張朔(ちょうさく)にとって、この一年は人生で初めて訪れた、平穏な日々だった。
よく、何故妻帯しないのか、と問われることがある。張朔自身もその気がないわけではないが、交易船の船乗りは人生の大半を船の上で過ごす。家族に寂しい思いをさせてまで妻帯しようとは思わないし、いま船を降りるつもりもない。街に上陸したときなどは妓楼に行くこともあるが、情が寄せられない女を抱くのも、張朔にとって鼻白むものでしかなかった。
「そろそろかな」
張朔は焚火を除けて、丁寧に竹の葉の包みを掘り起こした。砂が付かないように竹の葉を開くと、ふっくらと蒸しあがった沙丁魚(イワシ)が、うまそうな匂いと共に姿を現した。高威が思わず声を漏らした。
「この料理の時は、米の酒に限るな」
張朔は瓢の酒を椀に注ぐと、高威に渡した。沙丁魚は箸を入れると、身がほろりと骨から外れ、口に入れると香料の香りと一緒に、深い味わいが広がった。高威も無言で頬張っている。張朔は酒を呷った。
陽は西に傾き、二人の影が浜に伸びている。静かな時が流れ、波の音が心地いい。沙丁魚はあっという間になくなった。
「こんな平和がいつまでも続くといいですね」
「沙門島は平和だが、中華の民は今、重税と徴兵に苦しんでいる。それに」
張朔は懐から書簡を取り出すと、高威に渡した。
「これは」
高威が書簡に目を通すと、その表情が変わった。
「戦だ。金が水陸から軍を率いて南宋に侵攻する」
「金が水軍を建設するなんて」
「宣凱からの書簡だ。間違いはあるまい。梁山湖の湖寨を改修して造船所にしたようだ。海鰍船(かいしゅうせん)級の大型船二十隻に、舷側の高い中型船がおよそ二百隻」
「金はいつの間にそんな造船技術を」
「詳しいことはわからん。秋の収穫と共に進軍を開始するという宣凱の予想だ。その頃に交易船の中から戦時艤装で、長江の河口流域に船隊を派遣するようにとの要請だ」
「轟交賈(ごうこうこ)が金に戦を仕掛けるのですか」
「いや、おそらく宣凱の独断だろう。金が南宋を呑み込むと、中華の民の生活は一変する。轟交賈の運営にも大きな打撃になるはずだ。簫炫材(しょうけんざい)は今のところ沈黙している。しばらくは宣凱とともに動こうと思う」
「俺も戦いたいです」
「だめだ。お前は交易の指揮を執れ。いま交易の流れを滞らせてはならん。船は少なくなるがお前以外に任せられん。頼む」
張朔は高威の目をじっと見つめた。薪の爆ぜる音だけが耳に残る。
「わかりました。総帥は誰も伴わないのですか」
高威は久しぶりに、張朔を総帥と呼んだ。
「ああ、今轟交賈で動ける人間は俺しかいない。おそらく金水軍は長江へ向かうはずだ。規模からすると、同時戦線で定海から直接臨安府を狙うかもしれん。今割ける船は、中型船が百艘ほどだ。南方の元黎(げんれい)にも援軍を頼むつもりだ」
元黎は南方の元住民で、現地の水軍を組織し、旧南宋水軍と戦った張朔の戦友である。
「舷側の高い中型船、というのが気になります」
さすがに高威は戦の肝を見抜いている。船での戦は不安定な水上で行われる。船底に木を一筋入れるだけでも挙動は変わり、操舵は難しくなる。航行はもとより戦に投入するのであれば、それなりの試行錯誤と調練が必要である。梁山泊水軍の歴史は永い。元小二と趙林が長年、創意工夫を重ねて今の梁山泊水軍がある。しかも船を建造するよりも、水夫を育成する方が、よほど時間がかかるものだ。陸と違い、常に天候、水流、水底あらゆる自然環境を感じ取る感覚が必要だ。船が大型になればなるほど、高い熟練度が要求される。
それが金水軍は、いままで聞いたことのない様相の船を建造し、戦に投入しようとしている。それは相当な造船技術の高さを証明している。考えられることは旧南宋水軍の技術と水夫を、金が手に入れた可能性だが、今考えても仕方のないことだ。
「舷側が高い中型船、考えられるのは赤手隊のような部隊が、鉤縄で船に乗り移るのを難しくすることくらいか。外洋への航行は不可能だろう。舷側が高くなれば船の重心が高くなり波と颶風には耐えられん。河での戦闘か、せいぜい沿岸部の航行くらいだろうな」
「私は不安です。見えているものが少なすぎます。金が水軍を建設したとして、いきなり新型の船の運航などできるのでしょうか」
「情報が少ないのは船乗りの常だ。自分の感覚と経験、仲間を信じるしかない。俺の戦もまさに紙一重だった。お前は今まで通り、交易を差配してくれればいい」
「ご武運を祈っています」
「ああ。梁山湖は俺たちにとって心の聖地だ。その地を踏みにじる金水軍に、俺は負けない」
張朔はまた酒を呷った。身体の中で何かが燃えるのを感じている。
もう陽は沈み、暗闇の中、焚火の火が艶やかに踊り続けている。春も終わりに差し掛かっているが、風は冷たく、火照った身体には心地よかった。
浜風が吹き、炎が一瞬、大きく揺らめいた。