幕舎の中で、逆立ちの姿勢で二刻(一時間)。その後、一抱えの岩を肩に担いで二刻。これは岳霖が調練の後に自ら課した鍛錬だった。父、岳飛が昔この鍛錬を行っていたのを、そのまま自分にも課している。
初めは四半刻も耐えられなかった。
耐えられない、と思うことを自分に禁じた。岩を担いだまま気を失い、気が付くと倒れていて、肩の骨が岩に潰されて折れていたこともあった。しかしこの鍛錬をやめようとは思わなかった。これしきの岩に負けて、盡忠報国(じんちゅうほうこく)の志など実現できるわけもない。岳霖はそう思い定めた。
鍛錬を続けると、次第に半刻、一刻と耐えられるようになり、今では二刻担いでも、わずかに汗をかく程度だ。身体もみるみる頑強になっていった。
岩を担ぎながら様々なことを考えた。国とは何か、軍とは何か、戦とは何か、そして盡忠報国と父のことを。軍営の書架に、書は山ほど積まれているが、そのどれも岳霖の疑問に応えるものはなかった。
父の半生は抗金という、女真族に支配された漢土を奪還することを志としていた。しかし自分を謀殺しようとした南宋の宰相、秦檜(しんかい)を敵と定め、南宋を撃破した後、金国に侵攻しようとした。秦檜は金国との講和を模索していたため、父とは相いれない存在であった。
父は秦檜の南宋を破り、南宋は盡忠報国を旗とした国に生まれ変わった。
そしてすぐさま金国に侵攻を開始し、金国の沙歇と激突した。沙歇は呼延凌に討たれたが、父もまた、沙歇の矢を脇腹に受け、その傷が元で、岳都に帰還後まもなく、力尽きるように死んだ。
岳霖は父の志を継いだ以上、金国への北伐が至上命題であるはずだった。しかし今の南宋を見る限り、民が北伐を望んでいる様には到底思えなかった。
今岳家軍を統轄している張憲は、南宋の内情を掌握するために各地を回ったが、戻ってきた張憲が語ったのは、秦檜の宰相としての類稀な才覚だった。
どの城郭に行っても、秦檜の南宋を富ませる、という強い意志を感じたという。特に秦檜が生み出した交易品である絹織物は、金国や西域まで輸出され莫大な利を生み出していたし、不正や汚職も、細かく律が制定され、極限まで少なかったという。つまり今、南宋は繁栄の途にあるのだ。
南宋とは対照的に、金領の漢族は今、辛酸を嘗め尽くしている。戦のための重税に喘いでいるところを、半年前より始まった徴兵で、民の暮らしは困窮を極め、賊徒が横行し壊滅する邑まで出てきているという。父はこのような、南宋だけが栄えている中華の姿が許せなかったのだ。
盡忠報国は国に忠義を尽くし、恩に報いる、という意味だが父の想う国とはつまり民であり、中華の民をさしている。その点においては、梁山泊の替天行道と重なるところが多い。
しかし岳家軍はついに梁山泊と合流することはなかった。それは童貫と共に干戈を交えた梁山泊とは、連携はしても合流はしない、という父の武人としての誇りがそうさせたに違いない。
もし軍閥として岳家軍を率いていた頃に梁山泊と合流していれば、中華の歴史はまったく違うものになっただろう。そこをそうしない父の不器用さもまた、紛れもない父の姿なのだ。