごした時間は、あまりにも短かった。しかし張朔はそれを嘆いてはいなかった。自分が周りの人間から、十分に愛情を注がれたと感じていたからだ。母が身命を賭し切り開いたこの交易路を南宋から守り、戦で死んでいったもののために戦うことが、張朔の生きる道となった。
そして今、海を脅かすものはなく、交易は我が子がすくすく育つように、活気に満ちていた。